翌日の夜、凛はスマホに悠真からのメッセージを受け取った。
「話があります。今から会えますか」
凛は、メッセージを見つめた。
話。
何の話だろう。
凛は、返信した。
「はい。どこで会いますか」
すぐに返信が来た。
「例のカフェで。30分後」
凛は、支度を始めた。
鏡を見る。
疲れた顔。
でも、少しだけ化粧をした。
悠真に会うから。
30分後、凛は病院近くのカフェに着いた。
いつもの席に、悠真が座っていた。
でも、今日の悠真は、いつもと違った。
表情が、硬い。
真剣な顔。
凛は、悠真の向かいに座った。
「こんばんは」
「こんばんは」
二人は、挨拶を交わした。
店員がコーヒーを持ってきた。
店員が去ると、悠真は凛を見た。
「水瀬さん」
「はい」
凛は、緊張した。
悠真の様子が、いつもと違う。
何か、大事な話がある。
「僕、決めました」
悠真は、真っ直ぐに凛を見た。
「病院を、辞めます」
凛は、固まった。
病院を、辞める?
「え……」
凛は、声が出なかった。
「なんで!」
やっと出た声は、大きかった。
周りの客が、こちらを見た。
でも、凛は気にしなかった。
「なんで、病院を辞めるんですか」
凛の声は、震えていた。
悠真は、落ち着いた様子で答えた。
「君を、支えるためです」
凛は、何を言われているのか、理解できなかった。
「支えるって……それと病院を辞めることと、何の関係が……」
「関係があります」
悠真は、コーヒーカップを両手で包んだ。
「僕が病院に勤めている限り、自由に動けません。患者さんたちの証言を集めたり、メディアに協力したり、そういうことに時間を使えません」
凛は、悠真を見つめた。
「でも……」
「君は、一人で戦っています」
悠真の声は、静かだった。
でも、強い意志が込められていた。
「会社と。世間と。そして、自分の心とも」
凛は、何も言えなかった。
「僕には、わかります。君が、どれだけ苦しんでいるか」
悠真は、凛の手に自分の手を重ねた。
「だから、僕も一緒に戦いたい。本気で」
凛の目から、涙が溢れてきた。
「でも、病院を辞めたら……あなたの夢は……」
「夢は、患者さんを救うことです」
悠真は、凛の目を見つめた。
「病院にいても、いなくても、それは変わりません。むしろ、今は病院の外にいた方が、もっと多くの患者さんを救えるかもしれない」
凛は、首を振った。
「そんな……私のせいで、あなたのキャリアを……」
「君のせいじゃありません」
悠真は、凛の手を握った。
「これは、僕自身が決めたことです。僕にできることをする。それだけです」
凛は、涙が止まらなかった。
でも、今度は悲しい涙じゃない。
嬉しい涙。
悠真が、自分のためにここまでしてくれる。
「ありがとう……ございます」
凛は、涙声で言った。
「でも、本当にいいんですか」
「はい」
悠真は、力強く頷いた。
「もう、決めました。来週には、退職願を出します」
凛は、悠真の手を握り返した。
「私……頑張ります」
凛の声は、まだ震えていた。
「あなたが、そこまでしてくれるなら。私も、諦めません」
悠真は、微笑んだ。
優しい笑顔。
「一緒に、最後まで戦いましょう」
凛は、頷いた。
涙を拭う。
「はい。一緒に」
二人は、しばらく手を繋いだまま、座っていた。
店内には、静かな音楽が流れている。
他の客たちの話し声。
コーヒーカップが、カチャリと音を立てる。
でも、二人の間には、温かい空気が流れていた。
もう、一人じゃない。
悠真が、一緒にいてくれる。
本気で、一緒に戦ってくれる。
凛は、心の中で思った。
諦めちゃいけない。
まだ、戦える。
「水瀬さん」
悠真が、また話しかけた。
「はい」
「患者支援団体に、連絡を取ってみました」
悠真は、スマホを取り出した。
「僕の患者さんたちが参加している団体です。彼らも、君を支援したいと言っています」
凛は、驚いた。
「本当ですか」
「はい。明日、代表の方が声明を発表するそうです」
凛は、胸が熱くなった。
患者さんたちが。
自分を、支援してくれる。
「ありがとうございます」
凛は、深く頭を下げた。
「お礼を言うのは、僕じゃなくて、患者さんたちです」
悠真は、優しく言った。
「彼らは、君に感謝しています。真実を明らかにしてくれたことに」
凛は、また涙が出そうになった。
でも、今度はこらえた。
もう、泣かない。
前を向いて、戦う。
翌日の午後、凛はパソコンでニュースサイトを見ていた。
患者支援団体の声明が、発表されるはずだ。
午後2時。
画面を更新する。
新しい記事が、表示された。
「薬害患者支援団体、エクセリア製薬告発者を支持」
凛は、記事を開いた。
心臓が、激しく鳴っている。
記事を読み始める。
「薬害患者を支援する『希望の会』は本日、記者会見を開き、エクセリア製薬の副作用隠蔽を告発した元社員・水瀬凛氏を支持する声明を発表した」
凛は、息を呑んだ。
支持。
自分を、支持してくれている。
「同会代表の佐伯良太氏は『水瀬さんは、真実を明らかにした勇者です。彼女のおかげで、多くの患者が救われる可能性があります』と述べた」
凛の目から、涙が溢れてきた。
勇者。
そんな風に、言ってくれる人がいる。
記事は、続いていた。
「同会には、メディアジールの副作用に苦しむ患者が多数参加している。佐伯氏は『企業は利益を優先し、患者の苦しみを無視してきた。水瀬さんの勇気ある行動を、私たちは全力で支持します』と強調した」
凛は、画面をスクロールした。
記事の下には、コメント欄がある。
いくつかコメントが投稿されている。
「水瀬さんを支持します」
「企業の隠蔽は許せない」
「真実を明らかにしてくれてありがとう」
凛は、一つ一つのコメントを読んでいった。
全部が賛成ではない。
批判的なコメントも、まだある。
「不正アクセスは犯罪だ」
「会社を裏切った」
でも、以前と比べて、擁護の声が増えている。
明らかに、潮目が変わってきている。
凛は、SNSのアプリを開いた。
タイムラインを見る。
「希望の会」のアカウントが、声明を投稿していた。
その投稿には、たくさんのリツイートと「いいね」がついている。
凛は、リプライを読んでいった。
「水瀬さんは正しいことをした」
「企業の不正を許すな」
「患者の声を聞け」
一つ一つの言葉が、凛の心に染みた。
以前は、批判ばかりだった。
誹謗中傷の嵐だった。
でも、今は違う。
擁護してくれる人がいる。
応援してくれる人がいる。
凛は、スマホを握りしめた。
ありがとう。
心の中で、何度も呟いた。
ありがとう。
凛は、窓の外を見た。
澄み渡る空。
太陽が、明るく照らしている。
凛は、深呼吸をした。
胸の中の、重い塊が、少し軽くなった気がした。
まだ、戦いは終わっていない。
これからも、厳しい道が続く。
でも、一人じゃない。
悠真が、一緒にいてくれる。
患者さんたちが、支えてくれる。
世間も、少しずつ変わってきている。
凛は、立ち上がった。
デスクに向かう。
貝殻を手に取る。
光にかざすと、虹色に光る。
凛は、その貝殻を胸に抱いた。
悠真。
約束、守るから。
必ず、あなたを救う。
患者さんたちも、救う。
真実を、最後まで明らかにする。
凛は、心に誓った。
もう、諦めない。
どんなに辛くても。
どんなに厳しくても。
最後まで、戦い抜く。
凛の目には、強い光が宿っていた。
決意の光。
希望の光。
凛は、パソコンの前に座った。
川島弁護士にメールを書く。
「患者支援団体の声明を見ました。これを、裁判で活用できないでしょうか」
送信。
すぐに返信が来た。
「はい。世論の支持は、大きな力になります。患者さんたちの証言も、重要な証拠になります。一緒に、戦いましょう」
凛は、微笑んだ。
一緒に、戦う。
その言葉が、嬉しかった。
凛は、スマホを取り出した。
悠真に、メッセージを送る。
「ありがとうございます。患者支援団体の声明、見ました。勇気をもらいました」
すぐに、返信が来た。
「よかったです。これから、もっと多くの人が君を支持してくれるはずです。一緒に頑張りましょう」
凛は、スマホを握りしめた。
一緒に、頑張る。
悠真の言葉が、心に響く。
凛は、窓の外を見た。
雲が、流れている。
風が、吹いている。
世界は、動いている。
そして、凛も、動き始めた。
もう、立ち止まらない。
前を向いて、歩き続ける。
凛は、深呼吸をした。
そして、次にやるべきことを考え始めた。

数日後、凛のスマホに病院から連絡が来た。
「お母様、本日退院できます」
凛は、その言葉を聞いて、胸が熱くなった。
母が、退院できる。
良くなったんだ。
凛は、すぐに病院へ向かった。
病室に着くと、母はすでに私服に着替えていた。
ベッドの上に、荷物がまとめられている。
「お母さん」
凛は、病室に入った。
母が、振り向いた。
顔色が、良くなっている。
笑顔が、戻っている。
「凛、来てくれたのね」
母は、嬉しそうに言った。
「もう、大丈夫なの?」
凛は、母に駆け寄った。
「ええ。血圧も安定したわ。先生が、退院していいって」
母は、凛の手を取った。
温かい手。
前に触れた時は、冷たかった。
でも、今は温かい。
「良かった……」
凛は、涙が溢れそうになった。
「本当に、良かった」
母は、凛を抱きしめた。
しっかりと。
強く。
「凛。お母さんね、あなたのこと、誇りに思ってるのよ」
母の声が、耳元で聞こえた。
「え……」
凛は、驚いた。
「あなたは、正しいことをしたわ。辛かったでしょう。苦しかったでしょう。でも、あなたは逃げなかった」
母の声は、優しかった。
でも、強さもあった。
「お母さんは、あなたを誇りに思う。心から」
凛は、もう我慢できなかった。
涙が、溢れ出た。
声を出して、泣いた。
母の胸に顔を埋めて。
「ごめんなさい……心配かけて……」
凛の声は、涙でかすれていた。
「謝らなくていいのよ」
母は、凛の背中を撫でた。
「あなたは、何も悪くない」
凛は、初めて救われた気持ちになった。
母に、認めてもらえた。
誇りに思うと、言ってもらえた。
それが、どれだけ嬉しいか。
どれだけ心に響くか。
凛は、涙が止まらなかった。
でも、今度は悲しい涙じゃない。
嬉しい涙。
安心の涙。
母は、凛をずっと抱きしめていた。
凛が落ち着くまで。
しばらくして、凛は顔を上げた。
涙を拭う。
「ありがとう、お母さん」
凛は、笑顔を作った。
母も、笑顔で答えた。
「さあ、帰りましょう」
二人は、病院を出た。
母の荷物を、凛が持った。
タクシーで、母の家へ。
凛は、母を家まで送り届けた。
「無理しないでね」
凛は、母に言った。
「あなたもよ」
母は、凛の頬に手を当てた。
「頑張ってね。でも、一人で抱え込まないで」
凛は、頷いた。
「わかった」
母と別れ、凛は自分の家に戻った。
部屋に入ると、スマホに通知が来ていた。
メール。
差出人不明。
凛は、メールを開いた。
件名はない。
本文だけがある。
「水瀬さん。佐々木です。会社のアドレスからは送れないので、こちらから送ります」
凛の心臓が、ドキッとした。
佐々木。
元同僚の、佐々木さん。
凛は、続きを読んだ。
「あれから、ずっと考えていました。君のこと。会社のこと。自分のこと」
「君は、間違ってない。君がやったことは、正しいことだった。僕も、それはわかっています」
凛は、画面を凝視した。
佐々木さんが、そう言ってくれている。
「僕も、あの報告書のことを知っていました。副作用が隠蔽されていることを。でも、僕は何もしなかった。見て見ぬふりをした」
「それが、ずっと良心の痛みになっています」
凛は、唇を噛んだ。
佐々木さんも、苦しんでいたんだ。
「君は、勇気を出して、真実を明らかにした。僕には、できなかったことを。だから、君を尊敬しています。本当に」
凛の目から、涙が溢れてきた。
佐々木さん。
ありがとう。
でも、メールは続いていた。
「ただ、申し訳ないのですが、僕は証言することができません」
凛の胸が、締め付けられた。
「家族がいます。住宅ローンもあります。今、会社を辞めることはできません。君を支援できなくて、本当にごめんなさい。でも、君のことは応援しています。陰ながら、ずっと。頑張ってください。君なら、きっとできる」
メールは、そこで終わっていた。
凛は、スマホを握りしめた。
複雑な気持ちだった。
佐々木さんが、自分を支持してくれている。
それは、嬉しい。
でも、証言はしてくれない。
それは、わかる。
佐々木さんにも、守るべきものがある。
家族。
生活。
それを犠牲にしてまで、戦えとは言えない。
凛は、深呼吸をした。
佐々木さんは、精一杯のことをしてくれた。
こうしてメールを送ってくれた。
それだけで、十分だ。
凛は、返信を書いた。
「佐々木さん、メールありがとうございます。証言のことは、気にしないでください。佐々木さんの気持ちだけで、十分です。応援してくれて、ありがとうございます」
送信。
凛は、スマホを置いた。
窓の外を見る。
夕焼けが、空を染めている。
オレンジ色の空。
きれいな空。
凛は、立ち上がった。
もう、迷わない。
前を向いて、戦う。
その時、スマホが鳴った。
着信。
悠真からだ。
凛は、電話に出た。
「もしもし」
「水瀬さん。今から、会えますか」
悠真の声。
「はい。大丈夫です」
「じゃあ、川島先生の事務所で会いましょう。新しい戦略を、一緒に考えたいんです」
凛の心臓が、高鳴った。
新しい戦略。
「わかりました。すぐに行きます」
凛は、支度を始めた。
カバンを持つ。
その中に、貝殻を入れる。
いつも持っていたい。
悠真との、約束の証。
凛は、部屋を出た。
駅へ向かう。
電車に乗る。
川島法律事務所へ。
事務所に着くと、悠真がすでに待っていた。
応接室に入ると、川島も座っていた。
「お待ちしていました」
川島は、凛を迎えた。
三人は、テーブルを囲んで座った。
「それでは、これからの戦略について話し合いましょう」
川島は、資料を開いた。
「患者支援団体の声明は、大きな力になります。これを活用して、世論をさらに味方につけていきましょう」
凛は、頷いた。
「宮下先生には、医学的な見地から、メディアジールの副作用について証言していただきます」
悠真も、頷いた。
「はい。僕の患者さんたちにも、証言をお願いしています」
川島は、続けた。
「水瀬さんには、内部告発者として、会社の隠蔽体質について証言していただきます」
凛は、深呼吸をした。
「わかりました」
「不正アクセスについては、公益性を強く主張します。患者の命を守るために、やむを得なかった行為だと」
川島の目は、真剣だった。
「簡単な戦いではありません。でも、勝てない戦いでもありません」
凛は、悠真を見た。
悠真も、凛を見ていた。
二人は、同時に頷いた。
「最後まで、戦いましょう」
凛は、そう言った。
悠真は、凛の手を取った。
「一緒に」
凛は、悠真の手を握り返した。
「はい。一緒に」
川島は、二人を見て、微笑んだ。
「いいコンビですね」
三人は、これからの計画を、詳しく話し合った。
証拠の整理。
証人のリスト。
メディア戦略。
一つ一つ、確認していった。
打ち合わせは、2時間ほど続いた。
終わった時、凛の心は、以前とは違っていた。
重かった心が、軽くなっていた。
希望の光が、見えていた。
事務所を出ると、外はすでに暗くなっていた。
街灯が、点々と灯っている。
「水瀬さん」
悠真が、凛に話しかけた。
「はい」
「少し、歩きませんか」
凛は、頷いた。
二人は、並んで歩き始めた。
静かな夜。
人通りは、少ない。
「今日、お母様が退院されたんですよね」
悠真が、言った。
「はい。元気になって、本当に良かったです」
凛は、笑顔で答えた。
「お母様、何ておっしゃってました?」
凛は、少し考えた。
それから、答えた。
「誇りに思う、って」
悠真は、微笑んだ。
「素敵なお母様ですね」
「はい」
凛も、微笑んだ。
「私、救われました。お母さんの言葉に」
悠真は、凛の手を取った。
「僕も、君を誇りに思います」
凛は、驚いて悠真を見た。
悠真の目は、優しかった。
真剣だった。
「君は、本当に強い人です」
凛の目から、涙が溢れそうになった。
でも、こらえた。
「ありがとうございます」
二人は、手を繋いだまま、歩き続けた。
夜の街を。
静かな街を。
でも、二人の心は、温かかった。
希望に満ちていた。
凛は、空を見上げた。
星が、いくつか見えた。
きれいな星。
凛は、思った。
まだ、戦いは続く。
厳しい道が、待っている。
でも、もう大丈夫。
一人じゃない。
悠真が、一緒にいてくれる。
母も、応援してくれている。
患者さんたちも、支えてくれている。
そして、佐々木さんのような人も、陰ながら応援してくれている。
凛は、もう迷わない。
前を向いて、歩き続ける。
最後まで、戦い抜く。
凛の心に、強い決意が芽生えていた。