3日後、凛は退院することになった。
朝、看護師が病室に来て、退院の手続きについて説明してくれた。
「お大事にしてくださいね」
看護師は笑顔で言った。
「無理しないでください。体が資本ですから」
凛は頷いた。
「ありがとうございました」
荷物をまとめ、病室を出る。
廊下を歩く。病院の匂いが、鼻につく。
会計を済ませ、病院の外に出た。
久しぶりの外の空気。
でも、心は晴れない。
凛はスマホを取り出し、メールをチェックした。
会社からのメールが届いている。
「水瀬さん、体調はいかがですか? 無理せず、しっかり休んでください。復帰の目処が立ったら、ご連絡ください」
田中部長からのメールだった。
表面上は優しい言葉。
でも、凛には、その裏にある意味がわかる。
早く戻ってこい。仕事が溜まっている。
凛はスマホをポケットにしまい、駅へ向かった。
電車に乗る。窓の外の景色を、ぼんやりと眺める。
自宅に着くと、凛はドアを開け、部屋に入った。
変わらない部屋。何もない、静かな部屋。
凛は荷物を置き、ソファに座った。
これから、どうすればいいんだろう。
医師は休養を勧めた。でも、会社はそれを許してくれるだろうか。
凛は、深いため息をついた。
その日の夜、凛は布団に入った。
疲れているはずなのに、眠れない。
時計を見る。午後11時45分。
凛はスマホを手に取り、ニュースサイトを開いた。
適当に記事を読み流す。
そのうち眠くなるかもしれない。
そう思っていた時、スマホが震えた。
メールの通知。
凛は、通知をタップした。
差出人は、表示されていない。
件名もない。
ただ、本文だけがある。
凛は、メールを開いた。
「あなたの代わりを1週間します。今なら限定ガチャで好きな過去に戻れます」
凛は、画面を凝視した。
何、これ?
迷惑メール?
でも、普通の迷惑メールとは、何か違う。
凛はスクロールした。
メールの下部には、写真が添付されている。
凛は、その写真を開いた。
画面に映ったのは、自分のデスク。
エクセリア製薬のオフィス。
凛の席。
パソコン。書類の山。そして、凛が使っているマグカップ。
ピンク色のマグカップ。側面には、小さな花の模様。
凛は、息を呑んだ。
これ……今日、撮られた写真?
でも、私は入院していた。会社には行っていない。
凛は、写真を拡大した。
デスクの上の書類。そこには、日付が印刷されている。
今日の日付だ。
凛の心臓が、早鐘を打ち始めた。
どういうこと?
誰が、この写真を撮ったの?
凛は、再びメールの本文を読んだ。
「あなたの代わりを1週間します」
代わり?
「今なら限定ガチャで好きな過去に戻れます」
過去に戻る?
凛は、メールを閉じようとした。
でも、手が止まった。
写真が、あまりにもリアルだった。
凛は、もう一度写真を見た。
マグカップ。書類。パソコン。
全部、本物だ。
凛は、ベッドから起き上がった。
これは、悪質な迷惑メールに違いない。
誰かが、私の情報を盗んで、こんなメールを送ってきたんだ。
凛は、メールを削除しようとした。
でも、指が、削除ボタンに触れる直前で止まった。
写真を、もう一度見る。
マグカップの位置。
書類の配置。
パソコンのキーボードの角度。
全部、完璧だ。
凛は、自分のデスクの写真を、スマホの中から探した。
以前、何かの時に撮った写真があったはずだ。
見つけた。
2ヶ月前に撮った、デスクの写真。
凛は、二つの写真を見比べた。
マグカップの位置が、違う。
書類の配置も、違う。
パソコンの横に置いてある小物も、違う。
つまり、この写真は、今日撮られたもの。
でも、私は会社にいなかった。
じゃあ、誰が?
凛は、深呼吸をした。
落ち着け。
これは、何かのいたずらだ。
でも、誰が、こんなことを?
凛は、メールに返信することにした。
「誰ですか?」
短い文章を打ち、送信ボタンを押した。
送信完了。
凛は、スマホを握りしめたまま、画面を見つめた。
返信が来るだろうか。
1分。
2分。
3分。
何も来ない。
凛は、ため息をついた。
やっぱり、いたずらか。

翌朝、凛は目を覚ました。
スマホを見ると、午前8時。
昨夜、結局返信は来なかった。
凛は、ベッドから起き上がり、洗面所へ向かった。
顔を洗い、鏡を見る。
少しは顔色が良くなったかもしれない。
凛は、キッチンでコーヒーを淹れた。
ソファに座り、スマホを手に取る。
メールをチェックしようとした時、通知が入った。
また、あの差出人不明のメールだ。
凛は、恐る恐るメールを開いた。
「代理人、本日より勤務開始しました。ご確認ください」
本文は、それだけ。
その下に、また写真が添付されている。
凛は、写真を開いた。
画面に映ったのは、会議室。
長テーブルの周りに、何人かが座っている。
田中部長。佐々木。そして……。
凛は、画面を凝視した。
自分がいる。
会議室のテーブルに座り、資料を見ている、自分が。
凛は、写真を拡大した。
その人物の顔。髪型。服装。
全部、自分と同じだ。
いや、違う。自分じゃない。でも、そっくりだ。
凛は、時計を見た。
午前8時35分。
写真の右下には、タイムスタンプが表示されている。
午前8時33分。
つまり、この写真は、2分前に撮られたもの?
凛は、立ち上がった。
ありえない。
私は、ここにいる。会議室になんていない。
でも、写真には、自分がいる。
凛は、手が震えるのを感じた。
背筋が、冷たくなる。
これは、何?
誰が、こんなことを?
凛は、再び写真を見た。
会議室の様子。テーブル。椅子。ホワイトボード。
全部、エクセリア製薬のオフィスだ。
そして、そこにいる自分。
凛は、メールに返信しようとした。
でも、何を書けばいいのかわからない。
これは何ですか?
なぜ、私がそこにいるんですか?
あなたは誰ですか?
疑問が、次々と浮かんでくる。
凛は、結局、返信せずにメールを閉じた。
ソファに座り、深呼吸をする。
落ち着け。
これは、何かのトリックだ。
合成写真か、何かだ。
でも……。
凛は、もう一度写真を見た。
あまりにも、リアルすぎる。

午後になって、また通知が入った。
凛は、スマホを手に取った。
また、あの差出人不明のメールだ。
今度は何?
凛は、メールを開いた。
「本日の業務報告です」
本文の下には、詳細な報告が記載されていた。
「午前8時:出社。メールチェック」
「午前8時30分:営業部との会議。メディアジールの販売戦略について確認」
「午前10時:SNSモニタリング。批判コメントへの対応完了」
「午前11時:田中部長と面談。次回プロモーション企画について協議」
凛は、その報告を読みながら、言葉を失った。
完璧だ。
業務の内容。時間配分。全部、凛がいつもやっている通りだ。
いや、むしろ、凛よりも効率的かもしれない。
凛は、スマホを握りしめた。
もし、本当なら……。
もし、本当に、誰かが私の代わりに会社で働いているなら……。
凛は、メールの返信欄を開いた。
震える手で、文字を打ち始める。
「もし、本当に代わりに働いてくれるなら……過去に戻してください」
消す。
また打つ。
「小学2年生の5月に戻りたい」
凛は、その文章を見つめた。
送信していいのか。
これは、何かの罠かもしれない。
でも……。
凛は、送信ボタンを押した。
送信完了。
凛は、すぐに後悔した。
何やってるんだ、私。
こんなわけのわからないメールに、返信して。
凛は、スマホを投げ出した。
ソファに倒れ込み、天井を見上げる。
疲れてる。
きっと、疲れてるから、こんな変なことをしてしまうんだ。
凛は、目を閉じた。