自宅に戻ると、凛は段ボール箱を床に置いた。
部屋は、静かだった。
凛は、ソファに座り込んだ。
疲れた。
体も、心も。
凛は、スマホを取り出した。
何通かメッセージが来ている。
母からだ。
「凛、大丈夫? 新聞の記事、見たわ」
「心配してるの。連絡ちょうだい」
凛は、母に返信しようとした。
でも、その前に、ニュースアプリの通知が目に入った。
「エクセリア製薬、副作用隠蔽疑惑で株価急落」
凛は、記事を開いた。
エクセリア製薬の株価が、前日比15パーセント下落したという内容だった。
記事には、会社の声明も載っていた。
「当社は記事の内容を真摯に受け止め、調査を進めております」
凛は、スマホを置いた。
始まったばかりだ。
これから、もっと大きな波が来る。
凛は、目を閉じた。
その時、スマホが震えた。
通知。
SNSの通知だ。
凛は、スマホを手に取った。
メンション通知が、10件以上ある。
凛は、嫌な予感がした。
アプリを開く。
タイムラインには、自分の名前が並んでいた。
「水瀬凛」
「エクセリア製薬」
「内部告発」
凛は、一番上のツイートを開いた。
「エクセリア製薬を裏切った社員、水瀬凛の顔写真。こいつのせいで何人が職を失うと思ってるんだ」
そのツイートには、凛の顔写真が添付されていた。
社員証の写真。
誰が、流したんだろう。
凛は、手が震えるのを感じた。
スクロールする。
次のツイート。
「水瀬凛、住所特定。〇〇市〇〇町〇〇マンション」
凛の心臓が、止まりそうになった。
住所まで。
なぜ。
さらにスクロールする。
「裏切り者は許すな」
「会社を潰した犯罪者」
「不正アクセスで逮捕されろ」
「こいつのせいで株が暴落した。損失補償しろ」
誹謗中傷の嵐。
凛は、スマホを握りしめた。
手が、震えている。
通知が、止まらない。
ブーン。ブーン。
スマホが、震え続ける。
メンション。リプライ。ダイレクトメッセージ。
全部、批判。
全部、非難。
凛は、SNSを閉じようとした。
でも、閉じる前に、一つのツイートが目に入った。
「水瀬凛の母親、〇〇に住んでるらしい。実家にも電凸するか」
凛は、血の気が引いた。
母。
母まで、巻き込まれる。
凛は、すぐに母に電話をかけた。
コール音が鳴る。
一回。
二回。
三回。
「もしもし」
母の声。
でも、いつもと違う。
疲れた声。
「お母さん、大丈夫?」
凛は、焦って聞いた。
「凛……」
母の声が、小さい。
「ごめんね。心配かけて」
「大丈夫よ。でも、凛、あなたの方は……」
母の声が、途切れた。
「お母さん?」
凛は、不安になった。
「ごめんね。ちょっと、近所で噂になっててね」
母は、辛そうに言った。
「ネットで、あなたの名前が出てたから」
凛は、唇を噛んだ。
母まで。
母まで、苦しめてしまった。
「ごめんなさい……」
凛の声が、震えた。
「謝らなくていいのよ」
母は、優しく言った。
「あなたは、正しいことをしたんだから」
「でも……」
「大丈夫。お母さんは、大丈夫だから」
母の声は、無理に明るくしているように聞こえた。
「凛、あなたの方こそ、大丈夫?」
「うん。大丈夫」
凛は、嘘をついた。
大丈夫じゃない。
全然、大丈夫じゃない。
でも、母には心配かけたくない。
「そう。よかった」
母は、ほっとしたように言った。
「じゃあ、また連絡するわね」
「うん。無理しないでね」
「あなたもよ」
母は、電話を切った。
凛は、スマホを見つめた。
母の声。
疲れていた。
辛そうだった。
凛は、自分のせいだと思った。
全部、自分のせいだ。
スマホが、また震えた。
通知。
また、SNSの通知。
凛は、スマホを床に投げ出した。
見たくない。
もう、見たくない。
でも、スマホは震え続けている。
ブーン。ブーン。
止まらない。
凛は、両手で耳を塞いだ。
でも、音は聞こえる。
通知の音。
スマホの振動。
凛は、ソファに倒れ込んだ。
クッションに顔を埋める。
息ができない。
苦しい。
凛は、顔を上げた。
深呼吸をする。
落ち着け。
落ち着かなきゃ。
でも、落ち着けない。
スマホは、まだ震えている。
凛は、スマホを手に取った。
通知を見る。
50件以上。
全部、批判。
凛は、アプリを開いた。
ダイレクトメッセージ。
「死ね」
「消えろ」
「裏切り者」
たった二文字、三文字のメッセージ。
でも、その一つ一つが、凛の心を抉る。
凛は、スマホを握りしめた。
画面が、涙で滲む。
いつの間にか、泣いていた。
凛は、スマホを床に置いた。
通知音を消す。
でも、画面は光り続けている。
新しい通知が、次々と来る。
凛は、スマホから目を離した。
窓の外を見る。
夕暮れ。
朱に染まる空。
きれいな空。
でも、凛の心は、暗かった。
これが、代償なのか。
真実を明らかにした、代償。
凛は、目を閉じた。
でも、すぐに目を開けた。
スマホが、鳴っている。
着信。
母からだ。
凛は、慌ててスマホを取った。
「お母さん?」
「凛さんですか」
母の声じゃない。
女性の声。
看護師か、誰か。
凛の心臓が、激しく鳴り始めた。
「はい、娘です」
凛の声が、震えた。
「お母様が、倒れられました」
凛は、息が止まった。
「今、救急車で病院に向かっています」
「え……どこの病院ですか」
凛は、必死に聞いた。
「〇〇総合病院です」
「すぐに行きます」
凛は、電話を切った。
立ち上がる。
カバンを掴む。
家を飛び出す。
階段を駆け下りる。
エレベーターを待つ余裕もない。
外に出て、タクシーを拾う。
「〇〇総合病院まで、急いでください」
凛は、運転手に言った。
「わかりました」
タクシーが、発進する。
凛は、後部座席で、手を握りしめた。
お母さん。
凛は、目を閉じた。
母の顔が浮かんでくる。
疲れた声。
辛そうな声。
あの電話の時、もう限界だったんだ。
なのに、私は気づかなかった。
凛は、唇を噛んだ。
自分のせいだ。
母を、苦しめた。
母を、倒れさせた。
全部、自分のせいだ。
タクシーが、病院に着いた。
「ありがとうございます」
凛は、料金を払って飛び出した。
病院の入り口へ走る。
受付で、母の名前を告げる。
「救急で運ばれてきた、水瀬知世の家族です」
受付の女性が、パソコンを確認する。
「3階の救急外来です。エレベーターで上がってください」
「ありがとうございます」
凛は、エレベーターに駆け込んだ。
ボタンを押す。
上昇する。
遅い。
こんなに遅かったか。
凛は、イライラした。
早く。
早く、お母さんのところへ。
3階に着いた。
ドアが開く。
凛は、飛び出した。
救急外来の看板を探す。
あった。
凛は、走った。
廊下を走る。
看護師が、「走らないでください」と注意したが、凛は止まらなかった。
救急外来の待合室に着いた。
そこに、医師と看護師が立っていた。
「すみません。水瀬知世の娘です」
凛は、息を切らしながら言った。
医師が、凛を見た。
「お母様は、今、処置中です」
「容態は……」
凛は、震える声で聞いた。
「ストレス性の高血圧です。血圧が急上昇して、倒れられました」
医師は、落ち着いた声で説明した。
「命に別状はありませんが、しばらく安静が必要です」
凛は、ほっとした。
命に別状はない。
よかった。
でも、すぐに罪悪感が襲ってきた。
ストレス性。
凛のせいだ。
凛が、母にストレスを与えた。
「お母様は、最近、強いストレスを受けていませんでしたか」
医師が、凛に尋ねた。
凛は、何も答えられなかった。
答えられない。
自分のせいだと、わかっているから。
「……はい」
凛は、やっと答えた。
「そうですか」
医師は、何も言わなかった。
でも、その目には、何かが浮かんでいた。
「今後は、ストレスを避けるようにしてください。このままでは、もっと深刻な事態になりかねません」
凛は、頷いた。
「わかりました」
医師は、処置室の方を見た。
「もうすぐ、一般病棟に移します。そうしたら、面会できますから」
「ありがとうございます」
凛は、頭を下げた。
医師と看護師は、処置室に戻っていった。
凛は、待合室の椅子に座り込んだ。
両手で顔を覆う。
涙が、溢れてきた。
お母さん、ごめんなさい。
心の中で、何度も謝った。
私のせいで。
私が、真実を明らかにしたせいで。
あなたまで、苦しめてしまった。
凛は、声を殺して泣いた。
待合室には、他にも何人かいたが、誰も凛に声をかけなかった。
ただ、静かに見守っているだけだった。
しばらくして、看護師が来た。
「水瀬さん、お母様が病室に移りました。面会できますよ」
凛は、顔を上げた。
涙を拭く。
「ありがとうございます」
凛は、立ち上がった。
看護師について、病室へ向かう。
廊下を歩く。
足が、重い。
病室の前に着いた。
看護師が、ドアを開けた。
「どうぞ」
凛は、中に入った。
ベッドに、母が横たわっていた。
点滴を受けている。
顔色は、悪い。
でも、目は開いている。
凛を見て、微笑んだ。
「凛……」
母の声。
弱々しい声。
凛は、ベッドの横に駆け寄った。
「お母さん!」
凛は、母の手を握った。
冷たい手。
「ごめんなさい。心配かけて」
母は、申し訳なさそうに言った。
「そんな……謝るのは、私の方です」
凛は、涙が止まらなかった。
「私のせいで、こんなことに……」
「違うわ」
母は、首を振った。
「あなたのせいじゃない」
「でも……」
「凛」
母は、凛の手を握り返した。
「あなたは、正しいことをしたの。お母さんは、誇りに思ってるわ」
凛は、涙で前が見えなくなった。
「でも、お母さんが倒れて……」
「大丈夫よ。お母さんは、大丈夫だから」
母は、優しく微笑んだ。
「あなたの方こそ、大変でしょう。一人で、戦ってるんでしょう」
凛は、何も言えなかった。
母は、全部わかっている。
凛が、どんなに辛い状況にいるか。
どんなに孤独か。
全部、わかっている。
「お母さん……」
凛は、母の手を強く握りしめた。
「ありがとう」
母は、凛の頭を撫でた。
「頑張ってね、凛。お母さんは、いつでもあなたの味方だから」
凛は、泣き崩れた。
母の手を握りしめたまま。
看護師が、そっとドアを閉めた。
二人だけの時間。
凛は、しばらく泣き続けた。
母は、何も言わず、ただ凛の頭を撫で続けた。

しばらくして、凛は顔を上げた。
涙を拭く。
「お母さん、休んで。私は大丈夫だから」
凛は、できるだけ笑顔を作った。
母は、心配そうに凛を見た。
「本当に、大丈夫?」
「うん。大丈夫」
凛は、嘘をついた。
大丈夫じゃない。
でも、母には心配かけられない。
「そう。じゃあ、気をつけて帰ってね」
母は、疲れた声で言った。
「うん。また明日来るから」
凛は、母の手を握った。
「ゆっくり休んでね」
母は、頷いた。
凛は、病室を出た。
廊下を歩く。
足が、重い。
エレベーターに乗る。
1階に降りる。
病院の外に出ると、すでに夜になっていた。
凛は、スマホを取り出した。
通知が、また溜まっている。
でも、見る気がしない。
凛は、スマホをポケットにしまった。
その時、メールの通知が鳴った。
凛は、反射的にスマホを見た。
差出人は、悠真。
件名:「お話があります」
凛の心臓が、ドキッとした。
悠真から。
凛は、メールを開いた。
「水瀬さん、お話ししたいことがあります。明日の夜、お時間ありますか。例のカフェで会えないでしょうか」
凛は、そのメールを何度も読み返した。
悠真は、知ったんだ。
凛が、情報源だということを。
凛は、返信を書いた。
「わかりました。明日の夜7時でよろしいでしょうか」
送信。
凛は、スマホを握りしめた。
怖い。
悠真に、会うのが怖い。
何を言われるんだろう。
凛は、深呼吸をした。
でも、逃げられない。
悠真に、ちゃんと会って、説明しなければ。
翌日の夜、凛は病院近くのカフェに向かった。
母の容態は、安定していた。
凛は、昼間に病院を訪れ、母と少し話をした。
母は、「気にしないで。あなたのやるべきことをやりなさい」と言ってくれた。
でも、凛の心は、重かった。
カフェに着くと、悠真はすでに席に座っていた。
窓際の席。
いつもの席。
でも、今日は雰囲気が違う。
悠真の表情が、硬い。
凛は、悠真の向かいに座った。
「こんばんは」
凛は、小さく挨拶した。
「こんばんは」
悠真も、小さく答えた。
二人の間に、重い沈黙が流れた。
店員が、注文を取りに来た。
二人とも、コーヒーを頼んだ。
凛は、悠真の顔を見ることができなかった。
「水瀬さん」
悠真が、やっと口を開いた。
「はい」
凛は、顔を上げた。
悠真は、凛を見ていた。
その目には、複雑な感情が浮かんでいた。
「あの記事……君が、情報源だったのか」
悠真の声は、低かった。
凛は、何も答えられなかった。
答えなくても、わかる。
沈黙が、答えだ。
悠真は、ため息をついた。
「そうか……」
悠真は、コーヒーカップを手に取った。
でも、飲まない。
ただ、持っているだけ。
「僕を……利用したのか」
悠真の言葉が、凛の心に突き刺さった。
「違います」
凛は、反射的に答えた。
でも、声が震えている。
「違う?」
悠真は、凛を見た。
「じゃあ、何だったんだ。僕との取材は。患者の話を聞いたのは」
凛は、唇を噛んだ。
何と答えればいい。
利用したわけじゃない。
でも、悠真の情報を使ったのは事実だ。
「僕は……君を信頼していた」
悠真の声が、さらに低くなった。
「患者のことを、君に話した。君なら、わかってくれると思ったから」
凛は、胸が苦しくなった。
「でも、君は……それを記事にした」
「違います」
凛は、必死に言った。
「私は、ただ真実を明らかにしたかっただけです」
「真実?」
悠真は、凛を見つめた。
「君が明らかにした真実で、何人の人が傷ついたと思う?」
凛は、何も言えなかった。
「会社の社員。その家族。株主。取引先」
悠真は、一つ一つ数えた。
「みんな、君の真実で、苦しんでいる」
「でも……」
凛は、言葉を探した。
「患者さんたちは、もっと苦しんでいます」
悠真は、黙った。
凛は、続けた。
「メディアジールの副作用で、苦しんでいる人がいます。その人たちを、救いたかったんです」
「それは、僕だって同じだ」
悠真の声が、少し大きくなった。
「僕だって、患者を救いたい。でも、君のやり方は……」
悠真は、言葉を切った。
そして、コーヒーカップを置いた。
「君のやり方は、正しかったのか」
凛は、何も答えられなかった。
正しかったのか。
わからない。
ただ、真実を明らかにしたかった。
それだけだった。
「水瀬さん」
悠真が、また口を開いた。
「僕は、君のこと、特別だと思っていた」
凛の心臓が、激しく鳴った。
「でも……今は、わからない」
悠真は、立ち上がった。
「ごめん。もう行くよ」
「待ってください」
凛も、立ち上がった。
でも、悠真は振り返らなかった。
「もう少し、考えさせてくれ」
悠真は、そう言って、カフェを出て行った。
凛は、その場に立ち尽くした。
追いかけられない。
追いかけても、何を言えばいい。
凛は、椅子に座り込んだ。
両手で顔を覆う。
悠真。
凛は、心の中で叫んだ。
でも、悠真は、もういない。
店員が、心配そうに凛を見ていた。
でも、何も言わなかった。
凛は、しばらくそのまま座っていた。
そして、コーヒー代を払って、カフェを出た。
外は、暗かった。
凛は、家に向かって歩き始めた。
足が、重い。
心も、重い。
悠真の言葉が、頭の中で繰り返される。
「僕を利用したのか」
「君のやり方は、正しかったのか」
凛は、答えられなかった。
ただ、歩き続けた。
家に着くと、凛は部屋に入った。
電気をつける。
静かな部屋。
凛は、ソファに座り込んだ。
スマホを取り出す。
通知が、また溜まっている。
でも、見る気がしない。
凛は、連絡先を開いた。
友人たちの名前が、並んでいる。
でも、誰からも連絡が来ていない。
みんな、凛から距離を置いている。
凛は、スマホを置いた。
一人だ。
完全に、一人だ。
悠真も、友人も、みんないなくなった。
凛は、膝を抱えた。
ソファの上で、小さく丸くなる。
部屋は、静かだった。
時計の秒針の音だけが、聞こえる。
カチ、カチ、カチ。
凛は、テレビのリモコンを手に取った。
電源を入れる。
画面に、ニュース番組が映った。
「エクセリア製薬の副作用隠蔽疑惑について、同社は全面的に否定しています」
アナウンサーの声。
画面には、エクセリア製薬の社長が映っている。
記者会見の映像だ。
「当社は、適切な手続きを経て医薬品を販売しております。副作用の隠蔽などという事実は、一切ございません」
社長の声。
堂々としている。
「今回の報道は、元社員による不正な情報漏洩によるものです。当社は、法的措置を検討しております」
凛は、テレビを見つめた。
元社員。
それが、凛だ。
画面が切り替わる。
コメンテーターが、話している。
「内部告発というのは難しい問題ですね。確かに、公益性はあるかもしれませんが、不正アクセスという手段は問題です」
別のコメンテーターが、続ける。
「企業にも、守るべき情報があります。それを一方的に漏らすのは、いかがなものかと」
凛は、テレビを消した。
見ていられない。
みんな、会社の味方だ。
凛の味方は、誰もいない。
凛は、ソファに倒れ込んだ。
天井を見つめる。
白い天井。
何もない天井。
凛は、目を閉じた。
でも、眠れない。
頭の中では、いろいろな声が響いている。
「裏切り者」
「会社を潰した」
「僕を利用したのか」
「君のやり方は、正しかったのか」
全部、凛を責める声。
凛は、耳を塞いだ。
でも、声は消えない。
頭の中で、ずっと響いている。
凛は、体を起こした。
窓の外を見る。
雨が降り始めていた。
窓ガラスに、雨粒が当たる音。
パタパタという音。
凛は、窓に近づいた。
ガラスに手を当てる。
冷たい。
外の景色は、雨で霞んでいる。
街灯の光が、ぼんやりと見える。
凛は、そこに立ち尽くした。
「全部、失った」
凛は、小さく呟いた。
仕事。
友人。
悠真。
母の健康。
全部、失った。
真実を明らかにするために。
でも、その代償は、あまりにも大きかった。
凛は、カバンから貝殻を取り出した。
悠真がくれた、貝殻。
手のひらに乗せる。
小さな貝殻。
光にかざせば、虹色に光るはずの貝殻。
でも、今は光らない。
部屋が、暗いから。
凛は、貝殻を握りしめた。
悠真。
ごめんなさい。
心の中で、謝った。
私、あなたを救おうとしたのに。
でも、あなたを傷つけてしまった。
あなたを、失ってしまった。
もう、救えないかもしれない。
凛の目から、涙が溢れてきた。
止まらない。
凛は、床に座り込んだ。
貝殻を握りしめたまま。
涙が、頬を伝う。
床に、落ちる。
凛は、声を出して泣いた。
誰もいない部屋で。
一人で。
雨の音だけが、部屋に響いていた。
窓の外では、雨が激しく降っている。
凛は、泣き続けた。
どれくらい泣いていただろう。
気づくと、涙は止まっていた。
凛は、顔を上げた。
窓の外を見る。
雨は、まだ降っている。
凛は、貝殻を見つめた。
これが、全部だ。
残ったのは、この貝殻だけ。
悠真との思い出。
約束の証。
でも、その約束は、もう果たせないかもしれない。
凛は、貝殻を胸に抱いた。
立ち上がる。
ベッドに向かう。
そのまま、倒れ込んだ。
貝殻を握りしめたまま。
目を閉じる。
でも、眠れない。
頭の中は、まだざわついている。
悠真の顔。
母の顔。
みんなの顔。
全部、浮かんでくる。
凛は、枕に顔を埋めた。
このまま、消えてしまいたい。
そんな考えが、頭をよぎった。
でも、消えられない。
生きなきゃいけない。
戦わなきゃいけない。
でも、どうやって。
もう、誰も味方がいない。
一人で、どうやって戦えばいい。
凛は、わからなかった。
答えが、出ない。
ただ、暗闇の中で、凛は横たわっていた。
雨の音が、ずっと続いていた。
これが、凛の最も暗い夜だった。