私、由紀澪の母はとにかく厳しい人だった。
母は夫を早くに亡くしたこともあり、自分にも私にも厳しく当たっていた。
私はトロくてぼんやりしていて泣き虫で、どうにも母を怒らせてばかりの子どもだった。母に褒められた記憶はなく、宿題の文字が汚いと何度も書き直しを命じられたり、テストで一問間違えて叱られたり、そういう事ばかりが思い出として残っていた。
それでも、母の弟である叔父の伝手でお見合いをした由紀家でよくしてもらい、どうにか結婚式で母に手紙を読めるまでには、母との関係も回復していた。
その後、娘に恵まれ、産院に見舞いに来てくれた母は、娘の花菜を抱いてくれた。
「あなたによく似ているわ。あなたのお父さんにも。きっと穏やかで優しい子になるわね」
その声音は穏やかだったけど、うつむいて花菜を見ていたからどんな表情だったのか、私には今でもわからないままだ。
***
それから一年半が経ち、同居している義母が言った。
「久しぶりに、澪ちゃんのお母様に遊びにきてもらったらどうかしら」
義父は私に任せると言った。
夫の瑞希さんは多少渋っていたけれど、「何かあったら呼べよ」と念を押して、私に任せてくれた。
少し迷ったけれど、せっかくなので母を呼ばせてもらうことにして、ひと月ほど経った頃、母が緊張した面持ちでやってきた。
由紀家は花農家を営んでいて、家の隣には一面に花畑が広がっている。
畑の隅で、一歳半になった花菜と三十分ほど遊んでいた母は、顔をしかめ、ベンチに腰を下ろしていた私に言った。
「あの子、本当にあなたの娘なのかしら」
その顔は昔私を叱った時と同じで厳しく、声音も冷たくて、一瞬、息が詰まった。
でも、ついうつむきそうになる前に、私は母を見つめた。その息は切れ切れで、ベンチに座り込んでうなだれていて……つい笑い出してしまった。
「はい。あの子、瑞希さんにそっくりなんです」
疲れ果てた母の視線の先では、花菜が泥まみれになって駆け回っていた。髪には花びらがついていて、手には萎れたタンポポを握りしめている。
母の服の裾と靴も同じように泥だらけで、申し訳ないやら、そこまで付き合ってくれて嬉しいやら。母の手にも花菜から渡された萎れたタンポポが握られていた。
「あなたは、あんなにおとなしかったのに……」
「そうですねえ。外に出るより、家の中でお人形遊びをするほうが好きでしたから。花菜も一応お人形でも遊ぶんですけど」
その花菜の人形は、今彼女の手元で泥に埋められていた。
私がやっていたお人形遊びより、だいぶワイルドだ。
「ねえ、澪」
「はい、お母さん」
頷くと、母は手にしていたタンポポを見た。
「私は反省しました」
「反省?」
母は私に返事をすることなく立ち上がり、泥の中を進んで花菜の方へと向かった。
「おばーちゃー。ぽぽちゃ、どーこら」
「この泥の中?」
「ぶっぶー、どろちがう、おふろ」
「あら、そうなの」
母がふっと微笑んで花菜の近くにしゃがんだ。
花菜は熱心になにかを説明していて、母がうんうんと頷いている。
しばらくして、母がまた戻ってきた。
「腰がもう無理だわ。情けない」
「体力で子どもに合わせるのは大変なことですから」
「いいえ、それは大人の怠慢です。次までには体力をつけてきます」
そう言って、ベンチで背筋を伸ばした母は、私が子どもの頃と変わらずに厳しい顔で孫娘を見つめていた。
「……あの人は、あれで意外と遠出が好きな人でした」
「あの人?」
「あなたのお父さんよ。私も一緒になってピラミッドやコロッセオを見に行ったものです」
「ピラミッドとコロッセオ!? ……私は日本から出たことがないのに?」
そう言うと、母はクスッと笑った。
「私にも若い頃があったということよ。あなたの父親は、そうやっていつも私の手を引いて明るいところへ連れていってくれるヒマワリみたいな人でした。そろそろお暇します。花菜ちゃん、次までにおばあちゃんは体力をつけてきますからね」
突然声をかけられた花菜は首をかしげて母を見上げた。
「たいりょく?」
「そうです。次までに、おばあちゃんは花菜ちゃんともっとたくさん遊べるように元気になってきます」
花菜はやはりよく分からないのか、「ふうん」と小さく頷いた。
手元にはタンポポだけでなくハルジオンやナズナで小さな花束が作られていた。
「もっと、あそぶ?」
「ええ、もっと」
「じゃあ、ぴらみっみ、いこうね」
母が呆気にとられた。
私だってそうだ。本当に子どもって何を聞いてるかわからない。
「花菜、いきなりピラミッドは大変よ」
「わかりました、花菜ちゃん」
止めに入った私に構うことなく、母は真顔で言った。
「次回は無理でも、いつか必ず花菜ちゃんと一緒にピラミッドに行きましょう」
「お母さん!?」
母はまたしゃがんで、駆け寄ってきた花菜と指切りをしていた。
***
その約束が果たされたのは花菜が高校二年生のときで、出発の前に我が家にやってきたとき、母はやはり厳しい顔で花菜に言った。
「最低限、英語で日常会話ができるようになりましたか?」
「なりました!」
「How well can you speak Arabic?」
「أستطيع أن أحيي الناس، وأن أقول اسمي، واسم جدتي، واسم الفندق. كما أستطيع أن أسأل عن مكان موقف سيارات الأجرة.」
……母はアラビア語がどのくらい使えるのかを聞いているのだろうけれど、花菜が何を言っているのか、私にはなんとなくしかわからなかった。確かにここ一年くらい、アラビア語のラジオを聴いているのは耳にしていたけれど。
花菜は自信満々に笑って、母の旅行鞄を受け取り客間へと運んで行った。
残された私は母を客間に案内しながら首を傾げてしまう。
「えっと、お母さん?」
「澪」
母は厳しい表情を私に向けた。
思わず背筋を伸ばしてしまう。
でも母は私の顔を見て小さく頷いてから、すぐに花菜へと視線を戻した。
「あなたの娘は、本当にしっかりしてるわ」
「そうですか……?」
「ええ。花菜ちゃん。今度こそ、おばあちゃんとたくさん遊びましょう」
「うん!」
母は花菜に笑顔を向けた。
相変わらず、母は私には笑顔を向けない。
すでに私に背を向けて、カバンから出したエジプトのガイドブックを花菜に差し出していた。
「ママ、お土産たくさん買ってくるからね! 紅茶やチョコがおすすめらしいから。あとねー、香水瓶とねー、パピルスの壁掛け!」
「うん。楽しみにしてるね」
熱くなる目頭を押さえながら、エジプトのお土産を選ぶ母と娘を見る。
その向こうで、ヒマワリが太陽に向かって揺れていた。
***
余談ですが、花菜が祖母とピラミッドに行っている間、世菜は瑞希の元で気まずい思いをしながらバイトしてます。
母は夫を早くに亡くしたこともあり、自分にも私にも厳しく当たっていた。
私はトロくてぼんやりしていて泣き虫で、どうにも母を怒らせてばかりの子どもだった。母に褒められた記憶はなく、宿題の文字が汚いと何度も書き直しを命じられたり、テストで一問間違えて叱られたり、そういう事ばかりが思い出として残っていた。
それでも、母の弟である叔父の伝手でお見合いをした由紀家でよくしてもらい、どうにか結婚式で母に手紙を読めるまでには、母との関係も回復していた。
その後、娘に恵まれ、産院に見舞いに来てくれた母は、娘の花菜を抱いてくれた。
「あなたによく似ているわ。あなたのお父さんにも。きっと穏やかで優しい子になるわね」
その声音は穏やかだったけど、うつむいて花菜を見ていたからどんな表情だったのか、私には今でもわからないままだ。
***
それから一年半が経ち、同居している義母が言った。
「久しぶりに、澪ちゃんのお母様に遊びにきてもらったらどうかしら」
義父は私に任せると言った。
夫の瑞希さんは多少渋っていたけれど、「何かあったら呼べよ」と念を押して、私に任せてくれた。
少し迷ったけれど、せっかくなので母を呼ばせてもらうことにして、ひと月ほど経った頃、母が緊張した面持ちでやってきた。
由紀家は花農家を営んでいて、家の隣には一面に花畑が広がっている。
畑の隅で、一歳半になった花菜と三十分ほど遊んでいた母は、顔をしかめ、ベンチに腰を下ろしていた私に言った。
「あの子、本当にあなたの娘なのかしら」
その顔は昔私を叱った時と同じで厳しく、声音も冷たくて、一瞬、息が詰まった。
でも、ついうつむきそうになる前に、私は母を見つめた。その息は切れ切れで、ベンチに座り込んでうなだれていて……つい笑い出してしまった。
「はい。あの子、瑞希さんにそっくりなんです」
疲れ果てた母の視線の先では、花菜が泥まみれになって駆け回っていた。髪には花びらがついていて、手には萎れたタンポポを握りしめている。
母の服の裾と靴も同じように泥だらけで、申し訳ないやら、そこまで付き合ってくれて嬉しいやら。母の手にも花菜から渡された萎れたタンポポが握られていた。
「あなたは、あんなにおとなしかったのに……」
「そうですねえ。外に出るより、家の中でお人形遊びをするほうが好きでしたから。花菜も一応お人形でも遊ぶんですけど」
その花菜の人形は、今彼女の手元で泥に埋められていた。
私がやっていたお人形遊びより、だいぶワイルドだ。
「ねえ、澪」
「はい、お母さん」
頷くと、母は手にしていたタンポポを見た。
「私は反省しました」
「反省?」
母は私に返事をすることなく立ち上がり、泥の中を進んで花菜の方へと向かった。
「おばーちゃー。ぽぽちゃ、どーこら」
「この泥の中?」
「ぶっぶー、どろちがう、おふろ」
「あら、そうなの」
母がふっと微笑んで花菜の近くにしゃがんだ。
花菜は熱心になにかを説明していて、母がうんうんと頷いている。
しばらくして、母がまた戻ってきた。
「腰がもう無理だわ。情けない」
「体力で子どもに合わせるのは大変なことですから」
「いいえ、それは大人の怠慢です。次までには体力をつけてきます」
そう言って、ベンチで背筋を伸ばした母は、私が子どもの頃と変わらずに厳しい顔で孫娘を見つめていた。
「……あの人は、あれで意外と遠出が好きな人でした」
「あの人?」
「あなたのお父さんよ。私も一緒になってピラミッドやコロッセオを見に行ったものです」
「ピラミッドとコロッセオ!? ……私は日本から出たことがないのに?」
そう言うと、母はクスッと笑った。
「私にも若い頃があったということよ。あなたの父親は、そうやっていつも私の手を引いて明るいところへ連れていってくれるヒマワリみたいな人でした。そろそろお暇します。花菜ちゃん、次までにおばあちゃんは体力をつけてきますからね」
突然声をかけられた花菜は首をかしげて母を見上げた。
「たいりょく?」
「そうです。次までに、おばあちゃんは花菜ちゃんともっとたくさん遊べるように元気になってきます」
花菜はやはりよく分からないのか、「ふうん」と小さく頷いた。
手元にはタンポポだけでなくハルジオンやナズナで小さな花束が作られていた。
「もっと、あそぶ?」
「ええ、もっと」
「じゃあ、ぴらみっみ、いこうね」
母が呆気にとられた。
私だってそうだ。本当に子どもって何を聞いてるかわからない。
「花菜、いきなりピラミッドは大変よ」
「わかりました、花菜ちゃん」
止めに入った私に構うことなく、母は真顔で言った。
「次回は無理でも、いつか必ず花菜ちゃんと一緒にピラミッドに行きましょう」
「お母さん!?」
母はまたしゃがんで、駆け寄ってきた花菜と指切りをしていた。
***
その約束が果たされたのは花菜が高校二年生のときで、出発の前に我が家にやってきたとき、母はやはり厳しい顔で花菜に言った。
「最低限、英語で日常会話ができるようになりましたか?」
「なりました!」
「How well can you speak Arabic?」
「أستطيع أن أحيي الناس، وأن أقول اسمي، واسم جدتي، واسم الفندق. كما أستطيع أن أسأل عن مكان موقف سيارات الأجرة.」
……母はアラビア語がどのくらい使えるのかを聞いているのだろうけれど、花菜が何を言っているのか、私にはなんとなくしかわからなかった。確かにここ一年くらい、アラビア語のラジオを聴いているのは耳にしていたけれど。
花菜は自信満々に笑って、母の旅行鞄を受け取り客間へと運んで行った。
残された私は母を客間に案内しながら首を傾げてしまう。
「えっと、お母さん?」
「澪」
母は厳しい表情を私に向けた。
思わず背筋を伸ばしてしまう。
でも母は私の顔を見て小さく頷いてから、すぐに花菜へと視線を戻した。
「あなたの娘は、本当にしっかりしてるわ」
「そうですか……?」
「ええ。花菜ちゃん。今度こそ、おばあちゃんとたくさん遊びましょう」
「うん!」
母は花菜に笑顔を向けた。
相変わらず、母は私には笑顔を向けない。
すでに私に背を向けて、カバンから出したエジプトのガイドブックを花菜に差し出していた。
「ママ、お土産たくさん買ってくるからね! 紅茶やチョコがおすすめらしいから。あとねー、香水瓶とねー、パピルスの壁掛け!」
「うん。楽しみにしてるね」
熱くなる目頭を押さえながら、エジプトのお土産を選ぶ母と娘を見る。
その向こうで、ヒマワリが太陽に向かって揺れていた。
***
余談ですが、花菜が祖母とピラミッドに行っている間、世菜は瑞希の元で気まずい思いをしながらバイトしてます。



