七海が控え室に入ってきた瞬間、
 空気がひやりとした。

(……なんだ、この顔)

 昨日、キスしたときの表情とも違う。
 泣きそうで、でも隠していて、
 心ここにあらずみたいな……

 見た瞬間、胸がざわついた。

「遅かったな」

 少し強めに言ってしまった。
 本当は責めたいんじゃない。

 七海の、その“誰かに揺れた後”みたいな顔に……
 胸が痛んだ。

「ご、ごめんなさい……放課後、先生に呼ばれて……」

(……先生、ね)

 一気に、喉の奥が熱くなる。

 七海の頬には、
 さっき誰かに触れられたのを連想させる赤み。

(……ふざけんなよ)

 胸の奥で、何かが音を立てて軋んだ。

***

「なんで顔赤いの?」

「赤く……ないです……!」

 嘘だ。
 七海が嘘つくときは、声がほんの少し震える。

(俺の前だけ震えるとか……紛らわしいことすんなよ)

「先生と何話してた?」

 知らないうちに声が低くなる。

 七海の目が泳ぐ。

(やっぱり……なんかあったんだろ)

「ただ授業の話とか……」

「それだけ?」

「それだけ……」

(嘘だな)

 七海は嘘が下手。
 だからすぐ分かる。

 本当のことを言いたくないとき、
 目が揺れて、唇を噛む。

 今の七海がそう。

(なんで先生なんだよ……
 なんで俺以外の男に揺れてんだ)

 胸が焼けるように熱くなる。

***

 七海の近くに立った瞬間、
 微かに甘い香りがした。

(これ……昨日と違う匂いだ)

 甘いけど、
 俺が触れたときの甘さじゃない。

 誰かに近づいたときに残る“距離の香り”。

(……先生、七海の近くに立ったのか?
 話しただけじゃ、こんな匂いつかねぇだろ)

 そう思った瞬間、胸の奥がぐらりと揺れた。

(近づいたのか……
 七海のすぐそばまで)

 想像したくない。

(俺以外の男が……
 七海の距離に踏み込んだ?)

 頭が一瞬だけ真っ白になった。

***

「七海……こっち向けよ」

「っ……」

 七海の手首をつかむ。
 強くない。
 でも離したくなかった。

「今日の七海……なんか違う」

「ち、違わないです……!」

「違う。
 俺の前に立つときの匂いも、目の揺れも……全部違う」

「わ、分かんない……」

「……七海。
 誰に……揺れた?」

 言ってから、自分でも驚いた。

(俺、こんな……嫉妬深かったっけ)

 七海が黙った瞬間、
 胸が締めつけられた。

(だめだ。
 お前が誰かに揺れてるとか……マジ無理)

 思わず腕を伸ばして、
 七海の腰に触れそうになる。

(触れたい……
 本気で奪いたくなってる)

 昨日のキスを思い出した。

 七海の震えた声、
 潤んだ瞳。
 柔らかい唇。

(……七海。
 全部……俺のものだろ)

 そう思った瞬間、
 喉の奥から熱がこみ上げてきた。

***

「先生とは……昔知り合いだっただけで……」

「昔?……知り合い?」

 七海が言ったとき、
 何かが胸の内側でひび割れた。

(昔からの知り合い……
 そんな奴に七海が揺れてんなら……
 どんな顔すればいいんだよ俺)

 冷静ではいられなくなる。

 七海の目を覗き込む。

「……七海。
 俺の前でだけ揺れてろよ」

「え……」

「先生の前で揺れんな。
 俺が……嫌なんだよ」

 こんな言い方するつもりじゃなかった。
 でも、止められなかった。

(七海。
 お前が他の男に揺れるの……やっぱ無理だ)

 胸が張り裂けそうに痛かった。

***

「俺、負けんの嫌いなんだよ」

 七海が驚いた顔で見上げる。

(そうだよ。
 負けるの、昔から一番嫌いなんだよ)

 でも、今はそれ以上に。

(七海を、他の男に取られるとか……
 絶対許さない)

 はっきり分かった。

 これはもう、
 “落としゲーム”じゃない。

 本気で七海が欲しい。

***

 七海が先生の顔を思い出したように
 小さく目を伏せた瞬間――胸がひりついた。

(……七海。
 俺じゃなきゃ、嫌だ)

 本気で思ってしまった。

(やべぇな……
 俺、七海に……堕ちてんじゃん)

 七海に触れたくて、
 抱きしめたくて、
 誰にも見せたくなくて。

(……どうすれば……
 七海は“俺だけ見る”んだよ)

 初めての焦りが、胸を焼いていた。