久遠家の夜は、静かすぎるほど静かだ。
人の気配があるはずの廊下でさえ、足音が吸い込まれていく。壁に掛けられた絵画も、磨かれた床も、呼吸をひそめてこちらを見ているみたいで――私は自分の心音がうるさいのを誤魔化すように、そっと指先を握りしめた。
怜央の書斎。
御堂の低く、冷えた声がいつも通り、事故の調査報告をする。
優しさはない。でも、怜央にとって必要な情報だけを、過不足なく置いていく。
「また、婚約に関しては、解消へ向けた手続きに入りました。高嶺側の反発は想定されますが、こちらは――」
「……思い出した」
突然、怜央の声が割り込んだ。
空気が、そこで一瞬止まった気がした。
「怜央様――」
御堂が言いかける。
制止が必要だと分かるくらい、怜央の声が、ほんの少しだけ震えていた。
「いい。大丈夫だ」
怜央は短く言い切った。
でも、大丈夫な人の言い方じゃない。むしろ、倒れないように自分を支えるために言っている声だ。
「雨の匂いがする。……窓、閉まってるのに」
雨の匂い。
その一言で、私の視界が一瞬だけ揺れた。
――雨音とサイレン。
白いライト。
つぶれた車。
胸の奥が、きゅっと縮む。
「梨音」
顔を上げた怜央が、私を見た。
その瞳が――怖いくらい澄んでいる。
そこには、全部を思い出してしまった久遠怜央の姿があった。
「……大丈夫?」
口に出した瞬間、自分でも可笑しくなる。
大丈夫じゃないのは、私のほうだ。
なのに、私は彼を気遣うふりをして、痛いところから目を逸らそうとしている。
怜央は一度だけ目を細めた。
怒っているようにも、泣きそうにも見える、その中間。
「御堂。今日はもういい。下がってくれ」
怜央が言った。
御堂は一瞬だけ迷うように視線を揺らした。
怜央の顔と、私の顔を、ほんの短い時間で天秤にかける。
それから、すぐに頭を下げた。
「承知しました。怜央様。……梨音さんも、冷えますので」
御堂は扉を閉めた。
カチリ、と静かな音。
その音が、私の逃げ道まで閉め切った気がした。
二人きりになった瞬間、書斎の空気がさらに重くなる。
暖炉の火の音だけが、やけに鮮明だ。ぱち、ぱち、と小さく弾けるたびに、私の心臓も同じリズムで跳ねる。
怜央は、椅子に深く腰を下ろし、指でこめかみを押さえた。
その動きが、まるで痛みを押し込めているみたいで――私は、言葉を失う。
「……俺の中で、欠けてたピースが、今、全部はまった」
怜央は淡々と言った。
「……記憶、戻ったの?」
喉が乾いて、ごくりと唾を飲む。
聞かなくても分かる。分かるのに、聞いてしまう。
「完全に」
その一言に、視界が少し滲んだ気がした。
暖炉の火のせいだ、と思い込もうとした。
でも、違う。涙が滲んでいる。
怜央は、しばらく私を見ていた。
その沈黙が、痛い。
目を逸らしたいのに逸らせない。まるで手術台の上に横たわっている気分。
「……梨音」
「……はい」
声が震えた。
気づかれないように、笑おうとした。
でも、頬がうまく動かない。
「……庭を歩かないか」
唐突に、怜央が言った。
「え……?」
「話したい。ここだと、息が詰まる」
怜央はそう言って、ゆっくり立ち上がった。
私は頷くしかなかった。
だって――断れなかった。
今夜の彼は、私の拒否を許さない気がしたから。
というより、私が拒否したら、その瞬間に終わりが確定してしまう気がして。
廊下を抜け、庭へ出る扉を開けた瞬間、冷気が頬を刺した。
庭に出ると、空気が一気に冷たい。
吐く息が白くなって、月明かりに溶ける。
久遠家の庭は、夜になると別世界みたいだ。
「寒いな」
怜央が呟いた。
「……はい」
怜央は、ふいに立ち止まって、私の前に回り込んだ。
月明かりが、彼の横顔を鋭く縁取る。
「じっとして」
その声は、命令じゃない。
でも、逆らえない。
逆らったら、私の中の何かが壊れる気がした。
怜央は私の首元に手を伸ばし、マフラーを巻いてくれた。
前に――庭でしてくれた時と同じように。
あの夜も、彼は迷いなく私にマフラーを掛けてくれた。
肌が、熱い。
触れられたところだけ、嘘みたいに熱が集まる。
指先の温度が、私の心臓まで伝わってくる。
「……前も、同じことをしたな」
怜央が言った。
私の首元から手を離すのが、少しだけ名残惜しそうに見えて、余計に胸が苦しくなる。
「覚えてる?」
怜央の声は静かだった。
でも、試すみたいな響きがあった。
「覚えてるよ。……忘れようとしても、忘れられない」
そう言うと、怜央の指が一瞬だけ止まった。
ほんの数秒。
でも、その数秒の間に、彼の中で何かが揺れたのが分かった。
「俺もだ」
怜央は、息を吐くみたいに言った。
「思い出した。事故の前のこと」
そう言って、怜央は視線を月に向けたまま、歩き出した。
私は、その隣をついていく。
少しだけ遅れないように。
少しだけ近づきすぎないように。
池の水面が、暗い鏡みたいに月を映している。
風が弱くて、庭木の影がゆっくり揺れる。
揺れる影の中を歩くたび、私の心も一緒に揺れる。
「事故の数日前、俺は沙羅に言った」
怜央の声が、静かに夜に落ちた。
「政略婚は終わりにするって」
私は思わず足を止めそうになった。
息が止まった。
終わりにする。その言葉が、まるで刃みたいに鋭い。
怜央は、それに気づかないふりをして、淡々と続ける。
気づいているのに、わざと続けているのかもしれない。私が逃げないように。
「俺はずっと、沙羅との結婚を仕事として割り切ってた。家のため、グループのため、必要な結婚だと。……でも、限界が来た」
その言葉の端に、怜央の疲れが滲む。
天才外科医とか御曹司とか、そういう肩書きの向こう側にいる、ひとりの男の疲れ。
「束縛が、酷くなっていった。予定の確認、連絡の強要、会う人間の選別。――俺の人生が、彼女の所有物みたいに扱われるようになった」
言葉が、胸に刺さる。
そんな話を、私は聞いていいのだろうか。
でも、聞かなかったら、怜央はもっと孤独になる気がした。
「……それ、ずっと耐えてたの?」
思わず漏れた私の声に、怜央はわずかに眉を動かした。
驚いたようにも、呆れたようにも見えた。
「耐えるのが普通だと思ってた。俺の立場なら、そうするのが正しいってな」
怜央の声が、自嘲気味に落ちる。
「……正しさって、便利だ。自分を誤魔化せる」
私は胸の前で手を握りしめた。
正しさ。
私もそうだ。契約。借金。事情。
正しさの名札をぶら下げて、嘘を続けてきた。
「俺は、言ったんだ。本当に愛せる人を探すって。だから婚約を解消したいと」
怜央が、その言葉を口にした瞬間。
私は、なぜか息が止まった。
本当に愛せる人。
その言葉が、胸の奥を揺らす。
心当たりがあるみたいに、怖い。
「沙羅は笑った。……最初はな」
怜央の声が、少しだけ低くなる。
「そして次の瞬間、目が変わった。笑ってるのに、目が冷たかった」
――その光景が、怜央の中で今も鮮明なんだろう。
私には見えないのに、夜の空気が少しだけ凍った気がした。
月明かりさえ、冷たく見える。
「許さないって言われた」
怜央は短く、噛み切るように言った。
「あなたは私のものよって。……あのとき、背筋が冷えた。俺は初めて、彼女を怖いと思った」
私は唇を噛んだ。
高嶺沙羅。上品で、完璧な婚約者。
会食の席で見た、あの笑み。
優雅で、綺麗で――でも、目が笑っていなかった。
「あの日、事故当日――沙羅から連絡が来た」
怜央が、歩く速度を落とした。
まるで、その先を言葉にするのが重いみたいに。
私も、自然と歩幅を合わせる。
「婚約解消の話を内密にしたいって」
私は、指先が冷えていくのを感じた。
「……それで、怜央は?」
声が小さくなる。
聞きたくないのに、聞かなきゃいけないと思った。
「指定された場所に向かった。秘書も付けずに。……内密に、と言われたからだ」
その言葉に、胸がぎゅっと締まる。
内密――それは、二人きりを意味する。
誰にも見られない場所。誰にも止められない場所。
「雨だった。高速に乗る前、車内で――嫌な予感がしてたのに」
怜央の声が、一瞬だけ掠れた。
悔しさか、怒りか。
それとも、自分への苛立ち。
「……そして、事故が起きた」
私は、思わず怜央の袖を掴んでいた。
指先が震える。
掴んだ布地の感触が現実なのに、話の内容だけが悪夢みたいで、頭が追いつかない。
「……ごめん。つらそうだったから」
自分でも、何に謝っているのか分からない。
話させてしまってごめん。思い出させてごめん。
あなたを守れなくてごめん。
いろんなごめんが喉の奥で絡まって、苦い。
怜央が振り返った。
そして、視線が私の左手の薬指に落ちた。
指輪。
嘘の証拠。
私の喉が、きゅっと固まる。
怜央の目が、指輪から私の顔へ戻る。
その視線が痛い。
でも、怜央は何も言わなかった。
責めもしない。笑いもしない。
ただ、静かに息を吐いた。
「寒い。帰ろう」
そう言って、怜央は私の手を取った。
指先が触れた瞬間、体の奥がびくりと跳ねる。
握られた手が温かくて、冷えた指輪がいっそう重く感じる。
私は、指輪の重さを感じながら、歩き出す。
嘘が、まだ指に残っている。
でも――怜央の手の温度は、嘘じゃない。
……この温度に、甘えてしまったら。
私はきっと、戻れなくなる。
それでも私は、握り返してしまう。
弱い。卑怯。
そう思うのに、手を離せない。
人の気配があるはずの廊下でさえ、足音が吸い込まれていく。壁に掛けられた絵画も、磨かれた床も、呼吸をひそめてこちらを見ているみたいで――私は自分の心音がうるさいのを誤魔化すように、そっと指先を握りしめた。
怜央の書斎。
御堂の低く、冷えた声がいつも通り、事故の調査報告をする。
優しさはない。でも、怜央にとって必要な情報だけを、過不足なく置いていく。
「また、婚約に関しては、解消へ向けた手続きに入りました。高嶺側の反発は想定されますが、こちらは――」
「……思い出した」
突然、怜央の声が割り込んだ。
空気が、そこで一瞬止まった気がした。
「怜央様――」
御堂が言いかける。
制止が必要だと分かるくらい、怜央の声が、ほんの少しだけ震えていた。
「いい。大丈夫だ」
怜央は短く言い切った。
でも、大丈夫な人の言い方じゃない。むしろ、倒れないように自分を支えるために言っている声だ。
「雨の匂いがする。……窓、閉まってるのに」
雨の匂い。
その一言で、私の視界が一瞬だけ揺れた。
――雨音とサイレン。
白いライト。
つぶれた車。
胸の奥が、きゅっと縮む。
「梨音」
顔を上げた怜央が、私を見た。
その瞳が――怖いくらい澄んでいる。
そこには、全部を思い出してしまった久遠怜央の姿があった。
「……大丈夫?」
口に出した瞬間、自分でも可笑しくなる。
大丈夫じゃないのは、私のほうだ。
なのに、私は彼を気遣うふりをして、痛いところから目を逸らそうとしている。
怜央は一度だけ目を細めた。
怒っているようにも、泣きそうにも見える、その中間。
「御堂。今日はもういい。下がってくれ」
怜央が言った。
御堂は一瞬だけ迷うように視線を揺らした。
怜央の顔と、私の顔を、ほんの短い時間で天秤にかける。
それから、すぐに頭を下げた。
「承知しました。怜央様。……梨音さんも、冷えますので」
御堂は扉を閉めた。
カチリ、と静かな音。
その音が、私の逃げ道まで閉め切った気がした。
二人きりになった瞬間、書斎の空気がさらに重くなる。
暖炉の火の音だけが、やけに鮮明だ。ぱち、ぱち、と小さく弾けるたびに、私の心臓も同じリズムで跳ねる。
怜央は、椅子に深く腰を下ろし、指でこめかみを押さえた。
その動きが、まるで痛みを押し込めているみたいで――私は、言葉を失う。
「……俺の中で、欠けてたピースが、今、全部はまった」
怜央は淡々と言った。
「……記憶、戻ったの?」
喉が乾いて、ごくりと唾を飲む。
聞かなくても分かる。分かるのに、聞いてしまう。
「完全に」
その一言に、視界が少し滲んだ気がした。
暖炉の火のせいだ、と思い込もうとした。
でも、違う。涙が滲んでいる。
怜央は、しばらく私を見ていた。
その沈黙が、痛い。
目を逸らしたいのに逸らせない。まるで手術台の上に横たわっている気分。
「……梨音」
「……はい」
声が震えた。
気づかれないように、笑おうとした。
でも、頬がうまく動かない。
「……庭を歩かないか」
唐突に、怜央が言った。
「え……?」
「話したい。ここだと、息が詰まる」
怜央はそう言って、ゆっくり立ち上がった。
私は頷くしかなかった。
だって――断れなかった。
今夜の彼は、私の拒否を許さない気がしたから。
というより、私が拒否したら、その瞬間に終わりが確定してしまう気がして。
廊下を抜け、庭へ出る扉を開けた瞬間、冷気が頬を刺した。
庭に出ると、空気が一気に冷たい。
吐く息が白くなって、月明かりに溶ける。
久遠家の庭は、夜になると別世界みたいだ。
「寒いな」
怜央が呟いた。
「……はい」
怜央は、ふいに立ち止まって、私の前に回り込んだ。
月明かりが、彼の横顔を鋭く縁取る。
「じっとして」
その声は、命令じゃない。
でも、逆らえない。
逆らったら、私の中の何かが壊れる気がした。
怜央は私の首元に手を伸ばし、マフラーを巻いてくれた。
前に――庭でしてくれた時と同じように。
あの夜も、彼は迷いなく私にマフラーを掛けてくれた。
肌が、熱い。
触れられたところだけ、嘘みたいに熱が集まる。
指先の温度が、私の心臓まで伝わってくる。
「……前も、同じことをしたな」
怜央が言った。
私の首元から手を離すのが、少しだけ名残惜しそうに見えて、余計に胸が苦しくなる。
「覚えてる?」
怜央の声は静かだった。
でも、試すみたいな響きがあった。
「覚えてるよ。……忘れようとしても、忘れられない」
そう言うと、怜央の指が一瞬だけ止まった。
ほんの数秒。
でも、その数秒の間に、彼の中で何かが揺れたのが分かった。
「俺もだ」
怜央は、息を吐くみたいに言った。
「思い出した。事故の前のこと」
そう言って、怜央は視線を月に向けたまま、歩き出した。
私は、その隣をついていく。
少しだけ遅れないように。
少しだけ近づきすぎないように。
池の水面が、暗い鏡みたいに月を映している。
風が弱くて、庭木の影がゆっくり揺れる。
揺れる影の中を歩くたび、私の心も一緒に揺れる。
「事故の数日前、俺は沙羅に言った」
怜央の声が、静かに夜に落ちた。
「政略婚は終わりにするって」
私は思わず足を止めそうになった。
息が止まった。
終わりにする。その言葉が、まるで刃みたいに鋭い。
怜央は、それに気づかないふりをして、淡々と続ける。
気づいているのに、わざと続けているのかもしれない。私が逃げないように。
「俺はずっと、沙羅との結婚を仕事として割り切ってた。家のため、グループのため、必要な結婚だと。……でも、限界が来た」
その言葉の端に、怜央の疲れが滲む。
天才外科医とか御曹司とか、そういう肩書きの向こう側にいる、ひとりの男の疲れ。
「束縛が、酷くなっていった。予定の確認、連絡の強要、会う人間の選別。――俺の人生が、彼女の所有物みたいに扱われるようになった」
言葉が、胸に刺さる。
そんな話を、私は聞いていいのだろうか。
でも、聞かなかったら、怜央はもっと孤独になる気がした。
「……それ、ずっと耐えてたの?」
思わず漏れた私の声に、怜央はわずかに眉を動かした。
驚いたようにも、呆れたようにも見えた。
「耐えるのが普通だと思ってた。俺の立場なら、そうするのが正しいってな」
怜央の声が、自嘲気味に落ちる。
「……正しさって、便利だ。自分を誤魔化せる」
私は胸の前で手を握りしめた。
正しさ。
私もそうだ。契約。借金。事情。
正しさの名札をぶら下げて、嘘を続けてきた。
「俺は、言ったんだ。本当に愛せる人を探すって。だから婚約を解消したいと」
怜央が、その言葉を口にした瞬間。
私は、なぜか息が止まった。
本当に愛せる人。
その言葉が、胸の奥を揺らす。
心当たりがあるみたいに、怖い。
「沙羅は笑った。……最初はな」
怜央の声が、少しだけ低くなる。
「そして次の瞬間、目が変わった。笑ってるのに、目が冷たかった」
――その光景が、怜央の中で今も鮮明なんだろう。
私には見えないのに、夜の空気が少しだけ凍った気がした。
月明かりさえ、冷たく見える。
「許さないって言われた」
怜央は短く、噛み切るように言った。
「あなたは私のものよって。……あのとき、背筋が冷えた。俺は初めて、彼女を怖いと思った」
私は唇を噛んだ。
高嶺沙羅。上品で、完璧な婚約者。
会食の席で見た、あの笑み。
優雅で、綺麗で――でも、目が笑っていなかった。
「あの日、事故当日――沙羅から連絡が来た」
怜央が、歩く速度を落とした。
まるで、その先を言葉にするのが重いみたいに。
私も、自然と歩幅を合わせる。
「婚約解消の話を内密にしたいって」
私は、指先が冷えていくのを感じた。
「……それで、怜央は?」
声が小さくなる。
聞きたくないのに、聞かなきゃいけないと思った。
「指定された場所に向かった。秘書も付けずに。……内密に、と言われたからだ」
その言葉に、胸がぎゅっと締まる。
内密――それは、二人きりを意味する。
誰にも見られない場所。誰にも止められない場所。
「雨だった。高速に乗る前、車内で――嫌な予感がしてたのに」
怜央の声が、一瞬だけ掠れた。
悔しさか、怒りか。
それとも、自分への苛立ち。
「……そして、事故が起きた」
私は、思わず怜央の袖を掴んでいた。
指先が震える。
掴んだ布地の感触が現実なのに、話の内容だけが悪夢みたいで、頭が追いつかない。
「……ごめん。つらそうだったから」
自分でも、何に謝っているのか分からない。
話させてしまってごめん。思い出させてごめん。
あなたを守れなくてごめん。
いろんなごめんが喉の奥で絡まって、苦い。
怜央が振り返った。
そして、視線が私の左手の薬指に落ちた。
指輪。
嘘の証拠。
私の喉が、きゅっと固まる。
怜央の目が、指輪から私の顔へ戻る。
その視線が痛い。
でも、怜央は何も言わなかった。
責めもしない。笑いもしない。
ただ、静かに息を吐いた。
「寒い。帰ろう」
そう言って、怜央は私の手を取った。
指先が触れた瞬間、体の奥がびくりと跳ねる。
握られた手が温かくて、冷えた指輪がいっそう重く感じる。
私は、指輪の重さを感じながら、歩き出す。
嘘が、まだ指に残っている。
でも――怜央の手の温度は、嘘じゃない。
……この温度に、甘えてしまったら。
私はきっと、戻れなくなる。
それでも私は、握り返してしまう。
弱い。卑怯。
そう思うのに、手を離せない。



