久遠家本家の廊下は、夜更けになるほど静かになった。
さっきまで人の気配で満ちていたはずの空気が、嘘みたいに引いていく。
私は、客間へ続く曲がり角で立ち止まった。
指先が冷えている。パールのネックレスが、喉のあたりに重たい。
……息がうまくできない。
胸の奥が、まだ会食の残り香みたいにざわついている。
倒れた怜央は、本家のゲストルームに運び込まれた。
医師が呼ばれ、御堂が指示を出し、使用人たちが慣れた手つきで布団を整えていく。
その流れの中で、私だけが場違いな異物みたいに立ち尽くしていた。
「……私、何やってるんだろ」
妻としてここにいるのに、妻じゃない。
奥様と呼ばれて頭を下げられるのに、私は契約書にサインしただけの他人。
左手の薬指が、じくじく疼いた。
指輪は軽い。けれど、罪悪感は重い。
「梨音さん」
低い声に、肩が跳ねる。
御堂慎也が、廊下の陰から姿を現した。相変わらず感情の読めない、端正な顔。
ネクタイもスーツも乱れていないのに、目だけが少し疲れている。
「……怜央は?」
「眠りました。鎮静剤は最低限。脳の検査も問題なし。――ただ、ストレス反応が強い」
ストレス反応。
その原因に、私は心当たりしかない。
「……私、帰ったほうが」
「帰れません」
きっぱり。切り捨てるような言葉。
私は、喉の奥で空気が引っかかるのを感じた。
「怜央様が落ち着くまで、あなたはここにいる必要がある」
「でも、私は……」
妻じゃないと、怜央は知ってしまった。
その言葉が、喉の奥で鋭い魚骨みたいに引っかかる。
御堂はほんの一瞬だけ視線を逸らし、言い直した。
「……あなたにしかできない役割が、まだ残っています」
「それ、契約の話ですか」
「契約の話です」
あまりにも正直で、私は苦笑しかけて、やめた。
笑ったら、涙がこぼれそうだったから。
「今夜は休んでください。あなたが倒れたら、さらに厄介です」
「……厄介って言い方、ひどいですね」
「業務上、正確です」
御堂は冗談を言っているつもりなのか、いないのか。
私は情けなくて、唇を噛んだ。
「……客間、入ってもいいですか」
「今は控えてください。眠りが浅い。起こせば、また心拍が上がります」
「……わかりました」
御堂に返事をして、私は廊下を戻った。
足音が、やけに大きく聞こえる。
絨毯が音を吸ってくれるはずなのに、胸の鼓動が床に落ちるみたいに響く。
本家の夜は、豪奢なのに冷たい。
どこまでも整いすぎていて、嘘をついたまま居場所を与えられている自分が、そこに浮いている気がした。
――偽物の妻。
私は自分の左手薬指を見た。
指輪が、淡い照明を拾って、きれいに光っている。
「……きれい、だね」
本物じゃないのに。
本物みたいに、きれいだ。
……指輪は嘘の証拠品。
でも、怜央がそれを見て安心して笑うたび、嘘が少しずつ現実になっていく気がして――怖かった。
その夜、私は怜央の部屋とは別に、本家屋敷のゲストルームを用意してもらった。
でも、ほとんど眠れなかった。
寝具の柔らかさが、罪悪感を膨らませるだけだった。
枕に顔を埋めても、瞼の裏に浮かぶのは怜央の顔だ。
妻だろ?とまっすぐ見つめた目。
屋敷に来てから、何度も呼ばれた「梨音」の声。
優しい指先。
「……ごめんなさい」
……明日、言おう。
絶対に言おう。
本当のことを。
そう決めても、胸の奥は勝手に弱くなる。
言ったら終わると、子どもみたいに怯えてしまう。
終わるのが怖い。
でも、このまま続ける訳にはいかない。
時計の針が進む音が、やけに鮮明だった。
翌朝。
ノックの音は控えめだったが、私の心臓にはやけに響いた。
「梨音さん。起きていますか」
御堂の声だ。
梨音は上体を起こし、喉を潤す前に返事をした。
「はい……」
「怜央様が目覚めました。落ち着いています。――あなたに会いたいと」
「……会いたい、って」
「正確には『梨音は?』と。二回。三回目で私が止めました」
「止めたんですか」
「ええ。あなたが準備不足のまま行って、倒れたら困ります」
「……私、倒れる前提なんですね」
「業務上、想定は必要です」
会いたい。
それは嬉しい言葉のはずなのに、私には判決みたいに聞こえた。
「……分かりました。すぐ行きます」
鏡の前で髪を整えながら、私は何度も深呼吸した。
指先が震える。
リップを塗ろうとして、手がぶれて口角を汚す。慌てて拭って、また深呼吸。
言わなきゃ。
言わなきゃいけない。
昨日までの彼は、信じていた。
私が妻で、ふたりは夫婦で、幸せな日々が当然のように続くと。
でも今朝の彼は、もう違うかもしれない。
記憶が戻り始めた、と御堂は言った。断片的に、現実が戻り始めた、と。
私は廊下を歩きながら、頭の中でセリフを組み立てる。
「ごめんなさい」
「騙していました」
「私は、あなたの妻じゃない」
――言えるのか。
いや、言わなきゃいけない。
……でも、もし怜央が冷たい目で「出ていけ」と言ったら?
……もし、怒って、傷ついて、二度と笑ってくれなくなったら?
胸がぎゅっと縮む。
それでも、歩く。
逃げない。逃げたら、私が私じゃなくなる。
ゲストルームの前で足が止まった。
扉越しに、静かな気配がある。息遣いが、生きている。
御堂が扉を開けた。
「どうぞ」
私は一歩踏み出す。
部屋の中は朝日が柔らかく、白いカーテンが揺れていた。
昨日の夜の冷たさが嘘みたいに、温かい光。
ベッドに横たわっていた怜央は、上体を起こしていた。
顔色はまだ青白い。でも、目だけははっきりとこちらを捉えている。
――その目。
昨日までの甘さとは違う。
穏やかで、冷静で、それでも温度がある。
その温度が、私の胸を焼く。
「……梨音」
名前を呼ばれて、胸が詰まった。
妻として呼ばれる梨音なのか。
それとも、ただの桐生梨音としてなのか。
「……怜央」
声が震えた。
怜央は、ゆっくりと頷いた。
「来てくれて、ありがとう」
「……御堂さんから、聞きました。落ち着いたって」
「ああ。……少し、戻った」
私は、ベッドの脇に立ったまま、手を握りしめた。
握りすぎて、爪が掌に刺さる。
「……思いだしたんですよね?」
「……何を?」
「私が……あなたの妻ではないと」
空気が止まった。
カーテンの揺れる音だけが、妙に大きい。
怜央の喉が小さく動くのが見えた。
怜央は目を伏せ、短く答えた。
「ああ」
たった一音で、私の中の糸が切れた。
胸の奥に溜めていたものが、雪崩みたいに崩れる。
「……私は、あなたの本当の妻じゃない」
言いながら、涙がこぼれた。
「ごめんなさい。騙していて……契約で……私は、借金の返済のために……っ」
言葉がぐちゃぐちゃになる。
言い訳をしたいのか、謝りたいのか、もう自分でもわからない。
「指輪も……外せなくて……本物じゃないのに、本物みたいに扱われて……私、ずっと、怖くて……」
「……うん」
怜央の短い相槌が、余計に涙を誘う。
「怖かったんです……。あなたが優しいほど、私が最低で……」
「最低じゃない」
「でも――」
「君が最低なら、俺はそれを利用した側だ」
私は息をのんだ。
怜央は、責めるでもなく、苛立つでもなく、ただ静かに言葉を重ねた。
「御堂から、妻役を引き受けてくれた経緯を聞いた」
「……っ」
妻役という言葉が、胸に刺さった。
役。演技。契約。仕事。
そうだ。全部、そうだったはずだ。
怜央は続ける。
「こちらの都合で、振り回して悪かった」
「……え?」
梨音は顔を上げた。
怒られると思っていた。軽蔑されると思っていた。最低だ、と言われると思っていた。
なのに、怜央の口から出たのは謝罪だった。
「……どうして、謝るんですか。私が、騙したのに……それに、あなたは私に……優しくしてくれた……」
「優しくしたのは、俺の意思だ」
「でも、それは……前提が……」
「前提が違っても、俺がそうした事実は消えない」
怜央は視線をまっすぐに向けた。
その目に、記憶喪失の混乱は少ない。
むしろ、整理された痛みだけがあった。
「記憶が断片的に戻った」
「どんな……?」
「仕事のこと。家族のこと。事故にあったこと」
怜央は言葉を探すように、少しだけ視線を宙に泳がせる。
「……それから、俺が沙羅との結婚を控えていたこと」
私の喉が鳴った。
沙羅の顔が浮かぶ。あの場に現れた、完璧な微笑みの女。
怜央は、わずかに眉を寄せる。
「名前は……出てくる。でも、感情がうまく繋がらない」
「感情?」
「好きだったのか、必要だったのか、義務だったのか……そこが、空白だ」
空白。
私の胸は、勝手に痛む。
好きであってほしくない。
でも、好きじゃないとも決めつけられない。
そんな自分が、醜い。
「……君が俺を助けてくれたんだよな……。ありがとう……」
怜央の眉がわずかに寄った。
「……でも、事故の原因は思い出せない。思い出そうとすると、頭が痛む。――ブレーキの感触だけが、変に残ってる」
私は息を止めて、怜央の言葉を聞いていた。
怜央は、しばらく黙っていたが、言葉を選ぶように続けた。
「俺の妻じゃなかったんだな……」
私は唇を噛みしめた。
もう終わりだ。
契約は、終わり。ここにいる理由は、終わり。
「……私、出ていきます」
「待て」
怜央の声が、少しだけ強くなる。
私は動けなくなった。
「契約の期間は、まだ残ってるだろ」
「それは……」
「御堂は、俺の精神安定のために君が必要だったと言った。……でも今は、違う」
「違う、って」
「今は俺の意思で、君にここにいてほしいと思ってる」
私は思わず首を振った。
「……そんな、妻ではないと思い出されたのなら、もうここにいられません」
「都合がいいのは自覚してる」
怜央は即座に言った。
「でも、混乱してる。記憶はまだ欠けてる。君がいない状態で俺がどうなるか、俺自身が一番怖い」
怖い。
その言葉が、私の胸を掴んだ。
「……あなたが、怖いって言うの、ずるいです」
「ずるくていい。今だけは」
怜央は、苦い笑みを浮かべた。
「断っていい」
怜央はすぐに言った。
「拒否する権利は君にある。契約だろうと、そうじゃなかろうと。……ただ、頼みたい」
頼みたい。
妻としてではなく、梨音に。
「昨日、俺は倒れた」
怜央は少し自嘲するように笑った。
「情けないな。医者のくせに」
「情けなくない……!」
私は反射で言い返した。
「あなたは記憶がない中、ずっと事故後のリハビリを頑張っていた……」
「そうか」
「……だから、倒れた時くらい、平気な顔しないでください」
言ってしまってから、私は目を見開いた。
何を言ってるんだ、私は。
妻じゃないのに。
叱る権利なんてないのに。
なのに怜央は、驚いた顔をしたあと、少しだけ目を細めた。
「……君がいるのが、当たり前になった」
怜央は言った。
「――たとえ、それが嘘から始まったことだとしても」
私は、涙を拭うこともできずに立ち尽くした。
胸の奥が熱い。
嬉しいのに、苦しい。
「……怜央」
「ん」
「私、あなたと……もう少し一緒にいてもいいですか?」
言った瞬間、顔が熱くなった。
ここから出ていくと言うつもりだったのに、口が勝手に。
止めたかったのに、止まらなかった。
怜央の目が、ほんのわずかに揺れた。
それは驚きじゃない。痛みと、安堵が混じった揺れ。
「……そうか。ありがとう」
私は、かすれた声で答えた。
「ただし、嘘はもう、つきません。妻役も終わりです」
「それでいい」
怜央は、ほんの少しだけ微笑んだ。
それは、昨日までの甘い笑顔とは違う。
現実を知った男の、静かな笑顔だった。
「失礼いたします」
御堂が入室してきた。
手元にはタブレット。仕事の顔だ。
「怜央様、体調はいかがですか」
「落ち着いた。……御堂、ありがとう。説明も」
「いえ。必要な情報を整理しただけです」
御堂は視線を私に向け、わずかに頷いた。
話は終わったようですね、とでも言いたげに。
怜央が、タブレットに目をやりながら問う。
「事故の件は?」
「再調査を進めています。……一点、気になる情報が出ました」
「何だ」
「まだ確証段階ではありません。ただ、車両の整備履歴と、当日の動きに不自然な点が複数」
私は息を殺した。
怜央の表情が、僅かに引き締まる。
「続けろ」
「はい。――ブレーキ系統に、外的な介入があった可能性が高いです」
「……外的な介入」
「故障ではなく、手を入れられた疑いです」
怜央の瞳が、鋭くなる。
医師の目ではない。
久遠家の人間の目だ。
「つまり、事故は……」
私の声が震えた。
御堂は私を一瞬だけ見てから、淡々と続けた。
「断定はできません。しかし、偶然で片づけるには要素が揃いすぎています」
「犯人の目星は?」
怜央の声は静かだが、空気が変わった。
御堂は一拍置いた。
「……情報の出所を辿ります。確実な証拠を固めてから、ご報告します」
怜央は頷いた。
それ以上は聞かなかった。
だが、目の奥の光が、もう昨夜までのものではない。
私は思わず左手を握りしめた。
指輪が、きゅっと食い込む。
本物じゃないのに。
でも今は、外すことができなかった。
さっきまで人の気配で満ちていたはずの空気が、嘘みたいに引いていく。
私は、客間へ続く曲がり角で立ち止まった。
指先が冷えている。パールのネックレスが、喉のあたりに重たい。
……息がうまくできない。
胸の奥が、まだ会食の残り香みたいにざわついている。
倒れた怜央は、本家のゲストルームに運び込まれた。
医師が呼ばれ、御堂が指示を出し、使用人たちが慣れた手つきで布団を整えていく。
その流れの中で、私だけが場違いな異物みたいに立ち尽くしていた。
「……私、何やってるんだろ」
妻としてここにいるのに、妻じゃない。
奥様と呼ばれて頭を下げられるのに、私は契約書にサインしただけの他人。
左手の薬指が、じくじく疼いた。
指輪は軽い。けれど、罪悪感は重い。
「梨音さん」
低い声に、肩が跳ねる。
御堂慎也が、廊下の陰から姿を現した。相変わらず感情の読めない、端正な顔。
ネクタイもスーツも乱れていないのに、目だけが少し疲れている。
「……怜央は?」
「眠りました。鎮静剤は最低限。脳の検査も問題なし。――ただ、ストレス反応が強い」
ストレス反応。
その原因に、私は心当たりしかない。
「……私、帰ったほうが」
「帰れません」
きっぱり。切り捨てるような言葉。
私は、喉の奥で空気が引っかかるのを感じた。
「怜央様が落ち着くまで、あなたはここにいる必要がある」
「でも、私は……」
妻じゃないと、怜央は知ってしまった。
その言葉が、喉の奥で鋭い魚骨みたいに引っかかる。
御堂はほんの一瞬だけ視線を逸らし、言い直した。
「……あなたにしかできない役割が、まだ残っています」
「それ、契約の話ですか」
「契約の話です」
あまりにも正直で、私は苦笑しかけて、やめた。
笑ったら、涙がこぼれそうだったから。
「今夜は休んでください。あなたが倒れたら、さらに厄介です」
「……厄介って言い方、ひどいですね」
「業務上、正確です」
御堂は冗談を言っているつもりなのか、いないのか。
私は情けなくて、唇を噛んだ。
「……客間、入ってもいいですか」
「今は控えてください。眠りが浅い。起こせば、また心拍が上がります」
「……わかりました」
御堂に返事をして、私は廊下を戻った。
足音が、やけに大きく聞こえる。
絨毯が音を吸ってくれるはずなのに、胸の鼓動が床に落ちるみたいに響く。
本家の夜は、豪奢なのに冷たい。
どこまでも整いすぎていて、嘘をついたまま居場所を与えられている自分が、そこに浮いている気がした。
――偽物の妻。
私は自分の左手薬指を見た。
指輪が、淡い照明を拾って、きれいに光っている。
「……きれい、だね」
本物じゃないのに。
本物みたいに、きれいだ。
……指輪は嘘の証拠品。
でも、怜央がそれを見て安心して笑うたび、嘘が少しずつ現実になっていく気がして――怖かった。
その夜、私は怜央の部屋とは別に、本家屋敷のゲストルームを用意してもらった。
でも、ほとんど眠れなかった。
寝具の柔らかさが、罪悪感を膨らませるだけだった。
枕に顔を埋めても、瞼の裏に浮かぶのは怜央の顔だ。
妻だろ?とまっすぐ見つめた目。
屋敷に来てから、何度も呼ばれた「梨音」の声。
優しい指先。
「……ごめんなさい」
……明日、言おう。
絶対に言おう。
本当のことを。
そう決めても、胸の奥は勝手に弱くなる。
言ったら終わると、子どもみたいに怯えてしまう。
終わるのが怖い。
でも、このまま続ける訳にはいかない。
時計の針が進む音が、やけに鮮明だった。
翌朝。
ノックの音は控えめだったが、私の心臓にはやけに響いた。
「梨音さん。起きていますか」
御堂の声だ。
梨音は上体を起こし、喉を潤す前に返事をした。
「はい……」
「怜央様が目覚めました。落ち着いています。――あなたに会いたいと」
「……会いたい、って」
「正確には『梨音は?』と。二回。三回目で私が止めました」
「止めたんですか」
「ええ。あなたが準備不足のまま行って、倒れたら困ります」
「……私、倒れる前提なんですね」
「業務上、想定は必要です」
会いたい。
それは嬉しい言葉のはずなのに、私には判決みたいに聞こえた。
「……分かりました。すぐ行きます」
鏡の前で髪を整えながら、私は何度も深呼吸した。
指先が震える。
リップを塗ろうとして、手がぶれて口角を汚す。慌てて拭って、また深呼吸。
言わなきゃ。
言わなきゃいけない。
昨日までの彼は、信じていた。
私が妻で、ふたりは夫婦で、幸せな日々が当然のように続くと。
でも今朝の彼は、もう違うかもしれない。
記憶が戻り始めた、と御堂は言った。断片的に、現実が戻り始めた、と。
私は廊下を歩きながら、頭の中でセリフを組み立てる。
「ごめんなさい」
「騙していました」
「私は、あなたの妻じゃない」
――言えるのか。
いや、言わなきゃいけない。
……でも、もし怜央が冷たい目で「出ていけ」と言ったら?
……もし、怒って、傷ついて、二度と笑ってくれなくなったら?
胸がぎゅっと縮む。
それでも、歩く。
逃げない。逃げたら、私が私じゃなくなる。
ゲストルームの前で足が止まった。
扉越しに、静かな気配がある。息遣いが、生きている。
御堂が扉を開けた。
「どうぞ」
私は一歩踏み出す。
部屋の中は朝日が柔らかく、白いカーテンが揺れていた。
昨日の夜の冷たさが嘘みたいに、温かい光。
ベッドに横たわっていた怜央は、上体を起こしていた。
顔色はまだ青白い。でも、目だけははっきりとこちらを捉えている。
――その目。
昨日までの甘さとは違う。
穏やかで、冷静で、それでも温度がある。
その温度が、私の胸を焼く。
「……梨音」
名前を呼ばれて、胸が詰まった。
妻として呼ばれる梨音なのか。
それとも、ただの桐生梨音としてなのか。
「……怜央」
声が震えた。
怜央は、ゆっくりと頷いた。
「来てくれて、ありがとう」
「……御堂さんから、聞きました。落ち着いたって」
「ああ。……少し、戻った」
私は、ベッドの脇に立ったまま、手を握りしめた。
握りすぎて、爪が掌に刺さる。
「……思いだしたんですよね?」
「……何を?」
「私が……あなたの妻ではないと」
空気が止まった。
カーテンの揺れる音だけが、妙に大きい。
怜央の喉が小さく動くのが見えた。
怜央は目を伏せ、短く答えた。
「ああ」
たった一音で、私の中の糸が切れた。
胸の奥に溜めていたものが、雪崩みたいに崩れる。
「……私は、あなたの本当の妻じゃない」
言いながら、涙がこぼれた。
「ごめんなさい。騙していて……契約で……私は、借金の返済のために……っ」
言葉がぐちゃぐちゃになる。
言い訳をしたいのか、謝りたいのか、もう自分でもわからない。
「指輪も……外せなくて……本物じゃないのに、本物みたいに扱われて……私、ずっと、怖くて……」
「……うん」
怜央の短い相槌が、余計に涙を誘う。
「怖かったんです……。あなたが優しいほど、私が最低で……」
「最低じゃない」
「でも――」
「君が最低なら、俺はそれを利用した側だ」
私は息をのんだ。
怜央は、責めるでもなく、苛立つでもなく、ただ静かに言葉を重ねた。
「御堂から、妻役を引き受けてくれた経緯を聞いた」
「……っ」
妻役という言葉が、胸に刺さった。
役。演技。契約。仕事。
そうだ。全部、そうだったはずだ。
怜央は続ける。
「こちらの都合で、振り回して悪かった」
「……え?」
梨音は顔を上げた。
怒られると思っていた。軽蔑されると思っていた。最低だ、と言われると思っていた。
なのに、怜央の口から出たのは謝罪だった。
「……どうして、謝るんですか。私が、騙したのに……それに、あなたは私に……優しくしてくれた……」
「優しくしたのは、俺の意思だ」
「でも、それは……前提が……」
「前提が違っても、俺がそうした事実は消えない」
怜央は視線をまっすぐに向けた。
その目に、記憶喪失の混乱は少ない。
むしろ、整理された痛みだけがあった。
「記憶が断片的に戻った」
「どんな……?」
「仕事のこと。家族のこと。事故にあったこと」
怜央は言葉を探すように、少しだけ視線を宙に泳がせる。
「……それから、俺が沙羅との結婚を控えていたこと」
私の喉が鳴った。
沙羅の顔が浮かぶ。あの場に現れた、完璧な微笑みの女。
怜央は、わずかに眉を寄せる。
「名前は……出てくる。でも、感情がうまく繋がらない」
「感情?」
「好きだったのか、必要だったのか、義務だったのか……そこが、空白だ」
空白。
私の胸は、勝手に痛む。
好きであってほしくない。
でも、好きじゃないとも決めつけられない。
そんな自分が、醜い。
「……君が俺を助けてくれたんだよな……。ありがとう……」
怜央の眉がわずかに寄った。
「……でも、事故の原因は思い出せない。思い出そうとすると、頭が痛む。――ブレーキの感触だけが、変に残ってる」
私は息を止めて、怜央の言葉を聞いていた。
怜央は、しばらく黙っていたが、言葉を選ぶように続けた。
「俺の妻じゃなかったんだな……」
私は唇を噛みしめた。
もう終わりだ。
契約は、終わり。ここにいる理由は、終わり。
「……私、出ていきます」
「待て」
怜央の声が、少しだけ強くなる。
私は動けなくなった。
「契約の期間は、まだ残ってるだろ」
「それは……」
「御堂は、俺の精神安定のために君が必要だったと言った。……でも今は、違う」
「違う、って」
「今は俺の意思で、君にここにいてほしいと思ってる」
私は思わず首を振った。
「……そんな、妻ではないと思い出されたのなら、もうここにいられません」
「都合がいいのは自覚してる」
怜央は即座に言った。
「でも、混乱してる。記憶はまだ欠けてる。君がいない状態で俺がどうなるか、俺自身が一番怖い」
怖い。
その言葉が、私の胸を掴んだ。
「……あなたが、怖いって言うの、ずるいです」
「ずるくていい。今だけは」
怜央は、苦い笑みを浮かべた。
「断っていい」
怜央はすぐに言った。
「拒否する権利は君にある。契約だろうと、そうじゃなかろうと。……ただ、頼みたい」
頼みたい。
妻としてではなく、梨音に。
「昨日、俺は倒れた」
怜央は少し自嘲するように笑った。
「情けないな。医者のくせに」
「情けなくない……!」
私は反射で言い返した。
「あなたは記憶がない中、ずっと事故後のリハビリを頑張っていた……」
「そうか」
「……だから、倒れた時くらい、平気な顔しないでください」
言ってしまってから、私は目を見開いた。
何を言ってるんだ、私は。
妻じゃないのに。
叱る権利なんてないのに。
なのに怜央は、驚いた顔をしたあと、少しだけ目を細めた。
「……君がいるのが、当たり前になった」
怜央は言った。
「――たとえ、それが嘘から始まったことだとしても」
私は、涙を拭うこともできずに立ち尽くした。
胸の奥が熱い。
嬉しいのに、苦しい。
「……怜央」
「ん」
「私、あなたと……もう少し一緒にいてもいいですか?」
言った瞬間、顔が熱くなった。
ここから出ていくと言うつもりだったのに、口が勝手に。
止めたかったのに、止まらなかった。
怜央の目が、ほんのわずかに揺れた。
それは驚きじゃない。痛みと、安堵が混じった揺れ。
「……そうか。ありがとう」
私は、かすれた声で答えた。
「ただし、嘘はもう、つきません。妻役も終わりです」
「それでいい」
怜央は、ほんの少しだけ微笑んだ。
それは、昨日までの甘い笑顔とは違う。
現実を知った男の、静かな笑顔だった。
「失礼いたします」
御堂が入室してきた。
手元にはタブレット。仕事の顔だ。
「怜央様、体調はいかがですか」
「落ち着いた。……御堂、ありがとう。説明も」
「いえ。必要な情報を整理しただけです」
御堂は視線を私に向け、わずかに頷いた。
話は終わったようですね、とでも言いたげに。
怜央が、タブレットに目をやりながら問う。
「事故の件は?」
「再調査を進めています。……一点、気になる情報が出ました」
「何だ」
「まだ確証段階ではありません。ただ、車両の整備履歴と、当日の動きに不自然な点が複数」
私は息を殺した。
怜央の表情が、僅かに引き締まる。
「続けろ」
「はい。――ブレーキ系統に、外的な介入があった可能性が高いです」
「……外的な介入」
「故障ではなく、手を入れられた疑いです」
怜央の瞳が、鋭くなる。
医師の目ではない。
久遠家の人間の目だ。
「つまり、事故は……」
私の声が震えた。
御堂は私を一瞬だけ見てから、淡々と続けた。
「断定はできません。しかし、偶然で片づけるには要素が揃いすぎています」
「犯人の目星は?」
怜央の声は静かだが、空気が変わった。
御堂は一拍置いた。
「……情報の出所を辿ります。確実な証拠を固めてから、ご報告します」
怜央は頷いた。
それ以上は聞かなかった。
だが、目の奥の光が、もう昨夜までのものではない。
私は思わず左手を握りしめた。
指輪が、きゅっと食い込む。
本物じゃないのに。
でも今は、外すことができなかった。



