詩音と海と温かいもの

 お盆前、俺はいつも通り日付が変わる頃にふらつきつつ帰宅した。


「匠海さん、おかえりなさい!」


 扉を開けると、上がりかまちに詩音ちゃんが座っていた。


「ただいま。え、どしたの。なんかあった?」

「なんもないけど、匠海さんが帰ってくるの待ってた」


 ニコニコしながら言われると、俺の心の柔らかいところがどうにも緩む。


「……ただいま。えっと、手ぇ洗ってくる」

「うん。あ、晩ごはんは食べた?」

「食べた。でも結構前だから腹減ってきた」

「そう言うと思ってたんだ。手を洗ったら台所に来てね」


 詩音ちゃんは笑顔のまま廊下の向こうに消えていった。

 急いで手を洗って追いかけると、台所のカウンターに湯気が上がっていた。


「夜のお友達がお土産にってラーメンをたくさん持ってきてくれたんだ。晩ごはんに食べて美味しかったから、匠海さんにも」


 詩音ちゃんの手元を覗くと、ラーメン鉢のスープに麺を入れているところだった。

 近くの小皿に、ほうれん草や玉子、チャーシューが用意されている。

 一通り盛り付けて、箸も添えて、詩音ちゃんは鉢を俺に差し出した。


「お待たせしました」

「ありがとう。いただきます」

「どうぞ、召し上がれ」


 薄暗いリビングで向かい合った。

 詩音ちゃんは麦茶を飲みながら俺を見ていた。


「おいしい?」

「うん。すっごい美味い」

「横浜家系だって」

「へえ。初めて食べた」

「美味しかったから、今度は匠海さんの部屋でも作ってよ」

「おう。ベースは豚骨と醤油なんかな」

「袋持ってくるよ」


 持ってきてもらったラーメンの袋の成分表示を見て、作り方を考えた。

 まあ、普通に横浜家系ラーメンのレトルトを買ってきて、具材乗せたらいいんだろうけど。

 全部食べ終えたら、詩音ちゃんが鉢を下げた。


「自分で洗うよ」

「いいよ。匠海さん疲れてるでしょ? 詩音が片付けるから、シャワー浴びておいでよ」

「でもさ」

「迷惑かけてばかりだから、これくらいするよ」


 ……たぶん疲れてたからだと思うけど、なんか無性にイラッときた。

 詩音ちゃんがたまに自虐的になるのには慣れてたはずなのに。


「迷惑じゃない」


 強めに言うと、詩音ちゃんはきょとんと顔を上げた。


「俺は詩音ちゃんのこと、迷惑だなんて思ったことねえよ」

「……ありがとう、匠海さん」


 あ、これ分かってねえやつだ。

 たぶん「匠海さんは優しいから」とかなんとか思ってる。千円くらい賭けてもいい。

 詩音ちゃんは少し困ったように笑ってから、台所でラーメン鉢と俺の箸を洗い、水切り籠に立てかけた。

 自分が汗だくなのは分かってたけど、詩音ちゃんがあんな困った顔のままでいるのを放っておけなかった。


「詩音ちゃん」

「……うん」

「もう、そういうこと言うな。言われると、悲しくなるから」

「……わかった。ごめんなさい」

「おいで」


 寄ってきた詩音ちゃんの頭を撫でる。

 そのまま抱き寄せて腕の中に入れると、詩音ちゃんは少し肩をふるわせて、俺の胸元に顔を寄せた。細い腕が背中に回って、汗でぐっしょり濡れたシャツをつかんだ。

 震えが止まるまで抱きしめて、詩音ちゃんの髪を撫で続けた。

 先生のレストランに行ったときより、また少し髪が伸びて、今は肩に着くくらいになっていた。


「詩音ちゃん」

「うん」

「髪型かわいい。似合ってる」

「……ありがとう、匠海さん」

「あのな、俺が優しいからじゃなくて、本気でそう思って言ってるから」

「……うん。あの、嬉しいけど、恥ずかしいので、あんまり褒めないでもらって」

「やだよ。詩音ちゃんはかわいいんだから、もうちょっと自信持てよ。美海みたいに胸張ってくれ。前を向けないなら、俺が手え引っ張るから」

「うん……うん。ありがとう、匠海さん」


 最後にぎゅうっと抱きしめて体を離すと、詩音ちゃんは照れたような困ったような顔で俺を見上げていた。

 それを見た瞬間、思わず喉が鳴った。

 あれだ。

 すげーキスしたくなった。

 危ない。

 実家じゃなくて、俺の部屋だったら、たぶんしてた。それで、そのまま――。

 唾を飲み込んで、手を離した。


「えっと、じゃあ、おやすみ。風呂入ってくる」

「おやすみなさい。お風呂は温め直してあるから、ゆっくりしてきて」


 詩音ちゃんはニコッと笑って台所から出て行った。

 しゃがみ込みたかったけど、なんとか脱衣所までたどり着く。


「やべえやべえ」


 なんかもう、本当にいろいろヤバい。

 風呂出たらさっさと寝よう。