落とされる気なんてなかったのに

ドラマのキスシーンのリハーサル——
 あの一瞬のキスの余韻が、
 胸の奥でまだじんわりと熱く残っていた。

(なんで……こんなに……
 苦しくなるの……?)

 玲央くんの指先が触れた場所が
 ずっと燃えているみたい。

 仕事が終わって、
 事務所の階段を降りるたびに、
 彼の手の温度が蘇る。

(さっき……私……
 玲央くんのキスで……)

 階段の踊り場で足が止まった。

(脚が震えて……立てなかった……)

 その意味をずっと誤魔化してきたけれど、
 もう誤魔化せない。

 あれは“怖い”んじゃなくて——
 “ときめいていた”。

 胸が、苦しいほど。

***

◆玲央くんに触れられると、呼吸が乱れる理由

 校舎の影になっている場所で、
 私は壁に背を預けて深呼吸する。

(なんで……
 玲央くんに触れられると……
 息が止まるくらい苦しいんだろ……)

 思い返す。

 裏口でファンに囲まれた時の恐怖。
 玲央くんが抱きしめてくれた時の安心。
 腕の中で震えが止まったこと。

(……私……あの時、
 玲央くんの“腕の中”がいいって
 思ってた……)

 気づいた瞬間、
 胸の奥が熱く波打つ。

(守ってくれてほしかったのは……
 先生じゃない……)

 先生の優しさは“安心”。
 だけど、恋ではない。

(私が……恋をしたいと思ったのは……
 玲央くんなんだ……)

 ゆっくり、
 深く理解していく。

(怖かったのも、恥ずかしかったのも……
 全部“好き”だからなんだ……)

***

玲央くんの声を聴いた瞬間、全部が繋がった

「七海」

 振り返ると、
 夜の風を背負った玲央くんが立っていた。

「……っ、れ、玲央くん……」

「そんなとこで、何してんだよ」

 心臓がまた跳ねる。
 こんな声に、どうしてこんなに胸が反応するのか。

「……リハ、緊張しすぎたか?」

「あ……その……」

 玲央くんは私に近づき、
 手を伸ばして軽く頬に触れた。

「ここ、赤い」

「っ……!」

(なんで……
 そんな優しく触るの……)

 触れられただけで胸がいっぱいになる。

「さっき、震えてただろ」

「れ……玲央くんが……近かったから……」

「ああ」

 玲央くんは
 それが“嬉しい事実”だと分かってるみたいな顔で
 静かに笑った。

「……七海、
 なんで震えてたか分かってんだろ?」

「え……」

「俺が好きだからだよ」

「っ……!」

 胸が跳ねて、頭まで熱くなる。

「違え?」
「……違わないだろ」
「七海の顔が全部言ってんじゃん」

 逃げ場所なんてなかった。

 玲央くんが一歩近づく。
 私は後ろに下がる。
 背中が壁につく。

(やだ……もう……これ以上……)

 でも——
 逃げたいわけじゃなかった。

 怖かったのは、
 本気で好きだとバレること。

 玲央くんは私の目を覗き込んで、
 静かに囁く。

「七海。
 俺のこと……好きだろ?」

「……っ……」

 胸に手を当てた瞬間、
 鼓動があまりにも激しくて誤魔化せない。

(あぁ……もう……
 隠せない……)

 頬が熱い。
 涙が滲む。
 胸が締め付けられる。

 全部——
 “好き”だからだ。

「……好き、だよ……」

 自分の声が震えて、
 空気に消えてしまいそうになる。

「玲央くん……
 私……玲央くんのこと……好き」

 言ってしまった。
 いや、やっと言えた。

 玲央くんは一瞬だけ息を止め……
 次の瞬間、息を吐いて笑った。

「……やっと言ったな」

 そして、
 抱き寄せられた。

 あの時より強く、
 でも優しく。

「七海……
 俺、ずっと言ってほしかった」

 胸に額を押しつけると、
 彼の心臓が早くて、あたたかくて、
 涙がこぼれた。

(あぁ……
 どうしよう……
 本当に……好きだ……)

 その夜、七海はついに自覚する。

—私が恋をしたのは、
 先生じゃなくて玲央くん。
 守ってほしいと思ったのは、
 恋したいと思ったのは、
 抱きしめられたいと思ったのは……玲央くんだけ。—

 もう後戻りできないほど、
 深く彼に落ちていた。