十一月の半ば。
忠範は、東京へ戻ってから、まるで別人のようになっていた。
仕事には変わらず取り組んでいるが、その目には生気がない。同僚たちも、彼の変化に気づいていた。
「伊藤くん、大丈夫か」
高木が、心配そうに声をかけた。
「はい……」
「顔色が悪いぞ。故郷で、何かあったのか」
「いえ、何も」
忠範は、無理に微笑んだ。
だが、高木には分かっていた。
恋人との別れ──それが、忠範を変えてしまったのだと。
ある日の午後。
局長が、忠範を呼んだ。
「伊藤くん、例の件だが──そろそろ返事を聞かせてもらえるかね」
忠範は、黙って頷いた。
「……はい」
「それで?」
局長は、期待の目で忠範を見た。
忠範は、深く息を吐いた。
もう、迷う理由はない。
雅子は──自分を拒んだ。
二人の関係は、終わった。
ならば──。
「お受けいたします」
忠範の声は、どこか遠かった。
「おお、本当か!」
局長の顔が、明るくなった。
「良かった。千鶴も、喜ぶだろう」
「……はい」
「では、正式に婚約という形にしよう。来月、両家で顔合わせだ」
「分かりました」
忠範は、深く頭を下げた。
局長室を出ると、廊下で立ち止まった。
胸が、空っぽだった。
これで、いいのか──。
自分に問いかけても、答えは出なかった。
その夜。
忠範は、寮の部屋で雅子の写真を見ていた。
桜の木の下で微笑む、雅子の姿。
優しい笑顔。
温かい目。
だが、もう──会えない。
忠範は、写真を引き出しの奥にしまった。
そして──千鶴からの手紙を取り出した。
「伊藤様、父から伺いました。本当に、嬉しく思います……」
丁寧な字で、上品な文章。
千鶴は──良い人だ。
美しく、聡明で、教養もある。
だが──。
忠範の心は、動かなかった。
同じ頃、桜井では。
雅子と田村の結婚話が、急速に進んでいた。
田村は、新しい仕事を見つけていた。別の町の工場で、管理職として働くことになったのだ。
「小野、来月には結婚しよう」
田村が、嬉しそうに言った。
「そんなに早く?」
「ああ。新しい仕事も始まるし、ちょうどいい」
雅子は、何も言えなかった。
心の準備が、できていない。
だが、もう──引き返せない。
「分かりました」
雅子は、小さく答えた。
十二月の初め。
志津が、雅子の寮を訪ねてきた。
「雅子さん、本当に……田村さんと結婚するんですか」
「ええ」
雅子は、荷物を整理しながら答えた。
「でも、雅子さん……田村さんのこと、愛していないでしょう」
「……ええ」
「なら、どうして」
「他に、道がないから」
雅子は、手を止めた。
「伊藤さんは、去った。私には、家族がいる。田村さんは、私を必要としている」
「でも……」
「それで、十分よ」
雅子は、微笑んだ。
だが、その笑顔は──悲しかった。
「志津ちゃん、心配しないで。私は、大丈夫」
「大丈夫じゃ、ありません」
志津は、泣き出した。
「雅子さん、やつれています。目に、光がありません」
「……」
「お願いです。もう一度、考え直してください」
「もう、決めたことなの」
雅子は、志津を抱きしめた。
「私のことは、忘れて。志津ちゃんは、自分の幸せを見つけて」
「雅子さん……」
二人は、抱き合って泣いた。
数日後。
田村が、雅子を新しい町へ案内した。
そこは、山間の小さな町だった。工場があり、住宅が立ち並んでいる。
「ここが、俺たちの新しい家だ」
田村が、小さな家を指差した。
古い木造の家だったが、一応整っている。
「どうだ、気に入ったか」
「……ええ」
雅子は、力なく答えた。
家の中を見て回ると、質素だが生活には十分だった。
「ここで、二人で暮らすんだ」
田村は、満足そうに笑った。
「幸せになろう、小野」
「……はい」
雅子は、窓の外を見た。
遠くに、山々が見える。
ここから──桜井は、とても遠い。
忠範がいた、あの町は。
もう、戻れない。
その夜。
雅子は、家で一人、荷物を整理していた。
田村は、仕事の準備で外出していた。
雅子は、箱の中から忠範の手紙を取り出した。
すべて、読み返した。
温かい言葉。
優しい言葉。
だが、もう──過去のものだ。
雅子は、手紙をすべて、暖炉に入れた。
火をつける。
紙が、燃えていく。
忠範の字が、煙になって消えていく。
「さようなら……」
雅子は、小さく呟いた。
涙が、頬を伝った。
でも──それが最後の涙だと、自分に言い聞かせた。
もう、泣かない。
もう、振り返らない。
新しい人生を、始めるのだ。
同じ頃、東京では。
忠範と千鶴の婚約が、正式に発表された。
局内では、祝福の声が上がった。
「おめでとう、伊藤くん」
「これで、君の将来は安泰だ」
同僚たちが、口々に祝福した。
忠範は、微笑んで応えた。
しかし──その笑顔は、作り物だった。
十二月の半ば。
忠範は、ふと思い立って、桜井の駅長に手紙を書いた。
「小野雅子さんの様子を、教えていただけませんか」
数日後、返事が来た。
「小野さんは、工場を辞めました。結婚して、別の町へ引っ越したそうです」
忠範は、手紙を読んで、呆然とした。
結婚──。
雅子が、結婚した。
相手は──おそらく、あの田村という男だろう。
忠範は、机に突っ伏した。
胸が、引き裂かれるようだった。
「小野さん……」
小さく呟いた。
もう、本当に終わったのだ。
二人の関係は──完全に、終わった。
だが、忠範は知らなかった。
雅子が、どれほど苦しんでいるかを。
どれほど、忠範を想い続けているかを。
十二月の終わり。
忠範は、ある決心をした。
もう一度──最後に、雅子に会いたい。
ちゃんと、話をしたい。
たとえ結婚していても──最後に、自分の気持ちを伝えたい。
忠範は、再び休暇を申請した。
「また、故郷へか」
高木が、怪訝な顔をした。
「はい。どうしても、やり残したことがあります」
「……分かった。だが、これが最後だぞ」
「はい」
十二月の末。
忠範は、再び桜井へ向かった。
そして──雅子の新しい住所を、志津から聞き出した。
「伊藤さん……もう、遅いんです」
志津は、悲しそうに言った。
「雅子さんは、結婚しました」
「分かっています。でも、最後に──一度だけ、会いたいんです」
志津は、迷った。
だが──忠範の真剣な目を見て、住所を教えた。
「でも、伊藤さん……雅子さんは、もう昔の雅子さんじゃありません」
「どういう意味ですか」
「……会えば、分かります」
忠範は、雅子の新しい町へ向かった。
山間の小さな町。
住所を頼りに、雅子の家を探した。
やがて、小さな家が見えた。
忠範は、深く息を吸い、門を叩いた。
しばらくして、扉が開いた。
そこに──雅子が立っていた。
だが──。
忠範は、息を呑んだ。
雅子は──別人のようだった。
頬はこけ、目の下には深い隈ができている。髪は艶を失い、肌は青白い。
かつての美しさは、影を潜めていた。
「……伊藤さん」
雅子の声も、か細かった。
「小野さん……いや、もう違いますね」
「……ええ」
雅子は、視線を落とした。
「今は、田村雅子です」
その名前が──忠範の胸に突き刺さった。
「入っても、いいですか」
「……はい」
家の中は、薄暗かった。
質素な居間に、二人は向かい合って座った。
「お茶、お出しします」
雅子が立ち上がろうとすると、忠範が止めた。
「いえ、結構です」
「……そうですか」
雅子は、再び座った。
沈黙が、重く横たわった。
「小野さん──いえ、田村さん」
「雅子で、結構です」
「……雅子さん」
忠範は、彼女の目を見た。
「僕は、来るべきではなかったかもしれません」
「……」
「でも、どうしても──最後に、伝えたいことがあったんです」
雅子は、黙って聞いていた。
「僕は、あなたを愛しています。今も、そしてこれからも」
雅子の目から、涙が溢れた。
「でも、僕は──あなたを幸せにできませんでした」
「伊藤さん……」
「本当に、ごめんなさい」
忠範も、涙を流していた。
「僕が、もっと早く気づいていれば──もっと、ちゃんとしていれば──」
「いいえ」
雅子は、首を振った。
「あなたは、悪くありません」
「でも——」
「私たちは、最初から──一緒にいてはいけなかったんです」
雅子は、微笑んだ。
だが、その笑顔は──あまりにも悲しかった。
「私は、女工。あなたは、鉄道員。違う世界の人間です」
「そんなことは──」
「あるんです」
雅子の声が、震えた。
「でも……私は、幸せでした」
「え……」
「あなたに、愛されていた時間──短かったけれど、それは私の宝物です」
雅子の涙が、止まらなかった。
「だから……これで、いいんです」
「雅子さん……」
「さようなら、伊藤さん」
雅子は、立ち上がった。
「もう、会わないでください。お願いします」
忠範も、立ち上がった。
雅子を、抱きしめたかった。
一緒に、逃げたかった。
だが──できなかった。
彼女は、もう──別の男の妻なのだ。
「……分かりました」
忠範は、扉へ向かった。
振り返ると、雅子が立っていた。
やつれた顔。
悲しい目。
だが──その目には、確かな愛情が宿っていた。
「お幸せに」
忠範は、そう言って、家を出た。
雅子は、扉の前で立ち尽くしていた。
涙が、止まらなかった。
「伊藤さん……」
小さく呟いた。
「私も……愛しています」
だが、その言葉は──もう、忠範には届かなかった。
忠範は、東京へ戻ってから、まるで別人のようになっていた。
仕事には変わらず取り組んでいるが、その目には生気がない。同僚たちも、彼の変化に気づいていた。
「伊藤くん、大丈夫か」
高木が、心配そうに声をかけた。
「はい……」
「顔色が悪いぞ。故郷で、何かあったのか」
「いえ、何も」
忠範は、無理に微笑んだ。
だが、高木には分かっていた。
恋人との別れ──それが、忠範を変えてしまったのだと。
ある日の午後。
局長が、忠範を呼んだ。
「伊藤くん、例の件だが──そろそろ返事を聞かせてもらえるかね」
忠範は、黙って頷いた。
「……はい」
「それで?」
局長は、期待の目で忠範を見た。
忠範は、深く息を吐いた。
もう、迷う理由はない。
雅子は──自分を拒んだ。
二人の関係は、終わった。
ならば──。
「お受けいたします」
忠範の声は、どこか遠かった。
「おお、本当か!」
局長の顔が、明るくなった。
「良かった。千鶴も、喜ぶだろう」
「……はい」
「では、正式に婚約という形にしよう。来月、両家で顔合わせだ」
「分かりました」
忠範は、深く頭を下げた。
局長室を出ると、廊下で立ち止まった。
胸が、空っぽだった。
これで、いいのか──。
自分に問いかけても、答えは出なかった。
その夜。
忠範は、寮の部屋で雅子の写真を見ていた。
桜の木の下で微笑む、雅子の姿。
優しい笑顔。
温かい目。
だが、もう──会えない。
忠範は、写真を引き出しの奥にしまった。
そして──千鶴からの手紙を取り出した。
「伊藤様、父から伺いました。本当に、嬉しく思います……」
丁寧な字で、上品な文章。
千鶴は──良い人だ。
美しく、聡明で、教養もある。
だが──。
忠範の心は、動かなかった。
同じ頃、桜井では。
雅子と田村の結婚話が、急速に進んでいた。
田村は、新しい仕事を見つけていた。別の町の工場で、管理職として働くことになったのだ。
「小野、来月には結婚しよう」
田村が、嬉しそうに言った。
「そんなに早く?」
「ああ。新しい仕事も始まるし、ちょうどいい」
雅子は、何も言えなかった。
心の準備が、できていない。
だが、もう──引き返せない。
「分かりました」
雅子は、小さく答えた。
十二月の初め。
志津が、雅子の寮を訪ねてきた。
「雅子さん、本当に……田村さんと結婚するんですか」
「ええ」
雅子は、荷物を整理しながら答えた。
「でも、雅子さん……田村さんのこと、愛していないでしょう」
「……ええ」
「なら、どうして」
「他に、道がないから」
雅子は、手を止めた。
「伊藤さんは、去った。私には、家族がいる。田村さんは、私を必要としている」
「でも……」
「それで、十分よ」
雅子は、微笑んだ。
だが、その笑顔は──悲しかった。
「志津ちゃん、心配しないで。私は、大丈夫」
「大丈夫じゃ、ありません」
志津は、泣き出した。
「雅子さん、やつれています。目に、光がありません」
「……」
「お願いです。もう一度、考え直してください」
「もう、決めたことなの」
雅子は、志津を抱きしめた。
「私のことは、忘れて。志津ちゃんは、自分の幸せを見つけて」
「雅子さん……」
二人は、抱き合って泣いた。
数日後。
田村が、雅子を新しい町へ案内した。
そこは、山間の小さな町だった。工場があり、住宅が立ち並んでいる。
「ここが、俺たちの新しい家だ」
田村が、小さな家を指差した。
古い木造の家だったが、一応整っている。
「どうだ、気に入ったか」
「……ええ」
雅子は、力なく答えた。
家の中を見て回ると、質素だが生活には十分だった。
「ここで、二人で暮らすんだ」
田村は、満足そうに笑った。
「幸せになろう、小野」
「……はい」
雅子は、窓の外を見た。
遠くに、山々が見える。
ここから──桜井は、とても遠い。
忠範がいた、あの町は。
もう、戻れない。
その夜。
雅子は、家で一人、荷物を整理していた。
田村は、仕事の準備で外出していた。
雅子は、箱の中から忠範の手紙を取り出した。
すべて、読み返した。
温かい言葉。
優しい言葉。
だが、もう──過去のものだ。
雅子は、手紙をすべて、暖炉に入れた。
火をつける。
紙が、燃えていく。
忠範の字が、煙になって消えていく。
「さようなら……」
雅子は、小さく呟いた。
涙が、頬を伝った。
でも──それが最後の涙だと、自分に言い聞かせた。
もう、泣かない。
もう、振り返らない。
新しい人生を、始めるのだ。
同じ頃、東京では。
忠範と千鶴の婚約が、正式に発表された。
局内では、祝福の声が上がった。
「おめでとう、伊藤くん」
「これで、君の将来は安泰だ」
同僚たちが、口々に祝福した。
忠範は、微笑んで応えた。
しかし──その笑顔は、作り物だった。
十二月の半ば。
忠範は、ふと思い立って、桜井の駅長に手紙を書いた。
「小野雅子さんの様子を、教えていただけませんか」
数日後、返事が来た。
「小野さんは、工場を辞めました。結婚して、別の町へ引っ越したそうです」
忠範は、手紙を読んで、呆然とした。
結婚──。
雅子が、結婚した。
相手は──おそらく、あの田村という男だろう。
忠範は、机に突っ伏した。
胸が、引き裂かれるようだった。
「小野さん……」
小さく呟いた。
もう、本当に終わったのだ。
二人の関係は──完全に、終わった。
だが、忠範は知らなかった。
雅子が、どれほど苦しんでいるかを。
どれほど、忠範を想い続けているかを。
十二月の終わり。
忠範は、ある決心をした。
もう一度──最後に、雅子に会いたい。
ちゃんと、話をしたい。
たとえ結婚していても──最後に、自分の気持ちを伝えたい。
忠範は、再び休暇を申請した。
「また、故郷へか」
高木が、怪訝な顔をした。
「はい。どうしても、やり残したことがあります」
「……分かった。だが、これが最後だぞ」
「はい」
十二月の末。
忠範は、再び桜井へ向かった。
そして──雅子の新しい住所を、志津から聞き出した。
「伊藤さん……もう、遅いんです」
志津は、悲しそうに言った。
「雅子さんは、結婚しました」
「分かっています。でも、最後に──一度だけ、会いたいんです」
志津は、迷った。
だが──忠範の真剣な目を見て、住所を教えた。
「でも、伊藤さん……雅子さんは、もう昔の雅子さんじゃありません」
「どういう意味ですか」
「……会えば、分かります」
忠範は、雅子の新しい町へ向かった。
山間の小さな町。
住所を頼りに、雅子の家を探した。
やがて、小さな家が見えた。
忠範は、深く息を吸い、門を叩いた。
しばらくして、扉が開いた。
そこに──雅子が立っていた。
だが──。
忠範は、息を呑んだ。
雅子は──別人のようだった。
頬はこけ、目の下には深い隈ができている。髪は艶を失い、肌は青白い。
かつての美しさは、影を潜めていた。
「……伊藤さん」
雅子の声も、か細かった。
「小野さん……いや、もう違いますね」
「……ええ」
雅子は、視線を落とした。
「今は、田村雅子です」
その名前が──忠範の胸に突き刺さった。
「入っても、いいですか」
「……はい」
家の中は、薄暗かった。
質素な居間に、二人は向かい合って座った。
「お茶、お出しします」
雅子が立ち上がろうとすると、忠範が止めた。
「いえ、結構です」
「……そうですか」
雅子は、再び座った。
沈黙が、重く横たわった。
「小野さん──いえ、田村さん」
「雅子で、結構です」
「……雅子さん」
忠範は、彼女の目を見た。
「僕は、来るべきではなかったかもしれません」
「……」
「でも、どうしても──最後に、伝えたいことがあったんです」
雅子は、黙って聞いていた。
「僕は、あなたを愛しています。今も、そしてこれからも」
雅子の目から、涙が溢れた。
「でも、僕は──あなたを幸せにできませんでした」
「伊藤さん……」
「本当に、ごめんなさい」
忠範も、涙を流していた。
「僕が、もっと早く気づいていれば──もっと、ちゃんとしていれば──」
「いいえ」
雅子は、首を振った。
「あなたは、悪くありません」
「でも——」
「私たちは、最初から──一緒にいてはいけなかったんです」
雅子は、微笑んだ。
だが、その笑顔は──あまりにも悲しかった。
「私は、女工。あなたは、鉄道員。違う世界の人間です」
「そんなことは──」
「あるんです」
雅子の声が、震えた。
「でも……私は、幸せでした」
「え……」
「あなたに、愛されていた時間──短かったけれど、それは私の宝物です」
雅子の涙が、止まらなかった。
「だから……これで、いいんです」
「雅子さん……」
「さようなら、伊藤さん」
雅子は、立ち上がった。
「もう、会わないでください。お願いします」
忠範も、立ち上がった。
雅子を、抱きしめたかった。
一緒に、逃げたかった。
だが──できなかった。
彼女は、もう──別の男の妻なのだ。
「……分かりました」
忠範は、扉へ向かった。
振り返ると、雅子が立っていた。
やつれた顔。
悲しい目。
だが──その目には、確かな愛情が宿っていた。
「お幸せに」
忠範は、そう言って、家を出た。
雅子は、扉の前で立ち尽くしていた。
涙が、止まらなかった。
「伊藤さん……」
小さく呟いた。
「私も……愛しています」
だが、その言葉は──もう、忠範には届かなかった。



