翌日の午前10時、凛は会議室にいた。
営業部との合同会議。新薬メディアジールの販売戦略についてのプレゼンテーションだ。
凛は資料を手に、プロジェクターの前に立っていた。
会議室には15人ほどが集まっている。田中部長も、最前列に座っている。
「それでは、広報部から、メディアジールのプロモーション戦略についてご説明します」
凛は、用意してきた原稿を読み上げ始めた。
「メディアジールは、当社が開発した画期的な新薬であり、臨床試験において……」
言葉が、スムーズに出てくる。
でも、頭の中は、どこか別のことを考えている。
あの副作用報告書のこと。
89件の症例。
データの空白。
「……高い有効性と、優れた安全性が確認されております」
凛は次のスライドに進めた。
その時、視界が、少しぼやけた。
凛はまばたきをした。でも、ぼやけは消えない。
「次に、ターゲット層についてですが……」
言葉を続けようとする。でも、次の言葉が出てこない。
あれ?
凛は資料を見た。でも、文字が読めない。文字が、ぼやけて見える。
会議室の中が、静かになった。
誰かが、こちらを見ている。
「水瀬さん?」
誰かの声が聞こえる。でも、遠い。
凛は口を開いた。でも、声が出ない。
周囲の音が、だんだん遠くなっていく。
誰かが話している。でも、何を言っているのかわからない。
視界が、さらにぼやける。
凛は資料を落とした。
紙が、バラバラと床に散らばる。
その音も、遠くに聞こえる。
足が、ふらついた。
体を支えようとする。でも、力が入らない。
「水瀬! 大丈夫か!」
田中部長の声。
でも、もう聞こえない。
凛の体が、前に傾いた。
床が、迫ってくる。
白いタイルの床。
その模様が、ゆっくりと、大きくなっていく。
ああ、倒れる。
そう思った瞬間、視界が真っ暗になった。
サイレンの音が聞こえる。
ピーポー、ピーポー。
大きな音。耳をつんざくような音。
凛は目を開けようとした。でも、重い。まぶたが、重い。
誰かが話している。
「バイタル確認。血圧、90の60」
「意識レベル低下」
「過呼吸の兆候あり」
男性の声。落ち着いた声。
凛は、やっと目を開けた。
天井が見える。白い天井。
でも、その天井が動いている。流れている。
蛍光灯が、次々と通り過ぎていく。
ここは……どこ?
凛は体を動かそうとした。でも、動かない。
何かに固定されている。
担架だ。
凛は担架に乗せられ、運ばれている。
「患者、意識戻りました」
また男性の声。
凛の視界に、白衣を着た男性の顔が映った。救急隊員だ。
「大丈夫ですか? 聞こえますか?」
凛は口を開いた。
「……はい」
かすれた声が出た。
「よかった。もうすぐ病院に着きますからね」
救急隊員は優しく言った。
凛は、また天井を見た。
救急車の中。揺れている。サイレンの音が続いている。
何が起きたのか。
凛は思い出そうとした。
会議室。プレゼン。視界がぼやけて、倒れた。
ああ、そうだ。
私、倒れたんだ。
凛は目を閉じた。体が重い。とても重い。
「もうすぐですからね。頑張ってください」
救急隊員の声が、また聞こえた。
凛は、小さく頷いた。
病院に到着すると、凛は別の担架に移され、診察室へ運ばれた。
検査が始まる。
血圧測定。心電図。採血。
医師や看護師が、忙しく動き回っている。
凛は、ただ横たわっているだけだった。
体に力が入らない。
しばらくして、凛は病室に移された。
白い壁。白いシーツ。窓から差し込む、柔らかい午後の光。
看護師が点滴を準備している。
「少し痛みますよ」
看護師は優しく言って、凛の腕に針を刺した。
チクリとした痛み。でも、それも遠くに感じる。
点滴の管から、透明な液体が、ゆっくりと流れ込んでくる。
しばらくして、医師が病室に入ってきた。
40代くらいの男性医師。白衣を着て、カルテを手にしている。
「水瀬さん、気分はいかがですか?」
医師は椅子に座り、凛に尋ねた。
「少し……楽になりました」
凛は小さく答えた。
医師は頷き、カルテに目を落とした。
「検査結果ですが、器質的な異常は見られませんでした。ただ……」
医師は顔を上げ、凛を見つめた。
「過労とストレスによる、自律神経失調症の症状が見られます。おそらく、長期間にわたる過度な負担が原因でしょう」
凛は、医師の言葉を聞いていた。
過労。ストレス。自律神経失調。
知っている言葉だ。でも、それが自分のことだと思うと、実感が湧かない。
「このままの生活を続けると、もっと深刻な症状が出る可能性があります。うつ病や、心身症に発展することもあります」
医師の声は、穏やかだが、厳しかった。
「しばらく休養を取ることをお勧めします。できれば、仕事も休んでください」
凛は、何も言えなかった。
仕事を休む。
そんなこと、できるのか。
記者会見は終わったばかり。プロモーションはこれからが本番。
私が休んだら、誰が……。
「水瀬さん」
医師が、再び呼びかけた。
「あなたの体は、限界を迎えています。もう、無理をしてはいけません」
その言葉を聞いた瞬間、凛の目から、涙が溢れ出た。
止まらない。
涙が、頬を伝って、枕を濡らす。
医師は何も言わず、ただ静かに見守っていた。
看護師が、そっとティッシュを差し出してくれた。
凛は、声を上げて泣いた。
もう、我慢できなかった。
ずっと張り詰めていたものが、一気に崩れていく。
どれくらい泣いていただろう。
気づくと、医師も看護師も、病室を出ていた。
凛は一人、ベッドに横たわっていた。
点滴の管が、まだ腕に刺さっている。
凛は、ゆっくりと呼吸を整えた。
病室で横になっていると、スマホが震えた。
凛は、ベッドサイドのテーブルに置いてあったスマホを手に取った。
画面には、母からのメッセージが表示されている。
凛は、メッセージを開いた。
「凛、会社から連絡があったわ。病院に運ばれたって聞いて、心配で仕方ないの。今、すぐにでも行きたいけど、今日は父の通院があって……明日、病院に行くから。無理しすぎよ、あなた。体が心配。一度、実家に帰ってきなさい」
凛は、画面をスクロールした。
まだメッセージが続いている。
「あなたらしく生きて欲しいの。お母さんが一番願っているのは、あなたが幸せでいること。仕事も大事だけど、あなた自身が一番大事なのよ」
「いつでも帰っておいで。お母さんは、いつでもあなたの味方だから」
凛は、スマホを握りしめた。
母の言葉が、胸に染みる。
返信しなきゃ。
心配かけてしまった。
でも、何て返せばいい?
大丈夫、なんて言えない。大丈夫じゃないから。
ごめん、とも言いたくない。母に謝ることじゃない。
凛は、返信欄に指を置いた。
でも、文字が打てない。
何を書いても、嘘になる気がした。
凛は、スマホの画面を見つめたまま、動けなくなった。
母の優しい言葉が、かえって胸を苦しくさせる。
あなたらしく。
でも、私らしくって、何だろう。
凛は、スマホを胸の上に置き、目を閉じた。
夜になった。
病室の照明が消され、薄暗くなった。
凛は、ベッドに横たわったまま、目を開けていた。
隣のベッドには、70代くらいの女性患者が寝ている。
規則正しい寝息が聞こえる。
窓の外には、街灯が灯っている。
遠くに、車の走る音。
凛は、天井を見つめた。
白い天井。何の模様もない、ただの白い天井。
私、何のために生きてるんだろう。
その疑問が、また浮かんできた。
仕事のため?
でも、仕事は私を壊している。
お金のため?
でも、お金があっても、幸せじゃない。
母のため?
でも、母は私の幸せを願っている。
じゃあ、私は何のために、毎日会社に行って、夜遅くまで働いて、疲れ果てて、倒れて……。
答えが、出ない。
凛は、体を横に向けた。
窓の外の街灯が、ぼんやりと光っている。
あの光の向こうには、何があるんだろう。
凛は、また天井を見上げた。
眠れない。
頭の中には、いろいろな考えが浮かんでは消えていく。
あの副作用報告書のこと。
佐々木の言葉。
田中部長の圧力。
SNSの炎上。
母のメッセージ。
医師の「限界を迎えています」という言葉。
全部が、ぐるぐると回っている。
凛は目を閉じた。
でも、眠れなかった。
営業部との合同会議。新薬メディアジールの販売戦略についてのプレゼンテーションだ。
凛は資料を手に、プロジェクターの前に立っていた。
会議室には15人ほどが集まっている。田中部長も、最前列に座っている。
「それでは、広報部から、メディアジールのプロモーション戦略についてご説明します」
凛は、用意してきた原稿を読み上げ始めた。
「メディアジールは、当社が開発した画期的な新薬であり、臨床試験において……」
言葉が、スムーズに出てくる。
でも、頭の中は、どこか別のことを考えている。
あの副作用報告書のこと。
89件の症例。
データの空白。
「……高い有効性と、優れた安全性が確認されております」
凛は次のスライドに進めた。
その時、視界が、少しぼやけた。
凛はまばたきをした。でも、ぼやけは消えない。
「次に、ターゲット層についてですが……」
言葉を続けようとする。でも、次の言葉が出てこない。
あれ?
凛は資料を見た。でも、文字が読めない。文字が、ぼやけて見える。
会議室の中が、静かになった。
誰かが、こちらを見ている。
「水瀬さん?」
誰かの声が聞こえる。でも、遠い。
凛は口を開いた。でも、声が出ない。
周囲の音が、だんだん遠くなっていく。
誰かが話している。でも、何を言っているのかわからない。
視界が、さらにぼやける。
凛は資料を落とした。
紙が、バラバラと床に散らばる。
その音も、遠くに聞こえる。
足が、ふらついた。
体を支えようとする。でも、力が入らない。
「水瀬! 大丈夫か!」
田中部長の声。
でも、もう聞こえない。
凛の体が、前に傾いた。
床が、迫ってくる。
白いタイルの床。
その模様が、ゆっくりと、大きくなっていく。
ああ、倒れる。
そう思った瞬間、視界が真っ暗になった。
サイレンの音が聞こえる。
ピーポー、ピーポー。
大きな音。耳をつんざくような音。
凛は目を開けようとした。でも、重い。まぶたが、重い。
誰かが話している。
「バイタル確認。血圧、90の60」
「意識レベル低下」
「過呼吸の兆候あり」
男性の声。落ち着いた声。
凛は、やっと目を開けた。
天井が見える。白い天井。
でも、その天井が動いている。流れている。
蛍光灯が、次々と通り過ぎていく。
ここは……どこ?
凛は体を動かそうとした。でも、動かない。
何かに固定されている。
担架だ。
凛は担架に乗せられ、運ばれている。
「患者、意識戻りました」
また男性の声。
凛の視界に、白衣を着た男性の顔が映った。救急隊員だ。
「大丈夫ですか? 聞こえますか?」
凛は口を開いた。
「……はい」
かすれた声が出た。
「よかった。もうすぐ病院に着きますからね」
救急隊員は優しく言った。
凛は、また天井を見た。
救急車の中。揺れている。サイレンの音が続いている。
何が起きたのか。
凛は思い出そうとした。
会議室。プレゼン。視界がぼやけて、倒れた。
ああ、そうだ。
私、倒れたんだ。
凛は目を閉じた。体が重い。とても重い。
「もうすぐですからね。頑張ってください」
救急隊員の声が、また聞こえた。
凛は、小さく頷いた。
病院に到着すると、凛は別の担架に移され、診察室へ運ばれた。
検査が始まる。
血圧測定。心電図。採血。
医師や看護師が、忙しく動き回っている。
凛は、ただ横たわっているだけだった。
体に力が入らない。
しばらくして、凛は病室に移された。
白い壁。白いシーツ。窓から差し込む、柔らかい午後の光。
看護師が点滴を準備している。
「少し痛みますよ」
看護師は優しく言って、凛の腕に針を刺した。
チクリとした痛み。でも、それも遠くに感じる。
点滴の管から、透明な液体が、ゆっくりと流れ込んでくる。
しばらくして、医師が病室に入ってきた。
40代くらいの男性医師。白衣を着て、カルテを手にしている。
「水瀬さん、気分はいかがですか?」
医師は椅子に座り、凛に尋ねた。
「少し……楽になりました」
凛は小さく答えた。
医師は頷き、カルテに目を落とした。
「検査結果ですが、器質的な異常は見られませんでした。ただ……」
医師は顔を上げ、凛を見つめた。
「過労とストレスによる、自律神経失調症の症状が見られます。おそらく、長期間にわたる過度な負担が原因でしょう」
凛は、医師の言葉を聞いていた。
過労。ストレス。自律神経失調。
知っている言葉だ。でも、それが自分のことだと思うと、実感が湧かない。
「このままの生活を続けると、もっと深刻な症状が出る可能性があります。うつ病や、心身症に発展することもあります」
医師の声は、穏やかだが、厳しかった。
「しばらく休養を取ることをお勧めします。できれば、仕事も休んでください」
凛は、何も言えなかった。
仕事を休む。
そんなこと、できるのか。
記者会見は終わったばかり。プロモーションはこれからが本番。
私が休んだら、誰が……。
「水瀬さん」
医師が、再び呼びかけた。
「あなたの体は、限界を迎えています。もう、無理をしてはいけません」
その言葉を聞いた瞬間、凛の目から、涙が溢れ出た。
止まらない。
涙が、頬を伝って、枕を濡らす。
医師は何も言わず、ただ静かに見守っていた。
看護師が、そっとティッシュを差し出してくれた。
凛は、声を上げて泣いた。
もう、我慢できなかった。
ずっと張り詰めていたものが、一気に崩れていく。
どれくらい泣いていただろう。
気づくと、医師も看護師も、病室を出ていた。
凛は一人、ベッドに横たわっていた。
点滴の管が、まだ腕に刺さっている。
凛は、ゆっくりと呼吸を整えた。
病室で横になっていると、スマホが震えた。
凛は、ベッドサイドのテーブルに置いてあったスマホを手に取った。
画面には、母からのメッセージが表示されている。
凛は、メッセージを開いた。
「凛、会社から連絡があったわ。病院に運ばれたって聞いて、心配で仕方ないの。今、すぐにでも行きたいけど、今日は父の通院があって……明日、病院に行くから。無理しすぎよ、あなた。体が心配。一度、実家に帰ってきなさい」
凛は、画面をスクロールした。
まだメッセージが続いている。
「あなたらしく生きて欲しいの。お母さんが一番願っているのは、あなたが幸せでいること。仕事も大事だけど、あなた自身が一番大事なのよ」
「いつでも帰っておいで。お母さんは、いつでもあなたの味方だから」
凛は、スマホを握りしめた。
母の言葉が、胸に染みる。
返信しなきゃ。
心配かけてしまった。
でも、何て返せばいい?
大丈夫、なんて言えない。大丈夫じゃないから。
ごめん、とも言いたくない。母に謝ることじゃない。
凛は、返信欄に指を置いた。
でも、文字が打てない。
何を書いても、嘘になる気がした。
凛は、スマホの画面を見つめたまま、動けなくなった。
母の優しい言葉が、かえって胸を苦しくさせる。
あなたらしく。
でも、私らしくって、何だろう。
凛は、スマホを胸の上に置き、目を閉じた。
夜になった。
病室の照明が消され、薄暗くなった。
凛は、ベッドに横たわったまま、目を開けていた。
隣のベッドには、70代くらいの女性患者が寝ている。
規則正しい寝息が聞こえる。
窓の外には、街灯が灯っている。
遠くに、車の走る音。
凛は、天井を見つめた。
白い天井。何の模様もない、ただの白い天井。
私、何のために生きてるんだろう。
その疑問が、また浮かんできた。
仕事のため?
でも、仕事は私を壊している。
お金のため?
でも、お金があっても、幸せじゃない。
母のため?
でも、母は私の幸せを願っている。
じゃあ、私は何のために、毎日会社に行って、夜遅くまで働いて、疲れ果てて、倒れて……。
答えが、出ない。
凛は、体を横に向けた。
窓の外の街灯が、ぼんやりと光っている。
あの光の向こうには、何があるんだろう。
凛は、また天井を見上げた。
眠れない。
頭の中には、いろいろな考えが浮かんでは消えていく。
あの副作用報告書のこと。
佐々木の言葉。
田中部長の圧力。
SNSの炎上。
母のメッセージ。
医師の「限界を迎えています」という言葉。
全部が、ぐるぐると回っている。
凛は目を閉じた。
でも、眠れなかった。



