翌日の夜、凛は木村記者から返信を受け取った。
「今夜、会えますか?」
凛は、すぐに返信した。
「はい。どこで会いますか?」
「駅前のファミレス。23時」
「わかりました」
凛は、時計を見た。
午後10時。
あと1時間。
凛は、USBメモリをカバンに入れた。
そして、印刷したデータも持っていくことにした。
証拠は、多い方がいい。
凛は、家を出た。
深夜の街。
人通りは少ない。
凛は、駅前のファミレスに向かった。
店内に入ると、奥の席に木村記者が座っていた。
40代半ばの男性。
真面目そうな顔。
凛は、その席に向かった。
「木村さん」
「水瀬さん。お久しぶりです」
木村は、立ち上がって握手を求めた。
凛は、その手を握った。
「お忙しいところ、ありがとうございます」
「いえ。重大な情報があると聞いて、気になっていました」
二人は、席に座った。
店員がメニューを持ってきたが、二人ともコーヒーだけを注文した。
店員が去ると、木村は凛を見た。
「それで、何の話ですか?」
凛は、周りを見回した。
他の客は、数人しかいない。
みんな、自分たちの会話に夢中だ。
凛は、カバンからUSBメモリを取り出した。
「これを、見てください」
凛は、USBメモリを木村に渡した。
木村は、USBメモリを手に取った。
「これは……?」
「エクセリア製薬の内部データです」
凛は、小声で言った。
「メディアジールの副作用報告です」
木村の表情が、変わった。
「副作用報告?」
「はい。会社は、公式には副作用を認めていません。でも、実際には150件以上の報告があります」
木村は、驚愕の表情で凛を見た。
「150件?」
「はい。重篤なケースも、35件あります。死亡例も、3件」
凛は、さらに続けた。
「会社は、データを隠蔽しています」
木村は、USBメモリを握りしめた。
「これは……大変なことですよ」
「わかっています」
凛は、真剣な顔で答えた。
「だから、木村さんに相談したんです」
木村は、少し考えた。
「裏取りに、時間がかかります」
「どのくらいですか?」
「少なくとも、2週間は必要です。患者への取材、専門家の意見、そして会社への取材も必要です」
凛は、頷いた。
「わかりました」
木村は、凛を見つめた。
「水瀬さん、これを出したら、あなたの立場は危うくなりますよ」
「覚悟しています」
凛は、はっきりと答えた。
木村は、少し驚いたように凛を見た。
それから、頷いた。
「わかりました。私も、全力で取材します」
翌週、凛は悠真との取材を重ねていた。
患者支援の連載企画という名目で、週に2回ほど会っていた。
カフェで話すことが多かった。
病院近くの、静かなカフェ。
悠真は、いつも真剣に患者たちのことを話してくれた。
凛は、その話を聞きながら、悠真への思いが深まっていくのを感じていた。
ある日の午後、いつものカフェで悠真と会った。
「水瀬さん、最近、頑張ってますね」
悠真は、コーヒーを飲みながら言った。
「え?」
凛は、驚いて悠真を見た。
「患者支援の記事、すごく丁寧に書いてくれています。患者さんたちも、喜んでいます」
凛は、少し照れくさくなった。
「それは、宮下先生が詳しく教えてくださったおかげです」
「いえ、水瀬さんの熱意があるからです」
悠真は、凛を見つめた。
「君は、特別な人だ」
凛の心臓が、激しく鳴った。
特別な人。
悠真に、そう言われた。
「そんな……」
凛は、言葉に詰まった。
「本当ですよ」
悠真は、真剣な顔で言った。
「ただ仕事だからというだけで、ここまで熱心に取材してくれる人は少ない」
凛は、胸が苦しくなった。
仕事だから、じゃない。
あなたを救いたいから。
あなたと患者たちを、守りたいから。
でも、それは言えない。
今は、まだ言えない。
「私も……」
凛は、小さく言った。
「え?」
悠真は、凛を見た。
「私も、宮下先生のこと、尊敬しています」
凛は、それだけ言った。
本当は、もっと言いたいことがある。
でも、今は言えない。
会社との戦いが終わってから。
真実を明らかにしてから。
そうしたら、ちゃんと伝えよう。
悠真は、少し照れくさそうに笑った。
「ありがとうございます」
凛は、その笑顔を見て、胸が温かくなった。
この笑顔を、守りたい。
この人の未来を、守りたい。
凛は、改めて思った。
「水瀬さん」
悠真が、また話しかけた。
「はい」
「もし、何か困ったことがあったら、いつでも相談してください」
悠真は、真剣な顔で言った。
「僕にできることなら、何でも協力します」
凛は、涙が出そうになった。
優しい人。
本当に、優しい人。
「ありがとうございます」
凛は、笑顔で答えた。
「でも、大丈夫です。今は」
嘘だ。
本当は、たくさん困っている。
会社との戦い。
記者との連絡。
証拠の準備。
全部、一人で抱えている。
でも、悠真には心配かけたくない。
悠真は、少し心配そうな顔をした。
「本当に、大丈夫ですか?」
「はい」
凛は、強く頷いた。
「私、強いんです」
悠真は、少し安心したように笑った。
「そうですね。水瀬さんは、強い人だ」
凛は、その言葉に救われた気がした。
強くならなきゃ。
悠真を、守るために。
2週間後の朝、凛は自宅で目を覚ました。
いつものように、スマホのアラームを止める。
時刻は午前6時。
凛は、ベッドから起き上がり、キッチンへ向かった。
コーヒーを淹れる。
いつもの朝。
でも、今日は違う。
今日、記事が出る。
木村記者から、昨夜メールが来ていた。
「明日の朝刊、一面です」
凛は、そのメールを何度も読み返した。
ついに、この日が来た。
真実が、明らかになる日。
凛は、コーヒーを飲みながら、窓の外を見た。
まだ暗い。
でも、東の空が、少しずつ明るくなり始めている。
新しい一日が、始まろうとしている。
凛は、深呼吸をした。
覚悟は、できている。
会社は、激怒するだろう。
田中部長も。
同僚たちも。
みんな、凛を責めるだろう。
でも、それでいい。
真実を明らかにすることが、正しい。
凛は、コーヒーカップを置いた。
そして、着替えを始めた。
いつものスーツ。
鏡を見る。
今日が、最後の出社になるかもしれない。
凛は、カバンに荷物を詰めた。
財布。スマホ。
時計を見る。
午前7時。
凛は、家を出た。
近くのコンビニへ向かう。
凛は、店内に入った。
新聞コーナーへ向かう。
そこには、各紙の朝刊が並んでいた。
凛は、木村記者が所属する新聞を手に取った。
一面を見る。
大きな見出し。
「大手製薬企業、新薬副作用を隠蔽か」
その下には、小さく「内部資料で判明 重篤例35件、死亡例も」と書かれている。
凛の心臓が、激しく鳴った。
本当に、出た。
記事が、出た。
凛は、新聞を買い、コンビニを出た。
外のベンチに座り、記事を読み始めた。
「大手製薬会社エクセリア製薬が販売する新薬『メディアジール』について、重篤な副作用が多数報告されているにもかかわらず、同社がこれを隠蔽していた疑いがあることが、内部資料から明らかになった」
凛は、読み進めた。
「本紙が入手した内部資料によると、メディアジールの副作用報告は150件以上に上り、うち35件が重篤なケース、3件は死亡例だった。しかし、同社は公式には『軽微なもの数件のみ』と発表していた」
記事には、患者の証言も掲載されている。
匿名だが、悠真の患者たちの声だ。
「この薬を飲み始めてから、めまいと頭痛が止まらない。でも、製薬会社は副作用を認めてくれない」
凛は、記事を読みながら、涙が出そうになった。
ついに、真実が明らかになった。
記事の最後には、エクセリア製薬のコメントも載っていた。
「当社は適切な手続きを経て医薬品を販売しており、隠蔽の事実はありません。記事の内容については、事実関係を確認の上、適切に対応いたします」
凛は、新聞を閉じた。
会社は、否定するだろう。
でも、証拠はある。
真実は、もう隠せない。
凛は、スマホを取り出した。
時刻は午前7時30分。
会社に向かわなければ。
凛は、立ち上がった。
その瞬間、スマホが震えた。
着信。
田中部長からだ。
凛は、スマホを見つめた。
手が、震えている。
深呼吸をする。
そして、電話に出た。
「はい、水瀬です」
「水瀬! 今すぐ会社に来い!」
田中部長の怒鳴り声が、耳をつんざいた。
「はい」
凛は、できるだけ冷静に答えた。
「新聞を見たか!」
「はい、見ました」
「今すぐ来い。すぐにだ!」
田中部長は、一方的に電話を切った。
凛は、スマホを握りしめた。
始まった。
凛は、駅へ向かった。
電車に乗る。
車内には、通勤客が大勢いる。
何人かが、新聞を読んでいる。
あの記事を、読んでいるのだろうか。
凛は、窓の外を見た。
流れる景色。
いつもと同じ景色。
でも、今日は違う。
全てが、変わろうとしている。
会社に着くと、凛はエレベーターに乗った。
広報部のフロアへ。
ドアが開く。
オフィスに入ると、異様な雰囲気だった。
みんな、慌ただしく動いている。
電話の音。
話し声。
誰もが、緊迫した表情をしている。
凛が入ってきたことに、何人かが気づいた。
視線が、凛に集中する。
冷たい視線。
非難の視線。
凛は、それを感じながら、自分のデスクへ向かった。
その時、田中部長が部屋から出てきた。
「水瀬!」
田中部長の声が、オフィス中に響いた。
「すぐに会議室へ来い!」
凛は、頷いた。
「はい」
凛は、カバンを持ったまま、会議室へ向かった。
会議室のドアを開けると、中にはすでに何人もの役員が座っていた。
社長。
副社長。
法務部長。
そして、田中部長。
みんな、険しい表情をしている。
「座れ」
社長が、冷たく言った。
凛は、テーブルの端の席に座った。
重い沈黙。
誰も、口を開かない。
凛は、手を膝の上に置いた。
震えている。
でも、顔は上げたままだ。
「水瀬」
社長が、口を開いた。
「今朝の新聞記事を見たか」
「はい」
凛は、はっきりと答えた。
「あの記事の情報源は、お前か」
凛は、一瞬、沈黙した。
ここで嘘をつくこともできる。
でも、もう逃げない。
「はい」
凛は、答えた。
会議室が、ざわついた。
「やはりな」
法務部長が、苦々しく言った。
「社内データベースへの不正アクセスの形跡がある。お前のアカウントからだ」
凛は、何も言わなかった。
否定しても、無駄だ。
証拠がある。
「水瀬」
社長が、再び口を開いた。
「なぜ、こんなことをした」
凛は、社長を見た。
「真実を、明らかにしたかったからです」
「真実?」
社長の声が、低くなった。
「お前が明らかにしたのは、会社の機密情報だ。それを外部に漏らすことが、真実を明らかにすることなのか」
「メディアジールの副作用は、隠蔽されていました」
凛は、震える声で言った。
「150件以上の報告があるのに、会社は認めていない。患者さんたちが、苦しんでいます」
「それは、適切な手続きを経て判断された結果だ」
法務部長が、口を挟んだ。
「副作用かどうかの判断は、専門家が行う。お前のような素人が、勝手に判断することではない」
凛は、唇を噛んだ。
専門家?
データを削除して、隠蔽した専門家?
「水瀬」
田中部長が、凛を見た。
「お前、わかってるのか。お前がやったことは、背信行為だ。会社を裏切ったんだぞ」
凛は、田中部長を見返した。
「私は、真実を明らかにしただけです」
「真実?」
田中部長は、声を荒げた。
「お前の言う真実が、どれだけの人に迷惑をかけるかわかってるのか。株価は暴落する。社員は職を失うかもしれない。取引先にも影響が出る」
凛は、何も答えなかった。
それは、わかっている。
でも、だからといって、真実を隠していいわけじゃない。
「水瀬」
社長が、最後通告のように言った。
「お前の行為は、就業規則違反だ。不正アクセス、機密情報の漏洩。これは、懲戒解雇に値する」
凛の心臓が、止まりそうになった。
解雇。
わかっていた。
覚悟していた。
でも、実際に言われると、衝撃が大きい。
「明日から、来なくていい」
社長は、冷たく言った。
「今日中に、荷物をまとめて出て行け」
凛は、立ち上がった。
「わかりました」
凛の声は、意外にも落ち着いていた。
震えていない。
「それから」
法務部長が、追い打ちをかけるように言った。
「不正アクセスと情報漏洩については、法的措置を検討する。弁護士から連絡が行くだろう」
凛は、頷いた。
「わかりました」
凛は、会議室を出た。
ドアを閉める。
廊下に、一人立つ。
深呼吸をする。
終わった。
会社での生活が、終わった。
凛は、オフィスに戻った。
自分のデスクへ向かう。
周りの同僚たちが、凛を見ている。
でも、誰も話しかけてこない。
みんな、距離を置いている。
凛は、デスクの引き出しを開けた。
私物をまとめる。
ペン。ノート。マグカップ。
そして、貝殻。
凛は、貝殻を手に取った。
これだけは、絶対に忘れない。
凛は、段ボール箱に荷物を詰めた。
そんなに多くない。
たった一つの箱で、収まってしまう。
凛は、箱を抱えて立ち上がった。
オフィスを見渡す。
何年も働いた場所。
でも、もう戻ることはない。
凛は、ロッカーへ向かった。
ロッカーを開け、私物を取り出す。
予備の靴。
折りたたみ傘。
化粧ポーチ。
全部、箱に入れる。
ロッカーを閉める。
最後に、社員証を外した。
これも、もう必要ない。
凛は、田中部長のデスクへ向かった。
田中部長は、パソコンに向かって何かを打っていた。
凛の気配に気づき、顔を上げた。
「何だ」
冷たい声。
「社員証、返却します」
凛は、社員証をデスクに置いた。
田中部長は、それを見たが、何も言わなかった。
ただ、引き出しにしまっただけだ。
凛は、頭を下げた。
「お世話になりました」
田中部長は、何も答えなかった。
ただ、また パソコンに向き直った。
凛は、オフィスを出た。
エレベーターに乗る。
箱を抱えたまま。
下降していく。
1階に着いた。
ドアが開く。
凛は、ロビーを歩いた。
受付の女性が、凛を見た。
でも、何も言わない。
ただ、目を逸らした。
凛は、回転ドアを押した。
外に出る。
冷たい空気が、顔に当たる。
凛は、ビルを振り返った。
エクセリア製薬。
ここで、何年も働いた。
でも、もう戻ることはない。
凛は、前を向いた。
箱を抱えたまま、歩き始めた。
誰も、見送ってくれなかった。
誰も、声をかけてくれなかった。
一人。
凛は、一人だった。
でも、それでいい。
凛は、真実を選んだ。
その代償が、これだ。
凛は、歩き続けた。
駅へ向かう。
道行く人々が、箱を抱えた凛を不思議そうに見る。
でも、凛は気にしなかった。
ただ、前を向いて歩いた。
貝殻が、箱の中で小さな音を立てた。
凛は、その音を聞いて、少し微笑んだ。
悠真。
私、やったよ。
真実を、明らかにした。
これから、どうなるかわからない。
でも、後悔はしていない。
凛は、空を見上げた。
抜けるような青い空。
真っ白な雲。
その空の下を、凛は一人で歩いていた。
「今夜、会えますか?」
凛は、すぐに返信した。
「はい。どこで会いますか?」
「駅前のファミレス。23時」
「わかりました」
凛は、時計を見た。
午後10時。
あと1時間。
凛は、USBメモリをカバンに入れた。
そして、印刷したデータも持っていくことにした。
証拠は、多い方がいい。
凛は、家を出た。
深夜の街。
人通りは少ない。
凛は、駅前のファミレスに向かった。
店内に入ると、奥の席に木村記者が座っていた。
40代半ばの男性。
真面目そうな顔。
凛は、その席に向かった。
「木村さん」
「水瀬さん。お久しぶりです」
木村は、立ち上がって握手を求めた。
凛は、その手を握った。
「お忙しいところ、ありがとうございます」
「いえ。重大な情報があると聞いて、気になっていました」
二人は、席に座った。
店員がメニューを持ってきたが、二人ともコーヒーだけを注文した。
店員が去ると、木村は凛を見た。
「それで、何の話ですか?」
凛は、周りを見回した。
他の客は、数人しかいない。
みんな、自分たちの会話に夢中だ。
凛は、カバンからUSBメモリを取り出した。
「これを、見てください」
凛は、USBメモリを木村に渡した。
木村は、USBメモリを手に取った。
「これは……?」
「エクセリア製薬の内部データです」
凛は、小声で言った。
「メディアジールの副作用報告です」
木村の表情が、変わった。
「副作用報告?」
「はい。会社は、公式には副作用を認めていません。でも、実際には150件以上の報告があります」
木村は、驚愕の表情で凛を見た。
「150件?」
「はい。重篤なケースも、35件あります。死亡例も、3件」
凛は、さらに続けた。
「会社は、データを隠蔽しています」
木村は、USBメモリを握りしめた。
「これは……大変なことですよ」
「わかっています」
凛は、真剣な顔で答えた。
「だから、木村さんに相談したんです」
木村は、少し考えた。
「裏取りに、時間がかかります」
「どのくらいですか?」
「少なくとも、2週間は必要です。患者への取材、専門家の意見、そして会社への取材も必要です」
凛は、頷いた。
「わかりました」
木村は、凛を見つめた。
「水瀬さん、これを出したら、あなたの立場は危うくなりますよ」
「覚悟しています」
凛は、はっきりと答えた。
木村は、少し驚いたように凛を見た。
それから、頷いた。
「わかりました。私も、全力で取材します」
翌週、凛は悠真との取材を重ねていた。
患者支援の連載企画という名目で、週に2回ほど会っていた。
カフェで話すことが多かった。
病院近くの、静かなカフェ。
悠真は、いつも真剣に患者たちのことを話してくれた。
凛は、その話を聞きながら、悠真への思いが深まっていくのを感じていた。
ある日の午後、いつものカフェで悠真と会った。
「水瀬さん、最近、頑張ってますね」
悠真は、コーヒーを飲みながら言った。
「え?」
凛は、驚いて悠真を見た。
「患者支援の記事、すごく丁寧に書いてくれています。患者さんたちも、喜んでいます」
凛は、少し照れくさくなった。
「それは、宮下先生が詳しく教えてくださったおかげです」
「いえ、水瀬さんの熱意があるからです」
悠真は、凛を見つめた。
「君は、特別な人だ」
凛の心臓が、激しく鳴った。
特別な人。
悠真に、そう言われた。
「そんな……」
凛は、言葉に詰まった。
「本当ですよ」
悠真は、真剣な顔で言った。
「ただ仕事だからというだけで、ここまで熱心に取材してくれる人は少ない」
凛は、胸が苦しくなった。
仕事だから、じゃない。
あなたを救いたいから。
あなたと患者たちを、守りたいから。
でも、それは言えない。
今は、まだ言えない。
「私も……」
凛は、小さく言った。
「え?」
悠真は、凛を見た。
「私も、宮下先生のこと、尊敬しています」
凛は、それだけ言った。
本当は、もっと言いたいことがある。
でも、今は言えない。
会社との戦いが終わってから。
真実を明らかにしてから。
そうしたら、ちゃんと伝えよう。
悠真は、少し照れくさそうに笑った。
「ありがとうございます」
凛は、その笑顔を見て、胸が温かくなった。
この笑顔を、守りたい。
この人の未来を、守りたい。
凛は、改めて思った。
「水瀬さん」
悠真が、また話しかけた。
「はい」
「もし、何か困ったことがあったら、いつでも相談してください」
悠真は、真剣な顔で言った。
「僕にできることなら、何でも協力します」
凛は、涙が出そうになった。
優しい人。
本当に、優しい人。
「ありがとうございます」
凛は、笑顔で答えた。
「でも、大丈夫です。今は」
嘘だ。
本当は、たくさん困っている。
会社との戦い。
記者との連絡。
証拠の準備。
全部、一人で抱えている。
でも、悠真には心配かけたくない。
悠真は、少し心配そうな顔をした。
「本当に、大丈夫ですか?」
「はい」
凛は、強く頷いた。
「私、強いんです」
悠真は、少し安心したように笑った。
「そうですね。水瀬さんは、強い人だ」
凛は、その言葉に救われた気がした。
強くならなきゃ。
悠真を、守るために。
2週間後の朝、凛は自宅で目を覚ました。
いつものように、スマホのアラームを止める。
時刻は午前6時。
凛は、ベッドから起き上がり、キッチンへ向かった。
コーヒーを淹れる。
いつもの朝。
でも、今日は違う。
今日、記事が出る。
木村記者から、昨夜メールが来ていた。
「明日の朝刊、一面です」
凛は、そのメールを何度も読み返した。
ついに、この日が来た。
真実が、明らかになる日。
凛は、コーヒーを飲みながら、窓の外を見た。
まだ暗い。
でも、東の空が、少しずつ明るくなり始めている。
新しい一日が、始まろうとしている。
凛は、深呼吸をした。
覚悟は、できている。
会社は、激怒するだろう。
田中部長も。
同僚たちも。
みんな、凛を責めるだろう。
でも、それでいい。
真実を明らかにすることが、正しい。
凛は、コーヒーカップを置いた。
そして、着替えを始めた。
いつものスーツ。
鏡を見る。
今日が、最後の出社になるかもしれない。
凛は、カバンに荷物を詰めた。
財布。スマホ。
時計を見る。
午前7時。
凛は、家を出た。
近くのコンビニへ向かう。
凛は、店内に入った。
新聞コーナーへ向かう。
そこには、各紙の朝刊が並んでいた。
凛は、木村記者が所属する新聞を手に取った。
一面を見る。
大きな見出し。
「大手製薬企業、新薬副作用を隠蔽か」
その下には、小さく「内部資料で判明 重篤例35件、死亡例も」と書かれている。
凛の心臓が、激しく鳴った。
本当に、出た。
記事が、出た。
凛は、新聞を買い、コンビニを出た。
外のベンチに座り、記事を読み始めた。
「大手製薬会社エクセリア製薬が販売する新薬『メディアジール』について、重篤な副作用が多数報告されているにもかかわらず、同社がこれを隠蔽していた疑いがあることが、内部資料から明らかになった」
凛は、読み進めた。
「本紙が入手した内部資料によると、メディアジールの副作用報告は150件以上に上り、うち35件が重篤なケース、3件は死亡例だった。しかし、同社は公式には『軽微なもの数件のみ』と発表していた」
記事には、患者の証言も掲載されている。
匿名だが、悠真の患者たちの声だ。
「この薬を飲み始めてから、めまいと頭痛が止まらない。でも、製薬会社は副作用を認めてくれない」
凛は、記事を読みながら、涙が出そうになった。
ついに、真実が明らかになった。
記事の最後には、エクセリア製薬のコメントも載っていた。
「当社は適切な手続きを経て医薬品を販売しており、隠蔽の事実はありません。記事の内容については、事実関係を確認の上、適切に対応いたします」
凛は、新聞を閉じた。
会社は、否定するだろう。
でも、証拠はある。
真実は、もう隠せない。
凛は、スマホを取り出した。
時刻は午前7時30分。
会社に向かわなければ。
凛は、立ち上がった。
その瞬間、スマホが震えた。
着信。
田中部長からだ。
凛は、スマホを見つめた。
手が、震えている。
深呼吸をする。
そして、電話に出た。
「はい、水瀬です」
「水瀬! 今すぐ会社に来い!」
田中部長の怒鳴り声が、耳をつんざいた。
「はい」
凛は、できるだけ冷静に答えた。
「新聞を見たか!」
「はい、見ました」
「今すぐ来い。すぐにだ!」
田中部長は、一方的に電話を切った。
凛は、スマホを握りしめた。
始まった。
凛は、駅へ向かった。
電車に乗る。
車内には、通勤客が大勢いる。
何人かが、新聞を読んでいる。
あの記事を、読んでいるのだろうか。
凛は、窓の外を見た。
流れる景色。
いつもと同じ景色。
でも、今日は違う。
全てが、変わろうとしている。
会社に着くと、凛はエレベーターに乗った。
広報部のフロアへ。
ドアが開く。
オフィスに入ると、異様な雰囲気だった。
みんな、慌ただしく動いている。
電話の音。
話し声。
誰もが、緊迫した表情をしている。
凛が入ってきたことに、何人かが気づいた。
視線が、凛に集中する。
冷たい視線。
非難の視線。
凛は、それを感じながら、自分のデスクへ向かった。
その時、田中部長が部屋から出てきた。
「水瀬!」
田中部長の声が、オフィス中に響いた。
「すぐに会議室へ来い!」
凛は、頷いた。
「はい」
凛は、カバンを持ったまま、会議室へ向かった。
会議室のドアを開けると、中にはすでに何人もの役員が座っていた。
社長。
副社長。
法務部長。
そして、田中部長。
みんな、険しい表情をしている。
「座れ」
社長が、冷たく言った。
凛は、テーブルの端の席に座った。
重い沈黙。
誰も、口を開かない。
凛は、手を膝の上に置いた。
震えている。
でも、顔は上げたままだ。
「水瀬」
社長が、口を開いた。
「今朝の新聞記事を見たか」
「はい」
凛は、はっきりと答えた。
「あの記事の情報源は、お前か」
凛は、一瞬、沈黙した。
ここで嘘をつくこともできる。
でも、もう逃げない。
「はい」
凛は、答えた。
会議室が、ざわついた。
「やはりな」
法務部長が、苦々しく言った。
「社内データベースへの不正アクセスの形跡がある。お前のアカウントからだ」
凛は、何も言わなかった。
否定しても、無駄だ。
証拠がある。
「水瀬」
社長が、再び口を開いた。
「なぜ、こんなことをした」
凛は、社長を見た。
「真実を、明らかにしたかったからです」
「真実?」
社長の声が、低くなった。
「お前が明らかにしたのは、会社の機密情報だ。それを外部に漏らすことが、真実を明らかにすることなのか」
「メディアジールの副作用は、隠蔽されていました」
凛は、震える声で言った。
「150件以上の報告があるのに、会社は認めていない。患者さんたちが、苦しんでいます」
「それは、適切な手続きを経て判断された結果だ」
法務部長が、口を挟んだ。
「副作用かどうかの判断は、専門家が行う。お前のような素人が、勝手に判断することではない」
凛は、唇を噛んだ。
専門家?
データを削除して、隠蔽した専門家?
「水瀬」
田中部長が、凛を見た。
「お前、わかってるのか。お前がやったことは、背信行為だ。会社を裏切ったんだぞ」
凛は、田中部長を見返した。
「私は、真実を明らかにしただけです」
「真実?」
田中部長は、声を荒げた。
「お前の言う真実が、どれだけの人に迷惑をかけるかわかってるのか。株価は暴落する。社員は職を失うかもしれない。取引先にも影響が出る」
凛は、何も答えなかった。
それは、わかっている。
でも、だからといって、真実を隠していいわけじゃない。
「水瀬」
社長が、最後通告のように言った。
「お前の行為は、就業規則違反だ。不正アクセス、機密情報の漏洩。これは、懲戒解雇に値する」
凛の心臓が、止まりそうになった。
解雇。
わかっていた。
覚悟していた。
でも、実際に言われると、衝撃が大きい。
「明日から、来なくていい」
社長は、冷たく言った。
「今日中に、荷物をまとめて出て行け」
凛は、立ち上がった。
「わかりました」
凛の声は、意外にも落ち着いていた。
震えていない。
「それから」
法務部長が、追い打ちをかけるように言った。
「不正アクセスと情報漏洩については、法的措置を検討する。弁護士から連絡が行くだろう」
凛は、頷いた。
「わかりました」
凛は、会議室を出た。
ドアを閉める。
廊下に、一人立つ。
深呼吸をする。
終わった。
会社での生活が、終わった。
凛は、オフィスに戻った。
自分のデスクへ向かう。
周りの同僚たちが、凛を見ている。
でも、誰も話しかけてこない。
みんな、距離を置いている。
凛は、デスクの引き出しを開けた。
私物をまとめる。
ペン。ノート。マグカップ。
そして、貝殻。
凛は、貝殻を手に取った。
これだけは、絶対に忘れない。
凛は、段ボール箱に荷物を詰めた。
そんなに多くない。
たった一つの箱で、収まってしまう。
凛は、箱を抱えて立ち上がった。
オフィスを見渡す。
何年も働いた場所。
でも、もう戻ることはない。
凛は、ロッカーへ向かった。
ロッカーを開け、私物を取り出す。
予備の靴。
折りたたみ傘。
化粧ポーチ。
全部、箱に入れる。
ロッカーを閉める。
最後に、社員証を外した。
これも、もう必要ない。
凛は、田中部長のデスクへ向かった。
田中部長は、パソコンに向かって何かを打っていた。
凛の気配に気づき、顔を上げた。
「何だ」
冷たい声。
「社員証、返却します」
凛は、社員証をデスクに置いた。
田中部長は、それを見たが、何も言わなかった。
ただ、引き出しにしまっただけだ。
凛は、頭を下げた。
「お世話になりました」
田中部長は、何も答えなかった。
ただ、また パソコンに向き直った。
凛は、オフィスを出た。
エレベーターに乗る。
箱を抱えたまま。
下降していく。
1階に着いた。
ドアが開く。
凛は、ロビーを歩いた。
受付の女性が、凛を見た。
でも、何も言わない。
ただ、目を逸らした。
凛は、回転ドアを押した。
外に出る。
冷たい空気が、顔に当たる。
凛は、ビルを振り返った。
エクセリア製薬。
ここで、何年も働いた。
でも、もう戻ることはない。
凛は、前を向いた。
箱を抱えたまま、歩き始めた。
誰も、見送ってくれなかった。
誰も、声をかけてくれなかった。
一人。
凛は、一人だった。
でも、それでいい。
凛は、真実を選んだ。
その代償が、これだ。
凛は、歩き続けた。
駅へ向かう。
道行く人々が、箱を抱えた凛を不思議そうに見る。
でも、凛は気にしなかった。
ただ、前を向いて歩いた。
貝殻が、箱の中で小さな音を立てた。
凛は、その音を聞いて、少し微笑んだ。
悠真。
私、やったよ。
真実を、明らかにした。
これから、どうなるかわからない。
でも、後悔はしていない。
凛は、空を見上げた。
抜けるような青い空。
真っ白な雲。
その空の下を、凛は一人で歩いていた。



