七海の肩を抱いて廊下を離れたとき、
 胸の奥ではまだ心臓がひどい音を立てていた。

(……言っちまった)

 “七海は俺がもらいます”
 なんて大口を叩いて、

 普段なら絶対に言わないことを、
 あんな堂々と言い切った。

(マジで……何やってんだ俺)

 でも、嘘じゃなかった。
 一ミリも。

 七海が先生と一緒にいたときの
 あの“遠い表情”を見た瞬間、

 胸が、
 どうしようもないくらいざわついて、
 頭の奥で嫌な声が響いた。

(七海……先生見て揺れてんじゃねぇのか)

 想像しただけで吐きそうなほどムカついた。

***

 歩きながら、
 七海の手首に添えた指先がかすかに震えているのが分かった。

 それは、俺に怯えてる震えじゃなかった。
 先生の前で揺れてしまったせいで、
 七海自身が混乱している震え。

(……そんな震え方すんなよ)

 胸がひりついた。

(七海……
 お前が泣きそうな顔になるの、
 先生のせいって思いたくねぇ)

 でも、
 先生のあの苦しそうな顔を見る限り、

(……あいつ、七海のこと……)

 言葉にしたくない感情が胸を刺した。

 まさか、
 七海に向けてる“あの目”がただの教師の目だなんて
 信じられない。

(俺と同じ、あれ……)

 考えた瞬間、
 心臓がぎゅっと縮む。

(七海は……
 誰を見て揺れてんだよ)

 昨日のキスで震えた七海の顔を思い出せば、
 自分に向けられていると安心できる。

 でもさっきの沈黙は──
 七海が先生でも揺れている証拠にも見えてしまう。

(……やべぇ)

 歩きながら、
 自分の手がほんの少し汗ばんでいるのに気づいた。

(俺、七海に……ビビってる)

 “失うかもしれない”って、
 一瞬でも考えてしまった自分が信じられなかった。

***

 先生の前で、
 俺はとんでもないことを言った。

 — 「七海は俺がもらいます」

(あれ……
 かっこつけたんじゃなくて、ただ必死だった)

 七海を取られたくなかった。
 七海を誰にも渡したくなかった。

 ただそれだけ。

 でも七海が隣で声も出せないまま沈黙してて、
 その沈黙一つで胸がまた痛む。

(七海……俺の名前、呼べよ)

 あの場で、
 俺を選んでほしかったわけじゃない。

 ただ──

(お前が不安になったら、
 支えんのは俺がいい)

 それを分かってほしかっただけ。

***

 先生の前で言った言葉。

 — 「七海は俺の胸で泣いたり震えたりしてますよ」

 あれは牽制のつもりだったけど、
 言ってから胸が熱くなって仕方なかった。

(七海……
 あのとき、本当に俺だけ頼ってくれてたよな)

 背中に回された小さな手。
 喉で震えた呼吸。
 押しつけられた額の温度。

 全部が忘れられない。

(もっと頼ってほしい)

 それが、
 俺の胸の底で確かに膨らんでいた。

***

 でも。

 先生が
 「本当なのか?」と問いかけたとき。

 七海は答えられなかった。

 俺と先生の間で揺れて、
 答えが出せなかった。

(その沈黙が……
 俺には一番怖ぇんだよ……)

 負けたくない、とかじゃない。
 人気とか立場とか、どうでもいい。

(七海がお前を選ぶとか……
 想像したくない)

 胸の奥が、
 ぎゅうっと握りつぶされるように痛かった。

***

 だから、
 廊下を離れたあとも腕をほどけなかった。

 七海は軽く抵抗するわけでもなく、
 ただ歩調を合わせてついてきてくれた。

(……あぁもう……
 無理だわ)

 本気で思った。

 ゲームじゃない。
 落とすための演技じゃない。

(七海……
 俺、お前に本気で堕ちてる)

 その事実が、
 あの宣言の裏にある“本当の本音”だった。