翌日、八月に入ったばかりの夜。
僕はいつもと同じように扉を開けた。
外に出た瞬間、湿り気を帯びた暖かい風が頬をなでる。
屋上には、すでに天音の気配があった。
天音は小さい段差に足をかけ、手すりにもたれたまま、空を見上げていた。
夜風が、スカートの裾を静かに揺らしている。
「天音」
呼びかけると、天音が振り返る。
長い黒髪がふわりとほどけた。
「ん?」
小首を傾げたまま、やわらかく微笑む。
いつもと同じ、天音だった。
「熱は……?体調、大丈夫?」
「うん!もう平気」
少し得意げな顔で、親指を立てた手を僕の方に突き出す。
けれど、昨日のふらついていた天音の姿が頭をよぎる。
どうしても、強がっているんじゃないかと思ってしまう。
「ほんとに?」
念を押すように言った、その瞬間だった。
天音はタンっと軽い音を立てて段差から飛び降りた。
着地した勢いのまま、僕の目の前まで近づく。
反射的に身を引こうとした僕の肩を、
白く細い左手がぐっと引き寄せた。
「え……?」
完全に不意打ちだった。
天音はもう片方の手で前髪をかき上げ、
陶器みたいに白いおでこを見せる。
そして、そのまま——
僕のおでこと、ぴたりと重ねた。
一瞬、息をするのを忘れた。
すぐ近くで天音の呼吸がかすかに揺れる。
触れたところから、ほんのり体温が伝わってきた。
心臓が、どくんと大きく鳴る。
「ね?」
囁くみたいな声だった。
吐息が触れそうなくらい近い。
十センチはあるはずの身長差は、
彼女が背伸びしただけで、あっさり消えてしまっていた。
「う、うん」
ようやくそれだけ答える。
おでこを離した天音は、どこか満足そうに笑う。
いたずらがうまくいったみたいな顔だった。
「あと二週間で花火大会でしょ?
熱なんて出してる場合じゃないもん!」
そう言って、手を口元に引き寄せてはにかんだ。
「楽しみだね」
「っていうか、あれ?」
ふと天音が首を傾げた。
「遥人の方こそ……」
「え……?」
思わず素っ頓狂な声を出し、後ずさる。
「だって、ほら」
そう言って、天音がまたおでこに手を伸ばして近づいてくる。
僕は慌てて首をぶんぶん振った。
「いや、ちがっ、別に」
「ん?」
不思議そうに首を傾げたまま、さらに一歩近づく。
「ほんとに、大丈夫だから!ね?」
「そう?ならいいんだけど」
天音はあっさりと手を下ろした。
何事もなかったみたいにくるりと背を向ける。
軽やかな足音を立てて、さっきまでいた手すりの方へ戻っていった。
天音はそのまま手すりにもたれ、また空を見上げた。
夜風がふっと強く吹いた。
さっきまでの近すぎた距離が、何事もなかったように元に戻る。
——なのに。
おでこに残った体温だけが、なかなか消えなかった。

