昨日、玲央くんに抱きしめられてから──
 胸がずっとおかしい。

 喉の奥が熱くて、
 息を吸えば吸うほど胸がぎゅっとなる。

(やばい……本当に……どうしよう……)

 玲央くんの声、
 息が耳元にかかった感覚、
 “揺れてんのは俺のほうだろ”って呟いた低い声……

 全部が、頭と胸から離れない。

(あれ、絶対……“ゲーム”じゃない……)

 そう思った瞬間、
 足が止まりそうになった。

***

「七海、おはようございます」

「……っ! せ、先生……!」

 先生に声をかけられて、
 心臓が苦しくなる。

(なんで……? 昨日までこんな風じゃなかったのに)

 玲央くんのときの胸の高鳴りと、
 先生のときの胸の痛いような温かさ。

 種類が違うのに、
 どちらも強くて、落ち着かない。

「顔色悪いな……
 また何かあったのか?」

「いっ……いえ……!」

「無理しないでくださいね。
 困ったことがあれば……言ってください」

 その優しい声が、
 逆に胸を締めつける。

(先生の声……優しすぎる……
 でも今聞くと……痛い……)

 今の私が玲央くんで揺れているのが、
 先生に対して申し訳ない。

 そんな気持ちさえ芽生えて、
 胸がちくちくした。

***

 授業中、先生の視線が何度も私に向くのが分かった。

(み、見られてる……?)

 でも、目が合うたびに
 先生の表情が一瞬だけ曇る。

(やっぱり気づいてる……
 私が……誰かのことで揺れてるって……)

 思った瞬間、
 胸がぎゅっとなった。

 玲央くんの胸に飛び込んだ自分を、
 先生に知られたらどう思われるんだろう。

(こんな……こんな気持ち、どうしたらいいの……)

 板書にも集中できない。

 深呼吸しても、
 昨日の感覚が胸から消えない。

***

 放課後。
 スマホが震えた。

〈玲央〉
『今日も迎え行く。校門前』

(っ……ほんとに来るの……?)

 胸が跳ねる。

 でも、
 “先生に見られたらどうしよう”という不安も湧く。

(が、学校の前は……まずいよ……)

 返事をしようとしたけど、
 指が震えて打てない。

 そのとき──。

「七海」

「っ、はるま先生……!」

「帰るのか?
 校門の方に、大きなマスクの人が立ってたけど……
 知り合いか?」

(見られた……!?)

 胸が一気に凍る。

(玲央くん……隠れる気ゼロじゃない……)

「あ、あの……友達で……!」

「友達……?」

 先生の声が明らかにかすかに沈む。

(うそ……バレてる?
 “友達”じゃないって……分かってるの……?)

「夜……遅くなる場所で働いてるなら言ってくれ。
 本当に心配なんだよ」

「ち、違……違います……!
 バイトで……!」

「バイト……?」

 そのとき。

「七海、来いよ」

「っ……!」

 校門の柱の向こうから、
 玲央くんがひょこっと顔を出してきた。

(な、なんで堂々と……!)

「こっち来いって。
 早く」

 マスクと帽子でほぼ隠しているのに、
 存在感がとんでもなく強い。

 先生の視線が、
 玲央くんから私へ、ゆっくりと移った。

(ひっ……完全に疑われてる……)

「……七海。
 その人が“バイトの関係者”なのか?」

「……………………」

 言えない。
 どっちも嘘になりそうで。

 その沈黙の数秒が、
 先生を不安にさせたのは明らかだった。

「七海。
 今日……気をつけて帰れよ」

 先生は優しい笑顔のまま言ったけれど
 その目の奥は、
 ほんの少し痛そうだった。

(先生……)

***

「お前、なんで黙ってんだよ」

「だ、だって……先生が……」

「……はぁ?
 なんで先生に気使ってんの」

 玲央くんは私の腕をとって、
 校門から少し離れた通りまで歩いていく。

「七海。
 先生にバレるのがそんなに嫌?」

「嫌とかじゃなくて……
 だって先生……心配してくれて……」

「……ふーん」

 玲央くんは立ち止まり、
 私の肩をぐっと引き寄せた。

「じゃあ聞くけど」

「ひっ……な、なに……」

「先生に心配されんの、嬉しい?」

「っ……!」

 胸が痛い。

「嬉しいって……
 そんな……」

「じゃあ俺は?」

「……え?」

「昨日、抱きしめたとき……
 お前……俺の胸で呼吸乱れてただろ」

「っっ!!!?」

「顔真っ赤にして……
 震えてたくせに」

「い、今それ言う……!?」

「言う。
 俺のだけ……特別でいてほしいから」

 玲央くんの声が、
 急に低く甘くなる。

「先生よりも。
 誰よりも」

「……っ……!」

 肩に添えられた手が熱くて、
 その距離に胸が苦しくなる。

「七海。
 もっと……俺だけ見ろよ」

「玲央くん、そんな……
 強引に言われたら……」

「強引じゃなきゃ、
 ――先生に取られる気がしてムカつくだろ」

「!!!」

 玲央くんの本気の声。
 ため息にも似た、悔しそうな声。

「俺……
 七海のことで焦ってんだよ」

「焦って……?」

 玲央くんは顔をしかめて、
 私の頬に触れる。

「お前が……他の男のことで揺れるの……
 本気で嫌なんだよ」

「…………」

 胸が、
 言葉にできない音で震えた。

(そんなの……
 そんなの……好きだって言われてるのと同じじゃん……)

 でも。
 先生のあの痛そうな目も、胸を刺してくる。

(どうすればいいの……
 ほんとに……どっちにも揺れてしまってる……)

 そんな私の迷いまで、
 玲央くんは見抜いたように言った。

「七海。
 考えんなよ」

「え……」

「お前の心臓……もう俺のほう向いてんだろ」

「!!!!?!?」

「昨日の続き……
 簡単に忘れられるわけねぇだろ」

 その一言で、
 胸の奥のなにかが、
 ゆっくり音を立てて崩れていく。

(玲央くん……
 なんでそんな……)

 心が勝手に玲央くんに引き寄せられてしまう。

 その“距離の近さ”は、
 先生の優しさでは埋められないものだった。