——夢を、見ていた。
十数年も前の、遠いあの日の記憶。
「……つまんないの」
独り言は、消毒液の匂いが漂う廊下に、力無く吸い込まれていった。
お母さんはいつまでも先生と難しい顔で話し込んでいるし、看護師の坂井さんは忙しそうに走り回っている。
僕のことなんて、誰も見ていない。
『プレイルームで遊んでおいで』
みんなそう言うけれど、僕はあんまり好きじゃない。
だって僕が本当にいたいのは、そこじゃない。
幼稚園の砂場や、みんながいる教室なんだ。
「あーあ。こんなとこ、早く出たいなー」
間延びしたように小さく文句を言う。
その声は、カートを押した看護師さんにも、座っているお爺さんにも、誰にも聞かれないままゆっくり消えた。
ムッとた気持ちをぶつけるように、手に持った鞄をブンブン振りながら歩く。
中に入ったまだ新しいクレヨンが、カタカタと音を立てる。
五歳の誕生日にもらった、二十色のクレヨン。
みたこともない色がたくさん詰まった、僕の宝物だ。
そんなことを考えて歩いていく。
病院の端にある、誰も来ない階段を上る。
「さん、し、ご……っ!」
ぴょこぴょこ一段ずつ階段を進み、一番上まで上る。
少し高い取っ手を掴んで、重たい扉をぐっと押す。
その瞬間、目の前に大きな青空が広がった。
眩しくて、高くって、綺麗な青色。
この空を独り占めしているときだけは、嫌なことなんて全部忘れられた。
僕は満足して小さく頷くと、真っ白な自由帳を開く。
箱の中から、目の前の空に一番近い色を選んでいく。
空は青色と水色で、雲は白色。
三色取り出して、紙に空を広げていく。
「んー、なんかちがーう」
小さく呟いて顔を上げ、目をよく凝らして空を見る。
クレヨンの箱から一本ずつ取り出して、空に並べる。
「あ、これだ!」
指先に触れた、濃く、深い青。
そこには『ぐんじょう』という、背伸びをしたような名前が記されていた。
「ぐんじょう……」
その響きを舌の上で転がしてみる。
読みあげてから、思わず首を傾げる。
これも青なのに『あお』じゃない。
たぶん、僕の知らない世界には、数え切れないほどの「青」があるんだろう。
たぶん、僕はまだ知らないけれど、空にはきっとたくさんの青があるんだ。
僕は『ぐんじょう』を、描きたての空に塗り重ねた。
四つの色を指の腹でこすり、その境目を溶かしていく。
混ざって新しい色ができる。
紙の上に現れたその色は、まるで本物の空を切り取って閉じ込めたみたいだった。
——早く、みんなに見せたい。
誇らしい気持ちで立ち上がり、扉を開ける。
嬉しげに階段を降りていた、その時だった。
踊り場の途中で、ふいに小さく、けれどよく澄んだ声が聞こえた。
「……綺麗だね」
振り返ると、そこに同い年くらいの女の子が立っていた。
屋上とは違う、影になった階段で、彼女の瞳だけが静かに輝いている。
「それ、なあに?」
彼女が僕の手元を覗き込んで、問いかける。
「空、だよ」
僕が少し得意げに答えると、彼女は不思議そうに顔を傾けた。
肩より少し長い、柔らかそうな髪が揺れる。
「空は暗いんだよ。真っ暗なところに、きらきらしたお星様とお月様があるの」
嬉しそうに、けれど少し困ったように話す彼女の言葉に、今度は僕が首を傾げる。
——お星様ってことは夜の空?
よく分からなかったから、僕は、僕が知っている空を話した。
「眩しくって、青い空も、あるよ」
「そっか……そうなんだ。
いいな、見てみたいな……」
憧れを湛えた彼女の瞳に、僕は窓の外を指さした。
「こっちから、見えるよ?」
「ううん、いいの」
彼女は小さく首を振ると、悲しげに、けれど優しく微笑んだ。
そして僕が描いた紙の中の空を、宝物を見るような目で見つめた。
「ほんとに、綺麗……」
彼女は、目をきらきらと輝かせて呟いた。
「遥人くーん?どこにいるのー?」
遠くから、坂井さんの呼ぶ声が聞こえてくる。
「あ、呼ばれてる」
僕は慌てて、自由帳のページを丁寧に、慎重に破り取った。
「これ……あげる」
「えっ……?」
戸惑う彼女の手に、僕だけの『青い空』を押し付けた。
空の絵を手渡し、くるりと背を向けて足を踏み出す。
振り向いて彼女に手を振った。
それから、照れくささを隠すように背を向け、駆け出す。
一度だけ振り返って、彼女に力いっぱい手を振る。
「じゃあ、またね!」
その声は、静かな階段に、暖かく響いていた。

