「天音、行こっか」
扉を引きながら、声をかける。
天音は座っていたベッドの端から嬉しそうに立ち上がる。
「うん!」
二人して、階段を上る。
天音の呼吸がかすかに揺れる。
僕の心臓は大きく脈打っている。
手すりを握る手が、思わず強くなる。
それでも、重たいはずの体は、どこか浮き足立っていて、僕らの足取りは軽かった。
冷たい取っ手に手をかけて、扉を押す。
その瞬間、目の前に、満点の星空が広がった。
「綺麗……」
思わず、声が漏れる。
「わぁ……っ」
隣から、弾んだ声が聞こえる。
「……私、こんなに眩しい夜空を見るの、初めて」
「僕もだよ」
これまでに見たどの空よりも、たくさんの光がそこにあった。
輝く星々は、明るさを競い合っているようにも、肩を寄せ合っているようにも見えた。
並んでいつもの場所に腰を下ろす。
コンクリートの床は冷たかったけれど、そんなことは気にならなかった。
ただ静かに、二人で星空を見上げる。
夜空を切り裂くように、一筋の強い光が流れる。
「あっ、流れ星!」
どちらからともなく、声が重なる。
驚いて隣に視線を下ろすと、天音も同じことをしていた。
「……っ」
そしてどちらからともなく笑い声を上げた。
「ふふ、真似したでしょ?」
「してないって!天音が真似したんだろ?」
「違うってば〜
ほら、遥人こそいつも私の真似してるじゃん!」
「それとこれとは話別だから」
「別じゃないもん、一緒だもん〜!」
笑い声が、夜に溶けていく。
まるで、この夜空の下には、僕たち二人しかいないみたいだった。
笑い声の余韻だけが、夜に残った。
スケッチブックに手を伸ばす。
この空を、残したい。
そう思った、その時だった。
「……ねぇ、遥人」
なんとか言いかけたような、小さな声。
「今日はさ、描かないで……」
少しだけ迷うように、目を伏せる。
「……え?」
「その代わり……」
そっと手を差し出す。
心臓が、ひとつ大きく跳ねた。
「手、握ってて」
そう言って、目線を合わせる。
その頬は、赤く染まっていた。
「……今日だけだから。いいでしょ?」
天音は、ぷいっとそっぽを向くように、空を見上げる。
差し出されたままの手を、ゆっくりと握る。
温かかった。
きらりと星が降る。
「流れ星って、なんで願いが叶うっていうのかな」
「……さあな」
少しだけ間を置く。
「でも、一瞬の間で言えるくらい、強く願ってるから……とかじゃない?」
「そっか」
小さく、頷く。
「お願いしたら、叶うのかな」
「やってみようよ」
空を見上げたまま、言う。
「それを楽しみにしてたんだろ?」
また一つ、星が流れる。
——どうか。
隣を見る。
天音は俯いたままだった。
「……お願い、した? 」
「……ううん」
小さく、首を振る。
「なにお願いしたらいいか、わかんない……」
その声は、少しだけ弱かった。
「叶えたいこと、お願いするんだよ」
「叶えたいこと……?」
ゆっくりと顔を上げる。
「ああ。天音の叶えたいことは?」
少しの沈黙。
天音の唇が、わずかに震える。
「……言えないよ」
掠れた声。
「だって……」
そこで言葉が止まる。
「絶対、叶わない……」
その目に、光が滲む。
胸の奥が、痛む。
それでも、目は逸らさなかった。
「……絶対なんて、ないだろ……?」
「……じゃあ」
小さく、息を吸う。
「言っても、いいの……?」
静かに、けれど力強く頷く。
天音は、手をぎゅっと強く握った。
「私は……遥人とずっと、一緒にいたい」
一筋、涙が頬を伝う。
「……もう少しでいいから、一緒にいたいの」
何も、返せなかった。
天音の肩が、小さく震えていた。
「また花火を見たいし……
何回だって、一緒に空を見上げたい。
遥人の描く空が見たい……」
ぽつり、ぽつりと言葉が溢れる。
「……まだ、生きてたいよ」
すっと冷たい風が吹き、髪が揺れ、横顔が照らされる。
天音は、顔を覆うようにして涙をこぼす。
「誰かのためじゃなくて、私のために明日が来て欲しい……。
朝が来ても、太陽が昇っても、遥人の隣で笑っていたいの。
本当は、遥人の描いた青空を見るだけじゃなくて、その青空の下で一緒に見上げたい……っ!」
「私は、このまま終わりたくなんてない」
息が詰まる。
「……嫌だよ」
天音の小さい体が、嗚咽とともに震える。
「ねぇ、遥人……。
私、あなたと一緒に、青空の下を歩きたかった。一分でも、一秒でもいい。
普通の女の子として、あなたの隣にいたかった」
泣きじゃくるその姿は、今にも崩れてしまいそうだった。
声にならない嗚咽が、夜に溶ける。
その姿を、これ以上見ていられなかった。
その小さな体を、思わず引き寄せた。
強く、抱きしめる。
「ねぇ、天音」
耳元で、静かに言う。
「出会った頃、言ってたよな」
「……?」
「流れ星の話。
見たことあるけど、お願いしたか忘れたって僕は言ったんだ」
「でも、本当は違う……
僕はさ、母さんに、これ以上辛い顔をさせたくなかった。
だから、病気を治してくださいってお願いしたんだ」
「でも……それって……」
「うん、叶ってないよ……」
「じゃあ……」
掠れた声で天音が言うのに、被せるように言った。
「それがさ……ちゃんと願えてなかったんだよ」
「ルールがあったんだ」
「ルール?」
「両手を重ねて握ってから、目を瞑って願わなきゃいけないんだ。流れ星を見ずに」
「でも、そんなことしたって……」
天音の声が、弱く揺れる。
「……願ってみないと、分かんないんだろ?」
天音がハッとしたような顔をして、それから涙に濡れた頬を緩ませる。
「わがままなお願いだけど、いいの?」
「いいだろ、ちょっとくらい。
だって僕たちは、まだ子供なんだから」
「なにそれ……」
そう言って、僕らはもう一度笑った。
天音は両手を丁寧に重ねて、目を瞑る。
その横顔をそっと見てから、僕も同じように目を閉じた。
——どうか。
今の、この時間だけでいい。
どうか、僕たちに時間をください。
叶うかなんてわからない。
それでも、願わせてほしい。
どうか、あと少し、あと少しだけでいいから。
天音と一緒にいさせてください。

