七海が教室に入ってきた瞬間、
 胸の奥に小さな違和感が灯った。

(……また、表情が変わってる)

 昨日よりも、今日のほうが。
 昨日よりも、もっと。

 瞳の奥が揺れていて、
 口元はいつもの笑顔なのにどこかぎこちない。

 ああいう顔を、
 俺は昔からよく知っている。

(七海は……何かを隠すとき、目をそらす)

 無理に明るく振る舞って、
 でも隠しきれなくて、
 小さな揺れがにじみ出る。

 昔、泣き虫だったころと同じだ。

 ただ――違うのは。

(……これは、“誰か”の影だ)

 教師としてではなく、
 “昔を知っている俺”として、そう思った。

 七海の頬がかすかに赤い。
 心ここにあらずのように窓の外を見つめる。
 授業中も、何度か深く息を吸っていた。

(こんな顔……誰のためにしてる?
 誰の言葉で、こんな風に揺れてる?)

 胸の奥が、小さく軋む。

***

「七海、ちょっといいか?」

「……はい」

 職員室横の廊下で向かい合う。

「今日も……少し顔色が悪かったな。
 本当に大丈夫か?」

「だ、大丈夫です。ほんとに」

 すぐに目をそらす。
 やっぱり嘘が下手だ。

(……何かをごまかそうとしている)

「何があった?」

「っ……な、何も……」

「嘘だな」

 七海の肩が小さく震えた。
 胸が痛む。責めるつもりはないのに。

「無理に聞かない。ただ……」

 七海の震えた手元に、視線が吸い寄せられる。

「……誰かのことで、揺れてるのか?」

「!!」

 図星だったのかもしれない。
 七海の瞳が一瞬、強く揺れた。

(……やっぱり。
 誰かが……七海の心に触れた?)

 想像したくない。
 そんなの、胸が痛くなるだけだ。

(何だ、この気持ち……)

 教師が抱えるべき感情じゃない。
 だけど、止められない。

***

 七海が話すとき、
 どこか言葉の端が震えていた。

 それに、七海の髪から微かに香る甘い匂い。

(……これは……誰かと“近かった”ときに残る距離の香りだ)

 昔、兄の家で七海を抱き上げたとき、
 こんな香りはしなかった。

 もっと幼い、柔らかい匂いだった。

 今の七海は――女の子だ。

(七海……誰に、そんな顔を見せた?
 誰が……お前に触れた?)

 胸が熱くなって、目をそらした。

(……考えたくない。
 だけど、誰かの存在が……気に食わない)

 そんな感情を抱いた自分に驚いた。

(……俺は、教師なのに)

***

「……七海。
 困ったことがあったら、頼ってくれ」

「はるまお兄ちゃんは……いつも優しいですね」

 一瞬の呼び名に、胸が跳ねた。

(……“はるまお兄ちゃん”って、まだ呼んでくれるんだ)

 懐かしさと、
 嬉しさと、
 胸の奥がじんわり温かくなる感情と。

 しかしその笑顔には、
 ほんの少し――恋を知った女の子特有の“揺れ”があった。

(……七海。
 お前……昨日、誰と会った?
 誰と……そんな顔になった?)

 教師としてではなく、
 ひとりの男として、
 知りたくてたまらなかった。

(嫌だ……
 俺の知らない誰かに、七海が触れられるなんて)

 胸の奥が、じりじりと焼ける。

***

「じゃあ、また明日な」

 頭を軽く撫でた瞬間――
 七海の頬が淡く赤く染まった。

(その反応……
 俺のせいじゃない。
 “誰か”がつけた赤なんじゃないのか?)

 そんな考えが胸を刺した。

(七海……
 誰なんだ?
 今、お前の心を掴んでいるやつは)

 七海が去っていく背中。
 その肩が小さく震えたように見えた。

(……放っておけない)

 七海は“生徒”だ。
 俺は“教師”だ。

 でも――。

(……七海が誰かに泣かされるなら、
 俺は……絶対見過ごせない)

 胸の奥で、
 小さな独占欲が生まれた瞬間だった。