「一千華」
呼ばれて、影が落ちる。
目の前が少し暗くなって、顔を上げると、佐野がすぐそこにしゃがんでいた。
距離が、近い。
「経験あんの?」
あまり見ない、真剣な顔。
その視線に、どうしようもなく昂る。気にしてくれたことが、嬉しくて。独占してるみたいで、満たされて。
――でも、まだ足りない。
もう少し、振り回してやりたい。
そう思って、コクン、と小さく頷いた。
その瞬間、あたしの手首を掴んでいる佐野の手に、ぎゅっと力が入る。
……よし。
勝った。
そう思った、のに。
「じゃあ、教えてよ」
「……は?」
「俺、経験ないからさ」
そう言って、佐野はニコッと笑う。
作り物みたいな、わざとらしい笑顔。
佐野に、そういう経験がないなんて、本人の口から聞いても、信じられるわけがない。
どう見ても、うそをついてる顔。
しかも、
教えてよ、って。
そんな経験、ほんとは、ないのに。
「ククッ……」
「……気づいてるのに、意地悪しないで」
…まんまと、やり返された。
主導権を握ったつもりが、いつの間にか、ひっくり返されてる。
ほんと、どうにもうまくいかない。



