君恋し

 年が明けて、大正十三年。
 忠範は、東京での生活を続けていた。
 千鶴との結婚式は、二月に決まっていた。準備は着々と進み、周囲からの祝福の声も絶えない。
 だが──忠範の心には、いつも雅子がいた。
 あのやつれた姿。
 悲しい微笑み。
 そして──別れ際の、あの目。
 忘れられなかった。


 一月の半ば。
 忠範は、千鶴と二人で、銀座の喫茶店にいた。
 結婚式の打ち合わせのためだ。
「伊藤さん、引き出物はこれで良いでしょうか」
千鶴が、カタログを見せた。
「ええ、それで」
 忠範は、うわの空で答えた。
 千鶴は、忠範の様子に気づいていた。
「伊藤さん……」
「はい?」
「最近、お疲れのようですね」
「いえ、そんなことは」
「無理をなさらないでください」
 千鶴は、優しく微笑んだ。
「私は、伊藤さんの幸せを願っています」
「……ありがとうございます」
 忠範は、罪悪感に駆られた。
 千鶴は──本当に良い人だ。
 優しく、思いやりがあり、自分を支えてくれる。
 だが──。
 心が、動かない。
 愛せない。


 その夜。
 忠範は、寮の部屋で一人、悩んでいた。
 このまま、千鶴と結婚していいのだろうか。
 自分は、彼女を幸せにできるのだろうか。
 だが──もう、引き返せない。
 式の準備も進んでいるし、局長の期待もある。
 今さら断れば、すべてを失う。
 職も、地位も、将来も。
忠範は、窓の外を見た。
 東京の夜景が、無数の灯りで輝いている。
 だが、その光の中に──雅子の姿は、ない。



 同じ頃。
 雅子は、田村の家で、一人台所に立っていた。
 夕食の準備をしながら、窓の外を見る。
 雪が、降り始めていた。
 山間の町は、すぐに雪に覆われる。
 寒く、暗く、静かな冬。
「雅子!」
 田村の声が、居間から響いた。
「はい」
 雅子は、急いで食事を運んだ。
 田村は、テーブルに座って待っている。
「遅いぞ」
「すみません」
 雅子は、頭を下げた。
 田村は、不機嫌そうに食事を始めた。
 雅子も、向かいに座った。
 しかし──食欲がない。
「食べないのか」
「はい……少し、体調が」
「また、か」
 田村は、舌打ちをした。
「お前、最近体が弱すぎる」
「すみません」
「医者に行け」
「はい……」
 雅子は、小さく答えた。
 でも、医者に行く気力もなかった。


田村との生活は──想像以上に辛かった。
 彼は、優しくなかった。
 仕事から帰ると、すぐに酒を飲み、些細なことで怒鳴る。
 雅子に、家事のすべてを押しつける。
 そして──夜になると。
 雅子は、それを拒むことができなかった。
 妻としての義務だから。
 だが、心は──いつも、遠くにあった。
 忠範のいる、あの場所に。


 一月の終わり。
 雅子は、ついに倒れた。
 朝、起き上がることができず、布団の中で震えていた。
 田村が、医者を呼んだ。
「栄養失調と、過労ですね」
 医者は、深刻な顔で言った。
「このままでは、危険です」
「危険?」
「ええ。しばらく、安静が必要です」
 医者は、田村を見た。
「奥さんを、もっと大切にしてあげてください」
 田村は、バツが悪そうに頷いた。


  雅子が寝込んでから、数日が経った。
 田村は、仕事に行ったきり、夜遅くまで帰ってこない。
 雅子は、一人で寝たきりの日々を過ごした。
 窓の外では、雪が降り続けている。
 白い世界が、どこまでも広がっている。
 雅子は──死を、考えた。
 このまま、消えてしまいたい。
 もう、生きる意味がない。
 家族のために働こうと思っても、体が動かない。
 愛のない結婚生活。
 そして──忠範への、消えない想い。
 すべてが、雅子を苦しめていた。




 ある夜。
 雅子の枕元に、志津が現れた。
 噂を聞いて、遠くから訪ねてきたのだ。
「雅子さん!」
 志津は、やつれた雅子を見て、涙を流した。
「どうして……こんなに」
「志津ちゃん……」
 雅子は、か細い声で答えた。
「来てくれたの」
「はい。心配で……」
 志津は、雅子の手を握った。
 その手は、冷たく、骨ばっていた。
「雅子さん、このままじゃ……」
「分かっているわ」
 雅子は、微笑んだ。
「でも、もういいの」
「良くありません!」
 志津は、泣きながら叫んだ。
「雅子さんは、まだ若いんです。これからなんです」
「これから?」
 雅子は、首を横に振った。
「私には、もう……何もないわ」
「そんなこと──」
「伊藤さんも、結婚する。私も、結婚した。もう、終わったのよ」
 雅子の目から、涙が溢れた。
「すべて、終わったの」
志津は、雅子を抱きしめた。
 二人は、しばらく泣き続けた。
 やがて、志津が口を開いた。
「雅子さん……伊藤さんに、会いませんか」
「え……」
「最後に、もう一度だけ」
 雅子は、驚いて志津を見た。
「でも、彼は東京で──」
「私が、手紙を書きます」
 志津は、真剣な目をしていた。
「雅子さんが、どれだけ苦しんでいるか。どれだけ、伊藤さんを想っているか」
「志津ちゃん、やめて」
「やめません」
 志津は、雅子の手を強く握った。
「雅子さんは、このまま終わっていい人じゃありません」
「でも……」
「お願いです。最後に、もう一度だけ──伊藤さんと、ちゃんと話をしてください」
 雅子は、迷った。
だが——。
 心の奥では、忠範に会いたいと思っていた。
 最後に、もう一度だけ。
「……分かったわ」
 雅子は、小さく頷いた。



志津は、すぐに忠範へ手紙を書いた。
 雅子の状況を、すべて書いた。
 そして──最後に、こう書いた。
「雅子さんは、今も伊藤さんを愛しています。どうか、もう一度だけ会ってあげてください」


  二月の初め。
 忠範の元に、志津からの手紙が届いた。
 忠範は、手紙を読んで、愕然とした。
 雅子が──倒れている。
 栄養失調と過労で。
 そして──今も、自分を想っていると。
 忠範は、すぐに決めた。
 会いに行く。
 最後に、もう一度。
 たとえ、すべてを失っても。


忠範は、高木に休暇を申請した。
「また、か」
 高木は、呆れた顔をした。
「もうすぐ結婚式だぞ」
「分かっています。でも──」
「でも、何だ」
「どうしても、行かなければならないんです」
 忠範の目は、真剣だった。
 高木は、ため息をついた。
「……分かった。だが、これが本当に最後だぞ」
「はい」


忠範は、再び桜井へ向かった。
 そして──雅子のいる山間の町へ。
 雪の降る中、小さな家を訪ねた。
 扉を開けたのは、志津だった。
「伊藤さん……来てくれたんですね」
「はい」
「雅子さんは、奥の部屋に」
 忠範は、家に入った。
 奥の部屋の扉を開けると──。
 雅子が、布団に横たわっていた。
 前回よりも、さらにやつれていた。
 だが──忠範の姿を見ると、目に光が戻った。
「伊藤さん……」
「雅子さん」
 忠範は、雅子の枕元に座った。
「来てくれたんですね」
「はい」
 忠範は、雅子の手を取った。
 冷たく、震えている手。
「雅子さん……ごめんなさい」
 忠範の目から、涙が溢れた。
「僕が、あなたをこんなに苦しめてしまった」
「違います」
 雅子は、首を横に振った。
「あなたは、悪くありません」
「でも──」
「私が、弱かっただけです」
 雅子は、微笑んだ。
「でも……最後に、会えて良かった」
「最後……?」
「ええ」
 雅子の目から、涙が流れた。
「伊藤さん、私は──もう、長くないかもしれません」
「そんなこと!」
「いいんです」
 雅子は、忠範の手を握り返した。
「最後に、あなたに会えたから」
「雅子さん……」
「伊藤さん、私は──あなたを、愛しています」
 雅子の声が、震えた。
「今も、そしてこれからも……ずっと」
「僕も、です」
 忠範は、雅子を抱きしめた。
「僕も、あなたを愛しています」
 二人は、抱き合って泣いた。
 長い間、積もり積もった想い。
 すれ違い。
 後悔。
 そして──変わらぬ愛情。
 すべてが、涙となって溢れた。


 どれくらい経ったのだろう。
 やがて、雅子が小さく呟いた。
「伊藤さん……お願いがあります」
「何ですか」
「もう、私のことは……忘れてください」
「そんなこと──」
「お願いです」
 雅子は、忠範の目を見た。
「あなたには、輝かしい未来があります。千鶴さんと幸せになってください」
「でも、僕は──」
「私は……もう、終わった人間です」
 雅子の涙が、止まらなかった。
「でも、あなたは違う。あなたは、これから──」
「雅子さん」
 忠範は、雅子の唇に指を当てた。
「僕は、あなたと一緒に生きたかった」
「……」
「でも、それが叶わないなら──せめて、あなたの幸せを願います」
 忠範は、雅子の額にキスをした。
「だから、お願いです。生きてください」
「伊藤さん……」
「あなたが生きていてくれれば、僕は──どんなに辛くても、頑張れます」
 雅子は、声を上げて泣いた。
 忠範も、泣いていた。
 二人は──最後の別れを、悟っていた。

 やがて、志津が部屋に入ってきた。
「伊藤さん……そろそろ」
「はい」
 忠範は、立ち上がった。
 雅子は、手を伸ばした。
「伊藤さん……」
「はい」
「ありがとう……愛してくれて」
「こちらこそ……愛してくれて、ありがとう」
 忠範は、最後にもう一度、雅子の手を握った。
 そして──部屋を出た。
 廊下で、志津が泣いていた。
「雅子さんを……お願いします」
 忠範は、深く頭を下げた。
「はい……」
 忠範は、家を出た。
 雪が、激しく降っていた。
 白い世界の中を、忠範は歩いた。
 振り返ることなく。
 だが──心の中では、何度も何度も、雅子の名前を呼んでいた。


 家の中では。
 雅子が、布団の中で泣いていた。
「伊藤さん……」
 何度も、何度も、彼の名前を呼んだ。
 だが──もう、会えない。
 これが、本当の別れだ。
 雅子は、目を閉じた。
 忠範の顔が、瞼の裏に浮かんだ。
 優しい目。
 温かい笑顔。
 そして──愛に満ちた声。
「僕は、あなたを愛しています」
 その言葉を、胸に刻んで。
 雅子は──静かに、眠りについた。