昨日──
 玲央くんに胸の奥まで覗き込まれるような声で

「俺だけ見ろよ」

 と言われてから、
 私は心がすっかりおかしくなっていた。

(だめ……思い出しただけで苦しくなる……)

 でもその“苦しさ”が嫌じゃない。
 そんな自分もまた苦しい。

***

「七海、おはよう」

「……あっ、お、おはようございます……!」

 先生の声はいつも通り優しい。
 だけど、その“優しさ”の奥に
 なにか鋭いものが混ざっているのが分かった。

「……昨日の、あの人……
 今日も迎えに来るのか?」

「っ……!」

(見てた……やっぱり見てたんだ……)

「七海。
 気をつけてな。
 ……ああいうタイプは、距離が突然近づくことがあるから」

 “距離が突然近づく”
 その言葉が、昨日の玲央くんを思い出させて胸が跳ねた。

(気づいてる……先生も気づいてる……
 私が、玲央くんで揺れてるの……)

 そんな気がして、視線が合わせられなかった。

***

 黒板を見るたび、
 気づくと先生の視線が私に向いている。

(な、なんでこんなに見るの……?)

 心配してるのか、
 探ってるのか、
 確かめようとしているのか……

 その目はいつもの“優しい先生”じゃなくて、
 もっとずっと深くて危うい。

(どうして……
 どうして、今こんな……)

 胸が苦しくて、
 授業が終わるたびに息を吐いてしまった。

***

「七海」

「っ……!」

 職員室前に呼び止められた。

「今日も……迎えが来るのか?」

「そ……それは……」

「七海。
 俺に嘘をつくの、苦手だろ」

「……っ」

(やっぱり……全部、気づいてる……)

 先生は一歩近づいてきて、
 声を落とした。

「君が……誰のことで揺れてるのか。
 昨日見たときからずっと気になってる」

「せ、先生……」

「七海は……
 “あの人”に……近づいてるのか?」

 その声が、
 いつになく低くて痛いくらいまっすぐだった。

(そんな……言われたら……)

 答えられない。
 でも黙ってしまう。

 その沈黙に、
 先生の喉が小さく震えた。

「……七海。
 俺は……君が泣いてるとき、笑ってるとき……
 その全部を見てきたつもりだった」

「…………」

「でも……“昨日のお前”は……
 俺が知らない顔をしてた」

「っ……!」

「……俺の知らない誰かの前で……
 揺れていた顔だった」

 胸がぎゅうっと締め付けられた。

(先生……そんな風に言わないで……
 そんな、苦しそうな声……)

 どう返せばいいのか分からなくて俯いたとき──

「あれ、七海?
 まだ帰ってなかったのか」

 その声が、
 廊下の奥から軽く響いた。

(っ……玲央くん……!)

 振り返ると、
 帽子にマスク姿の玲央くんが
 当然のようにそこに立っていた。

 先生と私の距離を一瞬で測るように
 玲央くんの目が細くなる。

「……先生。
 七海には仕事があるんで、返してもらいます?」

「っ……!」

 空気が、ひやりと張り詰めた。

***

 玲央くんはゆっくり歩いてきて、
 私の手首をそっと取った。

 強くはない。
 でも、絶対に離さない強さ。

「七海、行くぞ」

 その言い方はいつもの軽さじゃなくて、
 “決めた男の声”だった。

 先生が一歩前に出る。

「君……七海をそんな風に連れ出して、
 どういうつもりなんだ?」

 玲央くんはピタリと足を止め、
 わざわざ先生の目を見て言った。

「どうもこうも……
 俺、七海を迎えに来てるだけですけど?」

「迎えに……?」

「はい。
 毎日。
 必要なら、朝でも夜でも」

 先生の眉がきゅっと寄る。

「……七海を巻き込むのはやめたほうがいい」

「巻き込むって言い方、やめてください」

 玲央くんの声のトーンが変わった。
 低くて、鋭くて、どこか痛い。

「俺は七海を守るつもりでやってます。
 巻き込む気なんて、最初からない」

「……君が、七海を?」

(れ、玲央くん……
 そんな言い方したら……)

 玲央くんは先生から目を逸らさずに続けた。

「七海は……俺の前だけ揺れてくれればいいんで」

「っ……!」

 息が止まった。
 先生の肩も微かに震えた。

「言っときますけど、先生。
 七海、俺の胸で泣いたり震えたりしてますよ」

(れ!! れれ玲央くんー!!?!?!?)

 先生の顔から一瞬、
 血の気が引いたのが分かった。

「……七海」

「せ、先生……!」

「本当なのか……?」

 私は何も言えなかった。
 何も言えない沈黙が、
 すべての答えになってしまう。

 玲央くんは、
 その沈黙のすべてを奪うように私の肩を抱いた。

「先生。
 七海は……俺がもらいますんで」

「!!!!!?」

 先生の目が揺れた。
 深く、痛く。

(そんな……
 そんな言い方……したら……!)

 でも玲央くんの腕の強さは
 拒めないほど優しくて、
 苦しいほど温かかった。

「行くぞ、七海」

「……っ……」

 私はそのまま連れていかれた。
 先生が何も言えず立ち尽くしているのを
 横目で見ながら。

(どうして……
 どうしてこんな風になっちゃうの……)

 胸が激しく揺れて、
 涙がこぼれそうになるのを必死にこらえた。