君恋し

 九月。

 雅子は、工場の医務室で目を覚ました。

 白い天井が、ぼんやりと見える。

 体が、鉛のように重かった。

「雅子さん!」

 志津の声がした。

 顔を向けると、志津が涙を浮かべて立っている。

「良かった……目が覚めて」

「……私、どうしたの」

「倒れたんです。三日間も、意識がなくて」

 三日間──。

 雅子は、ぼんやりとした頭で考えた。

 そうだ。作業中に、急に目の前が暗くなって──。

「医者は、過労だって言っていました」

 志津は、雅子の手を握った。

「雅子さん、無理しすぎです」

「……ごめんなさい」

「謝らないでください」

 志津は、泣いていた。

「雅子さんは、いつも私たちのために頑張ってくれて……でも、自分のことは後回しで」

「志津ちゃん……」

「もっと、自分を大切にしてください」

 雅子は、小さく頷いた。

 だが、胸の中には──虚しさがあった。

 自分を大切にする──それができれば、こんなことにはならなかった。

 その日の午後。

 工場主の中津川が、医務室を訪れた。

「小野、体調はどうだ」

「……はい、もう大丈夫です」

「そうか」

 中津川は、腕を組んだ。

「だが、三日も休んだ。その分の給金は、減額する」

 雅子は、唇を噛んだ。

 倒れたのは、自分の責任ではない。

 過酷な労働環境のせいだ。

 だが──言えなかった。

「それと」

 中津川は、冷たく言った。

「お前を、別の工場へ異動させる」

「……え?」

「ここでは、お前は女工たちに影響力がありすぎる。田村のような不心得者を出さないためにも、お前を離す必要がある」

 雅子の顔が、青ざめた。

「別の工場……どこですか」

「隣町だ。来週から、そちらへ通え」

「でも……」

「嫌なら、クビだ」

 中津川は、有無を言わさぬ口調で言った。

「選べ」

 雅子は、黙り込んだ。

 選択肢など、ない。

 クビになれば、家族が困る。

 弟と妹の学費が、払えなくなる。

「……分かりました」

「よろしい」

 中津川は、満足そうに頷いて出て行った。

 雅子は、その場に残された。

 隣町の工場──。

 それは、ここから列車で一時間の距離だ。

 つまり──。

 桜井駅を、通らなくなる。

 忠範がいた、あの駅を。

 雅子の目から、涙が溢れた。

 その夜。

 雅子は、志津に別れを告げた。

「隣町の工場へ、異動することになったの」

「え……」

 志津の顔が、こわばった。

「雅子さんが、いなくなるんですか」

「ええ。来週から」

「そんな……」

 志津は、泣き出した。

「雅子さんがいなくなったら、私……どうすれば」

「大丈夫よ」

 雅子は、志津を抱きしめた。

「志津ちゃんは、もう強いわ。一人でも、やっていける」

「でも……」

「それに、異動するだけ。辞めるわけじゃないから」

 雅子は、微笑んだ。

 だが、その笑顔は──どこか諦めの色を帯びていた。





 翌日。

 雅子が荷物をまとめていると、誰かが寮の扉をノックした。

「どなた?」

「……俺だ」

 聞き覚えのある声。

 雅子は、扉を開けた。

 そこには──田村新吉が立っていた。

「田村さん……」

 雅子は、息を呑んだ。

 田村は、線路破壊未遂で捕まったはずだ。

 なぜ、ここに──。

「驚いたか」

 田村は、不敵に笑った。

「保釈されたんだ。証拠不十分でな」

「……」

「工場はクビになったが、まあいい」

 田村は、部屋に入ろうとした。

「待ってください」

 雅子は、扉を閉めようとした。

 だが、田村の手が、扉を押さえた。

「話がある」

「お断りします」

「聞け、小野」

 田村の目が、鋭く光った。

「お前、異動するそうだな」

「……それが、何か」

「隣町の工場──そこは、もっと酷いところだぞ」

 田村は、雅子の肩を掴んだ。

「やめろ。俺と、一緒に来い」

「離してください」

「お前には、もっといい道がある」

「いい道?」

「ああ」

 田村は、不気味に笑った。

「俺と結婚しろ」

 雅子は、愕然とした。

「……何を言っているんですか」

「俺は、お前を愛している」

「やめてください」

 雅子は、田村の手を振り払った。

「私には、愛する人がいます」

「あの駅員か」

 田村の顔が、歪んだ。

「まだ、あいつに未練があるのか」

「未練ではありません。私は、伊藤さんを──」

「あいつは、もうお前のことなど忘れている」

 田村は、冷たく言った。

「東京で、別の女と付き合っているそうだ」

「……え?」

「俺の知り合いが、見たんだ。あいつが、綺麗な女と食事をしているところを」

 雅子の顔から、血の気が引いた。

「そんな……」

「信じないのか? なら、これを見ろ」

 田村は、懐から紙切れを取り出した。

 それは──新聞の切り抜きだった。

「東京鉄道局の親睦会」という見出し。

 そして──写真。

 忠範が、和服姿の若い女性と並んで写っている。

 女性は、美しく、上品だった。

 雅子の手が、震えた。

「これは……」

「局長の娘だそうだ。あいつは、出世のために、令嬢に取り入っている」

「違う……」

「違わない」

 田村は、雅子の顎を掴んだ。

「あいつは、お前を捨てたんだ」

「やめて……」

「分かれ、小野。お前と、あいつは違う世界の人間だ」

 雅子の目から、涙が溢れた。

 田村の言葉が──心の奥に突き刺さる。

「俺なら、お前を幸せにできる」

「……離してください」

 雅子は、田村を押しのけた。

「出て行ってください!」

 田村は、舌打ちをした。

「……分かった。今日は、帰る」

 彼は、扉へ向かった。

 だが、振り返って言った。

「だが、諦めないぞ。お前は、いずれ俺のものになる」

 そう言って、田村は去って行った。

 雅子は、その場に崩れ落ちた。

 震えが、止まらなかった。

 その夜。

 雅子は、一人で泣いていた。

 新聞の切り抜きを、何度も見た。

 忠範が、別の女性と──。

 それは、仕事の一環かもしれない。

 ただの親睦会かもしれない。

 だが──。

 雅子の心には、疑いが芽生えていた。

 忠範からの手紙は、もう三ヶ月も届いていない。

 自分の手紙も、届かなかった。

 もしかして──。

 彼は、本当に自分のことを忘れてしまったのではないか。

 東京で、新しい恋を見つけたのではないか。

「伊藤さん……」

 雅子は、小さく呟いた。

「あなたは……どこにいるの」

 返事は、ない。

 ただ、沈黙だけが──雅子を包んでいた。

 翌週。

 雅子は、隣町の工場へ異動した。

 そこは、桜井の工場よりも大きく、そして──さらに過酷だった。

 女工の数は倍以上。監督も厳しく、休憩時間も少ない。

 雅子は、朝早く起きて、列車に乗り、工場へ通った。

 帰りは、夜遅く。

 疲労が、日に日に蓄積していった。

 そして──桜井駅を、通らなくなった。

 忠範がいた、あの駅を。

 もう、あの場所に戻ることはない。

 雅子の心は──少しずつ、諦めの色に染まっていった。

 同じ頃、東京では。

 忠範が、高木と話していた。

「伊藤くん、局長の申し出を、どう考えている?」

「……まだ、決めかねています」

「そうか」

 高木は、ため息をついた。

「だが、あまり長く悩むのも良くない。局長は、早めの返事を期待している」

「分かっています」

「それに──」

 高木は、声を落とした。

「君、故郷の恋人とは、もう連絡を取っていないんだろう?」

 忠範は、黙り込んだ。

 確かに──もう三ヶ月以上、雅子と連絡を取っていない。

 手紙を書こうとして、書けなかった。

 そして──時間だけが、過ぎていった。

「なら、もう終わったと考えた方がいい」

「でも……」

「君の将来を考えろ。局長の娘と結婚すれば、君の出世は約束される」

 高木の言葉が、重くのしかかった。

「……考えます」

「早めに頼むぞ」

 高木は、そう言って去って行った。

 忠範は、一人残された。

 机の引き出しを開けると、雅子からの古い手紙が入っている。

 忠範は、それを取り出して読んだ。

「伊藤さん、お元気ですか……」

 雅子の優しい字。

 温かい言葉。

 だが──それは、もう三ヶ月も前のものだ。

 今、彼女はどうしているのだろう。

 まだ、自分のことを──。

 忠範は、頭を抱えた。

「小野さん……ごめん」

 小さく呟いた。

 だが、その言葉は──雅子には届かなかった。





 十月。

 田村新吉は、隣町の工場近くで、雅子を待ち伏せていた。

 彼は、雅子の異動先を調べ上げていた。

 そして──諦めていなかった。

 夕方、工場から女工たちが出てくる。

 その中に、雅子の姿があった。

 疲れ切った顔。やつれた体。

 だが、田村の目には──それでも美しく見えた。

「小野」

 田村が、声をかけた。

 雅子は、驚いて振り返った。

「田村さん……なぜ、ここに」

「お前を、迎えに来た」

「迎えに?」

「ああ」

 田村は、近づいてきた。

「お前を、連れて行く」

「何を言っているんですか」

「俺と、一緒に来い。この工場を辞めて、俺と暮らせ」

「お断りします」

 雅子は、背を向けた。

 だが、田村が腕を掴んだ。

「離してください!」

「嫌だ」

 田村の目が、狂気に染まっていた。

「お前は、俺のものだ」

「違います!」

 雅子は、必死に抵抗した。

 だが、田村の力は強い。

「助けて!」

 雅子が叫ぶと、通りかかった男たちが駆けつけてきた。

「おい、何をしている!」

 田村は、舌打ちをして、雅子を離した。

「……覚えておけ」

 そう言って、田村は逃げ去った。

 雅子は、その場に座り込んだ。

 震えが、止まらなかった。

「大丈夫ですか」

 男たちが、心配そうに声をかけた。

「は、はい……ありがとうございます」

 雅子は、何とか立ち上がった。

 だが、心の中には──深い恐怖があった。

 田村は──もう、正常ではない。

 彼の執着は、危険なレベルに達していた。

 雅子は──逃げ場を失っていた。