詩音と海と温かいもの

 のろのろと振り向いたら、父が立っていた。

 私は、匠海さんの手を掴んだまま、一度目を閉じて、開けた。


「お父様……お祖母様の近所にお住まいの方です」


 よかった。ちゃんと言えた。


「……小崎町のか?」

「はい。お祖母様の様子を確認してくださったり、私のことも昔から気にかけてくださっていました」


 匠海さんの顔を見たら、小さく頷いてくれた。


「川瀬匠海と申します。ご挨拶が遅くなり、申し訳ありません」

「……その川瀬さんが、ここで何を?」

「近くを通りかかりましたので、詩音さんに年末のご挨拶にと思いまして」


 掴んでいた手が、そっと握り返された。

 うん、大丈夫。

 私は、立ち向かえる。


「匠海さんは、今年から私の通う女学院近くの大学に在学されているんです。それで、春休みからお世話になっています。……お母様には、そのことをお伝えしてあります」

「そうか」


 父は少し考え込んだ。

 空はすっかり夜で、大晦日の都内には冷たい風が吹いていた。


「……明日の挨拶はどうするつもりだ」

「それ、私いらないですよね。毎年何かと理由をつけて、私は欠席ではないですか」


 私が父にこんなふうに言い返すのは、たぶん初めてだ。

 父はわずかに目を細めて、私を見下した。


「なんだ、気がついていたのか」


 いや、なんで気づいていないと思ってたのさ。

 でも父はこういう人だ。

 何て言おうか考えていたら、繋いでいた手が強く握られた。


「この子を何だと思ってんだよ!」

「ちょ、匠海さん?」


 突然のことに、驚いて振り向いたら、匠海さんが目を見開いて父を睨んでいた。


「こんな子どもを一人ぼっちにして、こんなこと言わせて、親として恥ずかしくねえのか!」

「匠海さん、大丈夫、詩音は大丈夫だから!」

「大丈夫なわけねえだろ!?」


 私を見た匠海さんは、泣きそうな顔になってしまった。


「詩音ちゃん、全然大丈夫なんかじゃねえから! 俺の前でまで強がらないで、悲しくなる」


 ……大丈夫かって言われたら、もちろん、全然大丈夫なんかじゃないんだけど。

 でも今、私がやらないといけないのは、父をなだめて、さっさとこの家から出ることだった。


「匠海さん。ありがとう、怒ってくれて。詩音は匠海さんの前で強がってるんじゃないよ。父の前で泣いても無駄だから、強がってるの」

「それ、もっと最悪じゃん……」

「ほんとにね。匠海さん、泣かないでよ」


 匠海さんが手にしたままだったハンカチを受け取って、私は手を伸ばした。

 目尻に当てたら、匠海さんは手を重ねて俯いてしまった。


「お父様。これ以上ここで騒いでしまうのは、迷惑になりますから、私は失礼します。次の春休みも川瀬さんのお宅でご厄介になろうと思います」

「……わかった」

「邪魔でしたら、この家の私の部屋も片付けてくれていいです。あと五分ください。引き上げます。匠海さん、五分だけ待っててくれる?」

「……うん」


 匠海さんと父を残して部屋に急いだ。

 もともと荷物は多くない。持ってきた旅行カバンから出し入れしてたから、机の上の宿題だけ戻せば荷造りは完了。

 コートを羽織って、スマホをポケットに入れた。匠海さんがクリスマスにくれたショールを羽織ってカバンを持ったら準備はおしまいで、五分なんて全然かからなかった。

 走って門の外まで戻ったら、意外にも父はまだそこにいて、匠海さんと何かを話していた。


「お待たせしました」


 二人が私を見た。


「えっと、良いお年を。……匠海さん、行こう」


 何も言わない父に頭を下げて、匠海さんと歩き出した。

 父は最後まで黙ったままだった。