十月の終わり。
東京は、秋の深まりを感じさせる肌寒さに包まれていた。
忠範は、毎日変わらぬ激務をこなしていた。だが、心の中には──常に、雅子への罪悪感があった。
三ヶ月以上、連絡を取っていない。
彼女は、今どうしているだろう。
怒っているだろうか。
それとも──もう、諦めているだろうか。
ある日の昼休み。
忠範が食堂で一人昼食を取っていると、同僚の若手職員たちが隣のテーブルに座った。
「なあ、聞いたか」
「何を?」
「伊藤が、局長の娘さんと結婚するらしいぞ」
忠範は、箸を止めた。
「え、本当か?」
「まだ正式発表じゃないが、そういう話が出ているらしい」
「やっぱりな。伊藤は出世コースだもんな」
若手職員たちは、羨ましそうに話している。
忠範は、何も言えなかった。
確かに、局長から申し出はあった。
だが、まだ返事はしていない。
それなのに──もう、噂が広まっている。
「伊藤、おめでとう」
一人が、声をかけてきた。
「あ、いや……まだ何も」
「謙遜するなよ。千鶴さん、美人だもんな」
「それに、良家の令嬢だ。申し分ないだろう」
同僚たちは、口々に言った。
忠範は、苦笑いするしかなかった。
その日の午後。
高木が、忠範のデスクにやってきた。
「伊藤くん、局長が呼んでいる」
「はい」
忠範は、緊張しながら局長室へ向かった。
扉をノックすると、中から声がかかった。
「入りたまえ」
局長室に入ると、局長が満面の笑みで迎えてくれた。
「伊藤くん、座りたまえ」
「はい」
「さて」
局長は、身を乗り出した。
「例の件だが、そろそろ返事を聞かせてもらえるかね」
忠範は、唇を噛んだ。
返事──。
局長の娘、千鶴との結婚。
それは、忠範の将来を約束するものだ。
しかし──。
雅子の顔が、脳裏に浮かんだ。
「あの……」
忠範は、言葉を探した。
「もう少し、時間をいただけないでしょうか」
局長の笑顔が、わずかに曇った。
「時間か……」
「はい。申し訳ありません」
「まあ、気持ちは分かる」
局長は、椅子に背を預けた。
「だが、あまり長く待たせるのも、娘に失礼だ」
「……はい」
「年内には、返事をしてくれたまえ」
「分かりました」
忠範は、深く頭を下げた。
局長室を出ると、廊下で深く息を吐いた。
年内──あと二ヶ月。
それまでに、決めなければならない。
自分の将来を。
そして──雅子との関係を。
その夜。
忠範は、寮の部屋で雅子への手紙を書こうとした。
もう、これ以上放っておけない。
ちゃんと、自分の状況を伝えなければ。
そして──彼女の気持ちを、確かめなければ。
「小野雅子様」
ペンを走らせる。
「本当に、長い間ご無沙汰してしまい、申し訳ありません。
こちらは、連日の激務で、なかなか手紙を書く時間が取れませんでした。
小野さんは、お元気ですか。工場の仕事は、相変わらず大変でしょうか。
実は、お話ししなければならないことがあります。
局長から、結婚の申し出を受けています。相手は、局長の娘です。
まだ、返事はしていません。ですが、年内には決めなければなりません。
小野さん、僕は──」
忠範は、ペンを止めた。
何と書けばいいのか。
自分の気持ちは、雅子を愛している。
だが、現実は──。
忠範は、便箋を破り捨てた。
書けない。
こんな手紙、送れない。
忠範は、頭を抱えた。
同じ頃、桜井では。
奇妙な噂が広まっていた。
「伊藤さん、東京で結婚するんだって」
「本当?」
「ええ。局長の娘さんと」
駅の同僚たちが、そんな話をしていた。
その噂は、すぐに町中に広まった。
そして──工場にも届いた。
志津が、手紙を持って隣町の工場を訪ねてきた。
雅子との面会を求め、昼休みに会うことができた。
「雅子さん!」
志津は、息を切らせて駆け寄ってきた。
「志津ちゃん、どうしたの」
「これ……」
志津は、封筒を差し出した。
「桜井駅の助役さんから、預かってきました」
雅子は、封筒を受け取った。
差出人の名前は──ない。
だが、中には一枚の紙切れが入っていた。
それは──また、新聞の切り抜きだった。
「東京鉄道局 伊藤忠範氏、局長令嬢と婚約か」
という見出し。
そして──忠範と千鶴が並んで微笑んでいる写真。
雅子の手が、震えた。
「雅子さん……」
志津が、心配そうに見ている。
「これは……いつの記事?」
「分かりません。でも、助役さんが『伊藤くんの元恋人に渡してくれ』と」
雅子は、記事を見つめた。
婚約──。
忠範が、結婚する。
局長の娘と。
「そんな……」
雅子の目から、涙が溢れた。
「やっぱり、本当だったんだわ」
「雅子さん……」
「田村さんの言っていた通り……伊藤さんは、私を捨てたんだわ」
雅子は、その場に崩れ落ちた。
志津が、慌てて支えた。
「雅子さん、しっかりして!」
「もう、いいの……」
雅子の声は、か細かった。
「もう、諦めるわ……」
だが──。
その記事は、悪意ある者によって、捏造されたものだった。
確かに、忠範と千鶴の写真は本物だ。
だが、「婚約」という見出しは──誰かが後から付け加えたものだった。
田村新吉──彼が、噂を広めたのだ。
雅子を諦めさせるために。
そして、自分のものにするために。
その夜。
雅子は、寮の部屋で一人、泣いていた。
忠範からの古い手紙を、すべて取り出した。
そして──一枚ずつ、読み返した。
「小野さん、僕は小野さんを愛しています」
「どんなに離れていても、僕の気持ちは変わりません」
「必ず、また会いに行きます」
温かい言葉。
優しい言葉。
だが──それは、もう過去のものだ。
雅子は、手紙をすべて束ね、箱にしまった。
そして──その箱を、押し入れの奥へしまい込んだ。
「さようなら、伊藤さん」
小さく呟いた。
涙が、止まらなかった。
だが──雅子は、泣き止まなければならなかった。
明日も、工場へ行かなければならない。
生きていかなければならない。
忠範のいない人生を。
数日後。
田村新吉が、再び雅子の前に現れた。
工場の帰り道、暗い路地で待ち伏せていた。
「小野」
「……田村さん」
雅子は、疲れ切った顔で田村を見た。
「聞いたぞ。あの駅員が、結婚するそうだな」
「……ええ」
「やっぱりな。俺の言った通りだっただろう」
田村は、雅子に近づいた。
「もう、諦めろ。あいつは、お前を捨てたんだ」
「……分かっています」
雅子の声は、力がなかった。
「なら──」
田村は、雅子の手を取った。
「俺と、一緒に来い」
「田村さん……」
「俺は、お前を幸せにする。約束する」
雅子は、田村の目を見た。
その目には──歪んだ愛情が宿っていた。
だが、もう──。
雅子には、抵抗する気力さえなかった。
「……考えさせてください」
「本当か?」
田村の顔が、明るくなった。
「ああ、いいとも。ゆっくり考えろ」
田村は、満足そうに笑って去って行った。
雅子は、その場に立ち尽くした。
心が──空っぽだった。
同じ頃、東京では。
忠範が、ある決心をしていた。
もう、これ以上逃げられない。
雅子に──ちゃんと会って、話をしなければならない。
自分の状況を説明し、彼女の気持ちを確かめなければならない。
忠範は、高木に休暇を申請した。
「休暇?急にどうした」
「故郷へ、帰りたいんです」
「故郷……ああ、桜井か」
高木は、意味ありげな顔をした。
「例の恋人に、会いに行くのか」
「……はい」
「そうか」
高木は、ため息をついた。
「まあ、いいだろう。だが、長くは無理だぞ」
「三日で結構です」
「分かった。許可する」
忠範は、深く頭を下げた。
十一月の初め。
忠範は、桜井行きの列車に乗った。
久しぶりに見る故郷の景色。
山々が、秋の色に染まっている。
忠範の胸は、不安と期待で高鳴っていた。
雅子は──まだ、自分を待っていてくれるだろうか。
それとも──。
列車は、桜井駅に到着した。
忠範が降り立つと、懐かしい駅舎が目に入った。
変わらない景色。
だが──雅子の姿は、ない。
そうだ、彼女はもうここを通らない。
異動したと、志津から聞いていた。
忠範は、駅を出て、工場へ向かった。
だが──桜井の工場に着くと、雅子はもういないと言われた。
「隣町の工場へ異動しました」
監督が、冷たく言った。
忠範は、急いで隣町へ向かった。
隣町の工場。
忠範が到着した時、ちょうど女工たちが仕事を終えるところだった。
門から、疲れ切った女工たちが出てくる。
その中に──雅子の姿があった。
「小野さん!」
忠範が叫ぶと、雅子は驚いて振り返った。
目が合う。
だが──雅子の目は、冷たかった。
「伊藤さん……」
雅子の声も、冷たかった。
「小野さん、話を──」
「お話しすることは、ありません」
雅子は、背を向けた。
「待ってください!」
忠範は、雅子の腕を掴んだ。
「僕の話を、聞いてください」
「離してください」
「小野さん、僕は──」
「もう、いいんです」
雅子は、忠範を見た。
その目には──涙が滲んでいた。
「あなたは、結婚されるんでしょう。おめでとうございます」
「え……」
「局長の娘さんと。新聞で見ました」
忠範は、愕然とした。
「新聞? 何のことですか」
「知らないふりをしないでください」
雅子の涙が、溢れた。
「もういいんです。私は、諦めました」
「小野さん、何かの間違いです」
「間違い?写真まで載っていたのに?」
「写真……」
忠範は、困惑した。
確かに、親睦会で千鶴と並んだ写真は撮られた。
だが、婚約など──していない。
「小野さん、それは誤解です」
「誤解?」
「はい。僕は、まだ何も決めていません」
「でも……」
「信じてください」
忠範は、雅子の手を取った。
だが──雅子は、手を振り払った。
「もう、遅いんです」
「小野さん……」
「私は……もう、疲れました」
雅子は、泣きながら言った。
「あなたと一緒にいることが、どれだけ苦しかったか……分かりますか」
「……」
「手紙は届かない。連絡もない。そして、結婚の噂」
雅子の声が、震えた。
「もう、耐えられません」
「小野さん、僕は──」
「さようなら、伊藤さん」
雅子は、走って去って行った。
忠範は、その場に立ち尽くした。
追いかけようとしたが──足が動かなかった。
雅子の涙が、胸に突き刺さった。
自分は──彼女を、傷つけてしまった。
取り返しのつかないことを、してしまった。
忠範は、膝をついた。
「小野さん……ごめん」
小さく呟いた。
だが、その言葉は──もう、雅子には届かなかった。
東京は、秋の深まりを感じさせる肌寒さに包まれていた。
忠範は、毎日変わらぬ激務をこなしていた。だが、心の中には──常に、雅子への罪悪感があった。
三ヶ月以上、連絡を取っていない。
彼女は、今どうしているだろう。
怒っているだろうか。
それとも──もう、諦めているだろうか。
ある日の昼休み。
忠範が食堂で一人昼食を取っていると、同僚の若手職員たちが隣のテーブルに座った。
「なあ、聞いたか」
「何を?」
「伊藤が、局長の娘さんと結婚するらしいぞ」
忠範は、箸を止めた。
「え、本当か?」
「まだ正式発表じゃないが、そういう話が出ているらしい」
「やっぱりな。伊藤は出世コースだもんな」
若手職員たちは、羨ましそうに話している。
忠範は、何も言えなかった。
確かに、局長から申し出はあった。
だが、まだ返事はしていない。
それなのに──もう、噂が広まっている。
「伊藤、おめでとう」
一人が、声をかけてきた。
「あ、いや……まだ何も」
「謙遜するなよ。千鶴さん、美人だもんな」
「それに、良家の令嬢だ。申し分ないだろう」
同僚たちは、口々に言った。
忠範は、苦笑いするしかなかった。
その日の午後。
高木が、忠範のデスクにやってきた。
「伊藤くん、局長が呼んでいる」
「はい」
忠範は、緊張しながら局長室へ向かった。
扉をノックすると、中から声がかかった。
「入りたまえ」
局長室に入ると、局長が満面の笑みで迎えてくれた。
「伊藤くん、座りたまえ」
「はい」
「さて」
局長は、身を乗り出した。
「例の件だが、そろそろ返事を聞かせてもらえるかね」
忠範は、唇を噛んだ。
返事──。
局長の娘、千鶴との結婚。
それは、忠範の将来を約束するものだ。
しかし──。
雅子の顔が、脳裏に浮かんだ。
「あの……」
忠範は、言葉を探した。
「もう少し、時間をいただけないでしょうか」
局長の笑顔が、わずかに曇った。
「時間か……」
「はい。申し訳ありません」
「まあ、気持ちは分かる」
局長は、椅子に背を預けた。
「だが、あまり長く待たせるのも、娘に失礼だ」
「……はい」
「年内には、返事をしてくれたまえ」
「分かりました」
忠範は、深く頭を下げた。
局長室を出ると、廊下で深く息を吐いた。
年内──あと二ヶ月。
それまでに、決めなければならない。
自分の将来を。
そして──雅子との関係を。
その夜。
忠範は、寮の部屋で雅子への手紙を書こうとした。
もう、これ以上放っておけない。
ちゃんと、自分の状況を伝えなければ。
そして──彼女の気持ちを、確かめなければ。
「小野雅子様」
ペンを走らせる。
「本当に、長い間ご無沙汰してしまい、申し訳ありません。
こちらは、連日の激務で、なかなか手紙を書く時間が取れませんでした。
小野さんは、お元気ですか。工場の仕事は、相変わらず大変でしょうか。
実は、お話ししなければならないことがあります。
局長から、結婚の申し出を受けています。相手は、局長の娘です。
まだ、返事はしていません。ですが、年内には決めなければなりません。
小野さん、僕は──」
忠範は、ペンを止めた。
何と書けばいいのか。
自分の気持ちは、雅子を愛している。
だが、現実は──。
忠範は、便箋を破り捨てた。
書けない。
こんな手紙、送れない。
忠範は、頭を抱えた。
同じ頃、桜井では。
奇妙な噂が広まっていた。
「伊藤さん、東京で結婚するんだって」
「本当?」
「ええ。局長の娘さんと」
駅の同僚たちが、そんな話をしていた。
その噂は、すぐに町中に広まった。
そして──工場にも届いた。
志津が、手紙を持って隣町の工場を訪ねてきた。
雅子との面会を求め、昼休みに会うことができた。
「雅子さん!」
志津は、息を切らせて駆け寄ってきた。
「志津ちゃん、どうしたの」
「これ……」
志津は、封筒を差し出した。
「桜井駅の助役さんから、預かってきました」
雅子は、封筒を受け取った。
差出人の名前は──ない。
だが、中には一枚の紙切れが入っていた。
それは──また、新聞の切り抜きだった。
「東京鉄道局 伊藤忠範氏、局長令嬢と婚約か」
という見出し。
そして──忠範と千鶴が並んで微笑んでいる写真。
雅子の手が、震えた。
「雅子さん……」
志津が、心配そうに見ている。
「これは……いつの記事?」
「分かりません。でも、助役さんが『伊藤くんの元恋人に渡してくれ』と」
雅子は、記事を見つめた。
婚約──。
忠範が、結婚する。
局長の娘と。
「そんな……」
雅子の目から、涙が溢れた。
「やっぱり、本当だったんだわ」
「雅子さん……」
「田村さんの言っていた通り……伊藤さんは、私を捨てたんだわ」
雅子は、その場に崩れ落ちた。
志津が、慌てて支えた。
「雅子さん、しっかりして!」
「もう、いいの……」
雅子の声は、か細かった。
「もう、諦めるわ……」
だが──。
その記事は、悪意ある者によって、捏造されたものだった。
確かに、忠範と千鶴の写真は本物だ。
だが、「婚約」という見出しは──誰かが後から付け加えたものだった。
田村新吉──彼が、噂を広めたのだ。
雅子を諦めさせるために。
そして、自分のものにするために。
その夜。
雅子は、寮の部屋で一人、泣いていた。
忠範からの古い手紙を、すべて取り出した。
そして──一枚ずつ、読み返した。
「小野さん、僕は小野さんを愛しています」
「どんなに離れていても、僕の気持ちは変わりません」
「必ず、また会いに行きます」
温かい言葉。
優しい言葉。
だが──それは、もう過去のものだ。
雅子は、手紙をすべて束ね、箱にしまった。
そして──その箱を、押し入れの奥へしまい込んだ。
「さようなら、伊藤さん」
小さく呟いた。
涙が、止まらなかった。
だが──雅子は、泣き止まなければならなかった。
明日も、工場へ行かなければならない。
生きていかなければならない。
忠範のいない人生を。
数日後。
田村新吉が、再び雅子の前に現れた。
工場の帰り道、暗い路地で待ち伏せていた。
「小野」
「……田村さん」
雅子は、疲れ切った顔で田村を見た。
「聞いたぞ。あの駅員が、結婚するそうだな」
「……ええ」
「やっぱりな。俺の言った通りだっただろう」
田村は、雅子に近づいた。
「もう、諦めろ。あいつは、お前を捨てたんだ」
「……分かっています」
雅子の声は、力がなかった。
「なら──」
田村は、雅子の手を取った。
「俺と、一緒に来い」
「田村さん……」
「俺は、お前を幸せにする。約束する」
雅子は、田村の目を見た。
その目には──歪んだ愛情が宿っていた。
だが、もう──。
雅子には、抵抗する気力さえなかった。
「……考えさせてください」
「本当か?」
田村の顔が、明るくなった。
「ああ、いいとも。ゆっくり考えろ」
田村は、満足そうに笑って去って行った。
雅子は、その場に立ち尽くした。
心が──空っぽだった。
同じ頃、東京では。
忠範が、ある決心をしていた。
もう、これ以上逃げられない。
雅子に──ちゃんと会って、話をしなければならない。
自分の状況を説明し、彼女の気持ちを確かめなければならない。
忠範は、高木に休暇を申請した。
「休暇?急にどうした」
「故郷へ、帰りたいんです」
「故郷……ああ、桜井か」
高木は、意味ありげな顔をした。
「例の恋人に、会いに行くのか」
「……はい」
「そうか」
高木は、ため息をついた。
「まあ、いいだろう。だが、長くは無理だぞ」
「三日で結構です」
「分かった。許可する」
忠範は、深く頭を下げた。
十一月の初め。
忠範は、桜井行きの列車に乗った。
久しぶりに見る故郷の景色。
山々が、秋の色に染まっている。
忠範の胸は、不安と期待で高鳴っていた。
雅子は──まだ、自分を待っていてくれるだろうか。
それとも──。
列車は、桜井駅に到着した。
忠範が降り立つと、懐かしい駅舎が目に入った。
変わらない景色。
だが──雅子の姿は、ない。
そうだ、彼女はもうここを通らない。
異動したと、志津から聞いていた。
忠範は、駅を出て、工場へ向かった。
だが──桜井の工場に着くと、雅子はもういないと言われた。
「隣町の工場へ異動しました」
監督が、冷たく言った。
忠範は、急いで隣町へ向かった。
隣町の工場。
忠範が到着した時、ちょうど女工たちが仕事を終えるところだった。
門から、疲れ切った女工たちが出てくる。
その中に──雅子の姿があった。
「小野さん!」
忠範が叫ぶと、雅子は驚いて振り返った。
目が合う。
だが──雅子の目は、冷たかった。
「伊藤さん……」
雅子の声も、冷たかった。
「小野さん、話を──」
「お話しすることは、ありません」
雅子は、背を向けた。
「待ってください!」
忠範は、雅子の腕を掴んだ。
「僕の話を、聞いてください」
「離してください」
「小野さん、僕は──」
「もう、いいんです」
雅子は、忠範を見た。
その目には──涙が滲んでいた。
「あなたは、結婚されるんでしょう。おめでとうございます」
「え……」
「局長の娘さんと。新聞で見ました」
忠範は、愕然とした。
「新聞? 何のことですか」
「知らないふりをしないでください」
雅子の涙が、溢れた。
「もういいんです。私は、諦めました」
「小野さん、何かの間違いです」
「間違い?写真まで載っていたのに?」
「写真……」
忠範は、困惑した。
確かに、親睦会で千鶴と並んだ写真は撮られた。
だが、婚約など──していない。
「小野さん、それは誤解です」
「誤解?」
「はい。僕は、まだ何も決めていません」
「でも……」
「信じてください」
忠範は、雅子の手を取った。
だが──雅子は、手を振り払った。
「もう、遅いんです」
「小野さん……」
「私は……もう、疲れました」
雅子は、泣きながら言った。
「あなたと一緒にいることが、どれだけ苦しかったか……分かりますか」
「……」
「手紙は届かない。連絡もない。そして、結婚の噂」
雅子の声が、震えた。
「もう、耐えられません」
「小野さん、僕は──」
「さようなら、伊藤さん」
雅子は、走って去って行った。
忠範は、その場に立ち尽くした。
追いかけようとしたが──足が動かなかった。
雅子の涙が、胸に突き刺さった。
自分は──彼女を、傷つけてしまった。
取り返しのつかないことを、してしまった。
忠範は、膝をついた。
「小野さん……ごめん」
小さく呟いた。
だが、その言葉は──もう、雅子には届かなかった。



