廊下で、
 七海の腕を掴んだ自分の手がまだ熱かった。

(俺……何をしてるんだ)

 教師として越えてはならない境界を、
 自分が一番知っているはずだった。

 でも七海が泣きそうな顔をしていたから、
 優しく触れたかった。

 その腕を——
 奪われた。

 七海を抱き寄せたのは、
 俺ではなくあの男だった。

(……七海)

 七海が玲央の胸にすがるように
 顔を埋めたのを見て、
 心の奥がぎゅっと潰れた。

(あの表情……
 俺には見せてくれなかった)

 先生だから?
 過去を知ってるから?

(違う……
 “あの男の前だから”だ)

***

 夜。
 職員室で1人、電気もつけず座り込む。

 窓に映る自分の顔は、
 疲れ切った大人の男だった。

(七海……
 お前があんな風に抱きしめられるなんて……
 想像したこともなかった)

 七海は子どもの頃から泣き虫だった。
 でも少し大きくなって、
 無理して笑うようになった。

 だから、
 泣きたい時は俺の袖を掴んだ。

(俺が……七海を安心させる存在だと思ってた)

 そう思っていたのは……
 俺だけだったのかもしれない。

 七海は今、
 泣く時に“俺”じゃなく
 あの男を選んだ。

(……悔しいな)

 喉から漏れた声は、
 情けないほど弱かった。

***

 七海が泣いた理由。

 おそらく……
 玲央とのこと。

 そして、
 “俺のことでも揺れた”と七海は言っていた。

 でも、
 七海が泣きながら行ったのは
 俺のところじゃなかった。

(七海は……
 俺じゃなくて、あの男の胸で震えた)

 その現実が胸に刺さる。

(七海を泣かせたのは、俺じゃなくてよかった
 ……そう思うべきなのか?)

 違う。

(七海が泣くほど揺れている相手が……
 俺ではないという事実が……
 苦しくてたまらない)

***

 恋愛で本気になることなんて、
 今までなかった。

 でも七海だけは違った。

 昔からずっと、
 七海の笑顔も泣き顔も全部知っていた。

 昔の七海は俺を追いかけた。
 今の七海は——
 俺じゃない誰かを追っている。

(……負けるのか)

 そんな言葉が胸から漏れた。

(七海を……
 あの男に全部持っていかれるのか)

 負けたくない。

 でも、
 七海の心があの男に傾いているのが
 痛いほど分かる。

(どうすればいい……
 七海の心を……取り戻す方法なんて……)

 目を閉じた。
 暗闇の中で、
 七海が泣く姿だけが浮かび続けた。