玲央の表情が変わったのは、
 私の“先生の名前”が口からこぼれた瞬間だった。

 その目が、一瞬だけ鋭く細くなった。

「……七海」

「は、はい……?」

「ここじゃ話しづれぇ。
 来い」

「え? ど、どこ行くの――っ!」

 手首を掴まれて、
 ぐいっと引き寄せられる。

 強くない。
 でも逃がす気がない強さ。

 玲央はそのまま控え室を出て、
 人気のない廊下へ私を連れていく。

「れ、玲央くん……!
 こんなところで……!」

「静かすぎて、逆にちょうどいい」

 立ち止まった瞬間、
 玲央が壁に片手を置き、
 もう片方の手で私の腰を軽く押さえた。

 逃げられない距離。

(ち、近い……!)

「昨日のキスのあと、
 お前、ずっと……こんな顔してたんだな」

「こんな顔って……」

「泣きそうで、
 俺と話すときだけ息も上がって……」

「……っ!」

「そんな顔、
 他の男に向けんじゃねぇよ」

 玲央の声は低くて、
 胸の奥に熱を流し込むようで。

「俺以外の前で揺れんなって言ったよな?」

「い、言われて……ない……!」

「じゃあ今言う。
 七海、他の男に揺れんな」

「っ……!」

 玲央の目が、
 本気で、真剣で、
 いつもより少し怖いくらい優しくて。

(そんな目で見られたら……)

 心臓がまた暴れ出す。

「七海、先生に呼ばれてただろ」

「っ……」

「なに話した?」

「授業の話……と……」

「それだけ?」

「それだけ……じゃない、かも……」

 玲央の表情が微かに歪む。

「……何だよ、それ」

「先生は……
 “困ったら頼っていい”って……」

 玲央の肩がぴくりと動いた。

(っ、やば……一番言わないほうがいいこと言った……)

「頼っていい……?」

「えっと……その……」

「はぁ?」

 玲央はゆっくり私の手首をたどり、
 指先で軽くなぞってきた。

「……七海。
 先生に頼ってほしいわけ?」

「そ、それは……」

「先生が優しくしてくれたから、
 ちょっと揺れた?」

「っ……ち、違……」

「違わねぇだろ。
 今の顔が答え」

 そう言って、
 玲央は私の顎を軽く持ち上げた。

(ま、また……この距離……)

「七海」

「……な、に……?」

「俺の前で、
 そんな揺れた顔すんなよ」

「揺れて……ない……!」

「揺れてる。
 昨日のキスのときと……同じ顔してる」

「っ……!」

(な、なんで全部バレるの……)

「どうすっかな……」

 玲央は一瞬、目を細めて、
 私の唇をちら、と見た。

 その視線だけで、
 胸がまた跳ねる。

「そんな顔すんなら……
 連れ出した意味なくなるだろ」

「れ、れれ連れ出した意味って……!」

「お前が……他の男に揺れてる理由、
 俺が上書きするため」

「っ!!?」

(な、なにそれ……!!
 そんな強引な……!!)

 玲央はゆっくりと私の腰を引き寄せ、
 額を触れさせる。

「七海……
 昨日のキスの続き、したいって……
 本気で思ってた」

「っ……!?」

「先生じゃなくて……
 俺を見て揺れてろよ」

「れ、玲央くん……」

「じゃねぇと、
 お前がどっか行きそうで……
 苛つくんだよ」

 その声が、
 いつもの強気でも毒舌でもなくて。

 本気で、必死で、
 胸に刺さる。

(そんな言い方……
 反則すぎるよ……)

 気づけば、
 私は玲央の胸に押しつけられるようにして
 抱き寄せられていた。

「離れんなよ……七海」

「……うん……」

 その「うん」が、
 もう二度と言えないくらい
 苦しくて甘い返事になった。

 玲央は、
 私を完全に抱き寄せたまま
 小さく息をついた。

「……まじで、
 お前に揺れてんの……俺のほうだろ」

 その呟きに、
 胸が壊れそうになった。