十一月の夜。
忠範は、桜井の旅館で一人、窓の外を見つめていた。
雅子の涙が、頭から離れない。
彼女の言葉が、胸に突き刺さったままだった。
「もう、疲れました」
自分は──彼女を、どれだけ苦しめてしまったのだろう。
忠範は、布団に横たわった。
だが、眠れなかった。
明日、もう一度会いに行こう。
ちゃんと説明しよう。
誤解を解こう。
そう決心した。
翌朝。
忠範は、早くから隣町の工場へ向かった。
工場の門の前で、女工たちが出勤してくるのを待った。
やがて、朝日が昇り始めた頃──。
女工たちが、ぞろぞろと歩いてくる。
だが──雅子の姿が見えない。
忠範は、不安になった。
もしかして、別の門から入ったのだろうか。
それとも──。
忠範は、工場の守衛に尋ねた。
「すみません、小野雅子さんという方は、もう入られましたか」
「小野? ああ、あの娘は今日は休みだ」
「休み、ですか」
「ああ。体調が悪いとかで」
忠範の胸に、不安が広がった。
体調が悪い──昨日、自分と会ったせいだろうか。
忠範は、工場を離れた。
雅子の寮へ行こう。
だが──場所が分からない。
忠範は、桜井の工場へ戻り、志津を探した。
昼休みに、ようやく志津と会うことができた。
「志津さん」
「伊藤さん……」
志津は、複雑な表情で忠範を見た。
「昨日、雅子さんに会いました」
「……はい」
「彼女は、今どこにいますか」
「隣町の寮です」
「住所を、教えていただけませんか」
志津は、躊躇した。
「伊藤さん……雅子さんは、もう限界なんです」
「分かっています」
「本当に、分かっていますか?」
志津の声が、強くなった。
「雅子さんが、どれだけあなたを待っていたか。どれだけ苦しんでいたか」
「……」
「あなたは、東京で新しい生活を始めた。でも、雅子さんは、ここで……」
志津の目から、涙が溢れた。
「毎日、工場で働いて、疲れ切って……それでも、あなたからの手紙を待っていたんです」
「志津さん……」
「でも、手紙は来なかった。そして、結婚の噂を聞いた」
「あれは、誤解です」
「誤解?」
志津は、忠範を見た。
「本当に、誤解なんですか?」
「はい」
「なら、なぜ三ヶ月も連絡しなかったんですか」
忠範は、言葉に詰まった。
志津の言う通りだ。
自分は、雅子を放っておいた。
仕事に追われて、手紙も書かなかった。
それは──事実だ。
「……すみません」
忠範は、深く頭を下げた。
「僕が、悪かった。でも、もう一度だけ──彼女と話をさせてください」
志津は、しばらく黙っていた。
そして──小さくため息をついた。
「……分かりました。住所を教えます」
「ありがとうございます」
「でも、伊藤さん」
志津は、真剣な目で忠範を見た。
「もし、雅子さんを本気で愛していないなら──もう、会わないであげてください」
「……」
「これ以上、雅子さんを傷つけないでください」
忠範は、頷いた。
「約束します」
午後。
忠範は、志津から教えられた住所を頼りに、隣町の寮へ向かった。
古い木造の建物。女工たちが住む、質素な寮だった。
入り口で、管理人に雅子の部屋を尋ねた。
「小野さんは、二階の奥です。でも、今日は体調が悪くて休んでいるそうですよ」
「はい、承知しています」
忠範は、二階へ上がった。
廊下は狭く、薄暗い。
雅子は、こんな場所で暮らしているのか。
忠範の胸が、痛んだ。
部屋の前に立ち、扉をノックした。
「小野さん」
返事はない。
「小野さん、僕です。伊藤です」
しばらく待つと、中から小さな声がした。
「……帰ってください」
「小野さん、話をさせてください」
「お話しすることは、ありません」
「お願いします」
忠範は、扉に額を押し当てた。
「僕の話を、聞いてください」
沈黙。
やがて、扉が開いた。
雅子が、やつれた顔で立っていた。
「……どうぞ」
部屋の中は、狭かった。
畳六畳ほどの空間に、布団と小さな机があるだけ。
雅子は、机の前に座った。
忠範も、その向かいに座った。
「小野さん……」
「何の用ですか」
雅子の声は、冷たかった。
「昨日の話ですが──あれは、誤解です」
「誤解?」
「はい。僕は、局長の娘さんと婚約などしていません」
「でも、新聞に──」
「あの記事は、誰かが捏造したものだと思います」
忠範は、真剣な目で雅子を見た。
「確かに、局長から結婚の申し出はありました。でも、僕はまだ返事をしていません」
「……」
「なぜなら、僕には──小野さんがいるからです」
雅子の目から、涙が溢れた。
「でも……あなたは、三ヶ月も連絡をくれなかった」
「それは……」
忠範は、言葉に詰まった。
「仕事が忙しくて──言い訳にしかなりませんが」
「言い訳……そうですね」
雅子は、涙を拭いた。
「あなたにとって、私は──そんな程度の存在だったんですね」
「違います」
「違わないわ」
雅子の声が、震えた。
「本当に大切なら、どんなに忙しくても、連絡するはずです」
「小野さん……」
「でも、あなたはしなかった。それが、答えです」
雅子は、忠範から目を逸らした。
「もう、いいんです。私は、諦めました」
「諦めないでください」
忠範は、雅子の手を取った。
「僕は、小野さんを愛しています」
「愛している?」
雅子は、忠範の手を振り払った。
「愛している人を、三ヶ月も放っておきますか?」
「……」
「愛している人を、不安にさせますか?」
「それは……」
「もういいんです」
雅子は、立ち上がった。
「帰ってください」
「小野さん」
「帰ってください!」
雅子の声が、部屋に響いた。
忠範は、立ち上がった。
だが──まだ、言いたいことがあった。
「小野さん、僕は──」
「もう、何も言わないでください」
雅子は、背を向けた。
「あなたには、輝かしい未来があります。東京で、出世して、立派な方と結婚してください」
「小野さん……」
「私は……ただの女工です。あなたと一緒にいては、あなたの足を引っ張るだけです」
「そんなことは──」
「事実です」
雅子は、振り返った。
その顔には──諦めの色が濃く浮かんでいた。
「私たちは──最初から、一緒にいてはいけなかったんです」
「小野さん……」
「さようなら、伊藤さん」
雅子は、扉を開けた。
「もう、会わないでください」
忠範は──何も言えなかった。
雅子の決意が、痛いほど伝わってきた。
忠範は、部屋を出た。
廊下を歩きながら、何度も振り返った。
だが、雅子の部屋の扉は──もう、閉ざされていた。
その夜。
忠範は、旅館の部屋で一人、泣いていた。
失った。
大切なものを、失ってしまった。
自分の愚かさが、雅子を傷つけた。
自分の弱さが、二人を引き裂いた。
「小野さん……」
忠範は、何度も彼女の名前を呼んだ。
だが、返事はない。
ただ、沈黙だけが──忠範を包んでいた。
翌朝。
忠範は、東京へ戻る列車に乗った。
窓の外を流れる景色──桜井の町が、遠ざかっていく。
雅子がいる町が。
忠範は、窓に額を押し当てた。
涙が、止まらなかった。
でも──これでいいのかもしれない。
雅子の言う通り、自分と彼女では、釣り合わない。
自分には、東京での未来がある。
彼女には──。
忠範は、首を振った。
考えても、仕方がない。
もう、終わったのだ。
二人の恋は──終わったのだ。
同じ頃、雅子の寮では。
雅子が、布団の中で丸くなっていた。
涙が、枕を濡らしていた。
「伊藤さん……」
小さく呟いた。
彼を、追い返してしまった。
もう、会えない。
しかし──それでいいのだ。
彼には、明るい未来がある。
自分のような女工と一緒にいては、彼の将来を台無しにしてしまう。
だから──。
雅子は、目を閉じた。
もう、泣かない。
もう、思い出さない。
忠範のことを。
だが──心の奥では。
まだ、愛していた。
どんなに苦しくても。
どんなに辛くても。
忠範を──愛していた。
数日後。
田村新吉が、再び雅子の前に現れた。
「小野」
「……田村さん」
雅子は、疲れ切った顔で田村を見た。
「駅員が、来ていたそうだな」
「……ええ」
「どうだった」
「もう、終わりました」
雅子の声は、力がなかった。
「そうか」
田村は、満足そうに笑った。
「なら──」
彼は、雅子の手を取った。
「俺の答えを、聞かせてくれ」
雅子は、田村の目を見た。
その目には──歪んだ愛情が宿っていた。
だが、もう──。
雅子には、選択肢がなかった。
忠範は、去った。
家族を養わなければならない。
そして──田村は、しつこい。
断れば、何をされるか分からない。
「……分かりました」
雅子は、小さく答えた。
「あなたと……一緒になります」
田村の顔が、明るくなった。
「本当か!」
「……はい」
「ありがとう、小野」
田村は、雅子を抱きしめた。
雅子は──何も感じなかった。
心が、空っぽだった。
ただ──遠くで、忠範の顔が浮かんだ。
「ごめんなさい……伊藤さん」
心の中で、呟いた。
だが、もう──その言葉は、届かない。
二人の運命は──完全に、別れてしまった。
忠範は、桜井の旅館で一人、窓の外を見つめていた。
雅子の涙が、頭から離れない。
彼女の言葉が、胸に突き刺さったままだった。
「もう、疲れました」
自分は──彼女を、どれだけ苦しめてしまったのだろう。
忠範は、布団に横たわった。
だが、眠れなかった。
明日、もう一度会いに行こう。
ちゃんと説明しよう。
誤解を解こう。
そう決心した。
翌朝。
忠範は、早くから隣町の工場へ向かった。
工場の門の前で、女工たちが出勤してくるのを待った。
やがて、朝日が昇り始めた頃──。
女工たちが、ぞろぞろと歩いてくる。
だが──雅子の姿が見えない。
忠範は、不安になった。
もしかして、別の門から入ったのだろうか。
それとも──。
忠範は、工場の守衛に尋ねた。
「すみません、小野雅子さんという方は、もう入られましたか」
「小野? ああ、あの娘は今日は休みだ」
「休み、ですか」
「ああ。体調が悪いとかで」
忠範の胸に、不安が広がった。
体調が悪い──昨日、自分と会ったせいだろうか。
忠範は、工場を離れた。
雅子の寮へ行こう。
だが──場所が分からない。
忠範は、桜井の工場へ戻り、志津を探した。
昼休みに、ようやく志津と会うことができた。
「志津さん」
「伊藤さん……」
志津は、複雑な表情で忠範を見た。
「昨日、雅子さんに会いました」
「……はい」
「彼女は、今どこにいますか」
「隣町の寮です」
「住所を、教えていただけませんか」
志津は、躊躇した。
「伊藤さん……雅子さんは、もう限界なんです」
「分かっています」
「本当に、分かっていますか?」
志津の声が、強くなった。
「雅子さんが、どれだけあなたを待っていたか。どれだけ苦しんでいたか」
「……」
「あなたは、東京で新しい生活を始めた。でも、雅子さんは、ここで……」
志津の目から、涙が溢れた。
「毎日、工場で働いて、疲れ切って……それでも、あなたからの手紙を待っていたんです」
「志津さん……」
「でも、手紙は来なかった。そして、結婚の噂を聞いた」
「あれは、誤解です」
「誤解?」
志津は、忠範を見た。
「本当に、誤解なんですか?」
「はい」
「なら、なぜ三ヶ月も連絡しなかったんですか」
忠範は、言葉に詰まった。
志津の言う通りだ。
自分は、雅子を放っておいた。
仕事に追われて、手紙も書かなかった。
それは──事実だ。
「……すみません」
忠範は、深く頭を下げた。
「僕が、悪かった。でも、もう一度だけ──彼女と話をさせてください」
志津は、しばらく黙っていた。
そして──小さくため息をついた。
「……分かりました。住所を教えます」
「ありがとうございます」
「でも、伊藤さん」
志津は、真剣な目で忠範を見た。
「もし、雅子さんを本気で愛していないなら──もう、会わないであげてください」
「……」
「これ以上、雅子さんを傷つけないでください」
忠範は、頷いた。
「約束します」
午後。
忠範は、志津から教えられた住所を頼りに、隣町の寮へ向かった。
古い木造の建物。女工たちが住む、質素な寮だった。
入り口で、管理人に雅子の部屋を尋ねた。
「小野さんは、二階の奥です。でも、今日は体調が悪くて休んでいるそうですよ」
「はい、承知しています」
忠範は、二階へ上がった。
廊下は狭く、薄暗い。
雅子は、こんな場所で暮らしているのか。
忠範の胸が、痛んだ。
部屋の前に立ち、扉をノックした。
「小野さん」
返事はない。
「小野さん、僕です。伊藤です」
しばらく待つと、中から小さな声がした。
「……帰ってください」
「小野さん、話をさせてください」
「お話しすることは、ありません」
「お願いします」
忠範は、扉に額を押し当てた。
「僕の話を、聞いてください」
沈黙。
やがて、扉が開いた。
雅子が、やつれた顔で立っていた。
「……どうぞ」
部屋の中は、狭かった。
畳六畳ほどの空間に、布団と小さな机があるだけ。
雅子は、机の前に座った。
忠範も、その向かいに座った。
「小野さん……」
「何の用ですか」
雅子の声は、冷たかった。
「昨日の話ですが──あれは、誤解です」
「誤解?」
「はい。僕は、局長の娘さんと婚約などしていません」
「でも、新聞に──」
「あの記事は、誰かが捏造したものだと思います」
忠範は、真剣な目で雅子を見た。
「確かに、局長から結婚の申し出はありました。でも、僕はまだ返事をしていません」
「……」
「なぜなら、僕には──小野さんがいるからです」
雅子の目から、涙が溢れた。
「でも……あなたは、三ヶ月も連絡をくれなかった」
「それは……」
忠範は、言葉に詰まった。
「仕事が忙しくて──言い訳にしかなりませんが」
「言い訳……そうですね」
雅子は、涙を拭いた。
「あなたにとって、私は──そんな程度の存在だったんですね」
「違います」
「違わないわ」
雅子の声が、震えた。
「本当に大切なら、どんなに忙しくても、連絡するはずです」
「小野さん……」
「でも、あなたはしなかった。それが、答えです」
雅子は、忠範から目を逸らした。
「もう、いいんです。私は、諦めました」
「諦めないでください」
忠範は、雅子の手を取った。
「僕は、小野さんを愛しています」
「愛している?」
雅子は、忠範の手を振り払った。
「愛している人を、三ヶ月も放っておきますか?」
「……」
「愛している人を、不安にさせますか?」
「それは……」
「もういいんです」
雅子は、立ち上がった。
「帰ってください」
「小野さん」
「帰ってください!」
雅子の声が、部屋に響いた。
忠範は、立ち上がった。
だが──まだ、言いたいことがあった。
「小野さん、僕は──」
「もう、何も言わないでください」
雅子は、背を向けた。
「あなたには、輝かしい未来があります。東京で、出世して、立派な方と結婚してください」
「小野さん……」
「私は……ただの女工です。あなたと一緒にいては、あなたの足を引っ張るだけです」
「そんなことは──」
「事実です」
雅子は、振り返った。
その顔には──諦めの色が濃く浮かんでいた。
「私たちは──最初から、一緒にいてはいけなかったんです」
「小野さん……」
「さようなら、伊藤さん」
雅子は、扉を開けた。
「もう、会わないでください」
忠範は──何も言えなかった。
雅子の決意が、痛いほど伝わってきた。
忠範は、部屋を出た。
廊下を歩きながら、何度も振り返った。
だが、雅子の部屋の扉は──もう、閉ざされていた。
その夜。
忠範は、旅館の部屋で一人、泣いていた。
失った。
大切なものを、失ってしまった。
自分の愚かさが、雅子を傷つけた。
自分の弱さが、二人を引き裂いた。
「小野さん……」
忠範は、何度も彼女の名前を呼んだ。
だが、返事はない。
ただ、沈黙だけが──忠範を包んでいた。
翌朝。
忠範は、東京へ戻る列車に乗った。
窓の外を流れる景色──桜井の町が、遠ざかっていく。
雅子がいる町が。
忠範は、窓に額を押し当てた。
涙が、止まらなかった。
でも──これでいいのかもしれない。
雅子の言う通り、自分と彼女では、釣り合わない。
自分には、東京での未来がある。
彼女には──。
忠範は、首を振った。
考えても、仕方がない。
もう、終わったのだ。
二人の恋は──終わったのだ。
同じ頃、雅子の寮では。
雅子が、布団の中で丸くなっていた。
涙が、枕を濡らしていた。
「伊藤さん……」
小さく呟いた。
彼を、追い返してしまった。
もう、会えない。
しかし──それでいいのだ。
彼には、明るい未来がある。
自分のような女工と一緒にいては、彼の将来を台無しにしてしまう。
だから──。
雅子は、目を閉じた。
もう、泣かない。
もう、思い出さない。
忠範のことを。
だが──心の奥では。
まだ、愛していた。
どんなに苦しくても。
どんなに辛くても。
忠範を──愛していた。
数日後。
田村新吉が、再び雅子の前に現れた。
「小野」
「……田村さん」
雅子は、疲れ切った顔で田村を見た。
「駅員が、来ていたそうだな」
「……ええ」
「どうだった」
「もう、終わりました」
雅子の声は、力がなかった。
「そうか」
田村は、満足そうに笑った。
「なら──」
彼は、雅子の手を取った。
「俺の答えを、聞かせてくれ」
雅子は、田村の目を見た。
その目には──歪んだ愛情が宿っていた。
だが、もう──。
雅子には、選択肢がなかった。
忠範は、去った。
家族を養わなければならない。
そして──田村は、しつこい。
断れば、何をされるか分からない。
「……分かりました」
雅子は、小さく答えた。
「あなたと……一緒になります」
田村の顔が、明るくなった。
「本当か!」
「……はい」
「ありがとう、小野」
田村は、雅子を抱きしめた。
雅子は──何も感じなかった。
心が、空っぽだった。
ただ──遠くで、忠範の顔が浮かんだ。
「ごめんなさい……伊藤さん」
心の中で、呟いた。
だが、もう──その言葉は、届かない。
二人の運命は──完全に、別れてしまった。



