七海が帰ろうとした時だった。

「七海、ちょっといいか?」

「……え……」

 はるま先生が腕をそっと掴んだ。

 優しいのに、今までにない強さ。

(せ、先生……?)

「話がしたい。
 今日のことも……
 昨日のことも……
 全部ちゃんと聞かせてほしい」

 その声は、
 教師じゃなく“ひとりの男”の声だった。

(こんな声……初めて……)

 胸がぎゅっとなる。

 先生は七海の頬に触れそうな距離まで近づく。

「七海……
 泣いてたんだろ?
 ……俺に言えない理由があるのか?」

「先生……っ」

 涙がにじむ。

(こんなの……だめなのに……)

 そのとき。

「何してんだ、先生」

 空気を切るような声。

 振り返ると、
 玲央くんが立っていた。

 その目は、
 いつもの意地悪な光じゃなく、

 七海を奪う男の目
 だった。

「七海、こっち来い」

 玲央くんは先生の腕を外し、
 七海の手を掴んだ。

「待て。
 七海は今——」

「七海は俺が連れていく」

 玲央くんは七海を抱き寄せ、
 そのまま歩き出す。

 抵抗する前に、
 七海は胸に抱き込まれた。

「れ、玲央くん……!」

「離すわけねぇだろ」

 玲央くんの腕の強さに、
 七海は涙をこらえながら身を委ねた。

(どうして……
 二人とも……こんな顔して……
 私を取り合うみたいに……)

 階段の上で、先生が叫ぶ。

「七海!!
 ……俺は、君を——」

 言いかけて、
 飲み込む。

 その沈黙が、
 逆に七海の胸に刺さった。

(先生……)

 玲央くんは振り返らず、
 ただ七海を抱いたまま歩き続けた。

「七海。
 もう……どっちにも揺れんな」

「え……」

「……俺だけ見とけ」

 その声は、
 決定的だった。

(あ……
 もう……後戻りできない……)

 胸の奥で、
 何かが静かに崩れ落ちていった。