七月。
梅雨が明け、東京は蒸し暑い夏に包まれた。
忠範は、連日の激務に追われていた。夏は鉄道の繁忙期だ。避暑地への臨時列車、貨物の増便、そして設備の点検──すべてが重なり、運行管理課は休む暇もない。
忠範の机の上には、未処理の書類が山積みになっていた。
そして──その中に、書きかけの便箋が、埋もれていた。
雅子への手紙。
書こうとして、書けなかった手紙。
ある日の夕方。
高木が、忠範のデスクにやってきた。
「伊藤くん、今夜時間はあるかね」
「はい、何でしょうか」
「局長が、食事会を開く。君も参加してほしいそうだ」
「食事会、ですか」
「ああ。幹部候補の若手を集めて、親睦を深めるそうだ」
高木は、にやりと笑った。
「それに、局長の令嬢も来る」
「令嬢?」
「ああ。美人で、聡明な方だ。お前ぐらいの年齢だろう」
忠範は、何か嫌な予感がした。
「あの……僕は──」
「断るな。これも、仕事の一部だ」
高木は、有無を言わさぬ口調で言った。
「七時に、銀座の料亭だ。遅れるなよ」
その夜。
忠範は、銀座の高級料亭に来ていた。
畳敷きの個室には、局長と数人の幹部、そして五人ほどの若手職員が集まっていた。
そして──和服姿の若い女性が、一人。
「皆さん、紹介します。私の娘、千鶴です」
局長が、娘を紹介した。
千鶴は、二十歳ぐらいだろうか。端正な顔立ちで、上品な物腰。明らかに、良家の令嬢だった。
「初めまして」
千鶴は、控えめに頭を下げた。
若手職員たちは、緊張した面持ちで挨拶を返した。
「さあ、堅苦しいことは抜きにして、楽しもうじゃないか」
局長の声で、宴が始まった。
料理が運ばれ、酒が注がれる。
忠範は、席の端におとなしく座っていた。
だが、千鶴が──なぜか、忠範の隣に座った。
「伊藤さん、ですね」
千鶴が、柔らかく微笑んだ。
「は、はい」
「父から、お話は伺っております。桜井駅での活躍、素晴らしかったそうですね」
「いえ、そんなことは……」
「謙遜なさらないで。父も、伊藤さんのことを高く評価しています」
千鶴は、品よく笑った。
「これから、ますますご活躍されるでしょうね」
忠範は、返事に困った。
千鶴は──確かに、美しく、教養もある女性だった。
だが、忠範の心には──雅子しかいなかった。
「伊藤さん」
千鶴が、小声で言った。
「お酒、あまりお好きではないのですか?」
「ええ、まあ……」
「私もなんです。こういう席は、少し苦手で」
千鶴は、困ったように笑った。
その笑顔は──どこか、雅子に似ていた。
いや、似ていない。
全く違う。
だが、なぜか──忠範の胸が、痛んだ。
宴は、深夜まで続いた。
忠範が寮に戻ったのは、夜中の一時過ぎだった。
疲れ切って、ベッドに倒れ込む。
だが──眠れなかった。
千鶴のこと。
そして──雅子のこと。
忠範は、机の引き出しを開けた。
雅子からの手紙が、丁寧に束ねられている。
最後に届いたのは──もう二ヶ月前だ。
忠範は、手紙を取り出して読んだ。
「伊藤さん、お元気ですか。こちらは、相変わらず忙しい日々です……」
雅子の丁寧な字。
優しい言葉。
そして──少しだけ、寂しさが滲んでいる。
「……ごめん、小野さん」
忠範は、小さく呟いた。
自分は、彼女を放っておいてしまった。
仕事に追われて、手紙も書けなくなった。
忠範は、便箋を取り出した。
今度こそ、書こう。
ちゃんと、自分の気持ちを伝えよう。
だが──。
次の日も、その次の日も、忠範は激務に追われた。
便箋は、机の上に置かれたまま。
白紙のまま。
そして──一週間が過ぎた。
同じ頃、桜井では。
雅子が、工場の寮で窓の外を見ていた。
夏の夕暮れ。蝉の声が、うるさいほどに響いている。
だが、雅子の心には──静寂があった。
忠範からの手紙は、もう二ヶ月以上届いていない。
雅子も、返事を書いていなかった。
書けなかった。
何を書けばいいのか、分からなかった。
「雅子さん」
志津が、部屋に入ってきた。
「お手紙、来ていませんか?」
「……ええ」
「伊藤さんから?」
雅子は、首を横に振った。
「そう……」
志津は、心配そうな顔をした。
「でも、きっと忙しいんですよ。東京は、大きな街ですから」
「ええ……そうね」
雅子は、微笑んだ。
だが、その笑顔は──悲しかった。
その夜。
雅子は、再び便箋に向かった。
書こう。
もう一度、手紙を書こう。
彼が忙しくても、自分の気持ちを伝えよう。
「伊藤忠範様」
ペンを走らせる。
「お元気ですか。こちらは、暑い日が続いています。
伊藤さんからのお手紙、しばらく届いていません。お忙しいのでしょうね。
私は、相変わらず工場で働いています。毎日、同じことの繰り返しです。
でも、伊藤さんのことを思うと、頑張れます。
東京での生活は、いかがですか。お体に気をつけてください。
また、お手紙をください。待っています。
小野雅子」
雅子は、手紙を封筒に入れた。
明日、郵便局へ持って行こう。
だが──。
雅子の心には、不安があった。
この手紙は、ちゃんと届くだろうか。
そして──忠範は、読んでくれるだろうか。
翌日。
雅子は、工場の昼休みに郵便局へ行った。
手紙を窓口に出すと、局員が受け取った。
「東京ですね。三日ほどで届きます」
「ありがとうございます」
雅子は、郵便局を出た。
だが──その時。
雅子は、気づかなかった。
手紙の宛先を、間違えて書いていたことに。
「東京鉄道局 伊藤忠範様」──そこまでは正しかった。
だが、住所が──。
雅子は、忠範が最初に教えてくれた住所を書いていた。
だが、忠範は先月──寮を移動していた。
局からの指示で、別の寮へ。
その住所変更を、忠範は雅子に伝えていなかった。
手紙を書く暇がなかったから。
そして──。
雅子の手紙は、間違った住所へ送られた。
そして──宛先不明で、戻ってきた。
一週間後。
雅子の元に、手紙が戻ってきた。
「宛先不明」の印が、押されている。
雅子は、愕然とした。
「……届かなかった」
手紙が、忠範に届かなかった。
雅子は、その場に座り込んだ。
どうすればいいのか、分からなかった。
新しい住所を、知らない。
忠範から、連絡がないから。
「伊藤さん……」
雅子の目から、涙が溢れた。
「どこにいるの……」
同じ頃、東京では。
忠範も──雅子への手紙を書いていた。
ようやく、時間ができたのだ。
「小野雅子様」
ペンを走らせる。
「ご無沙汰しています。本当に申し訳ありません。
こちらは、連日の激務で、手紙を書く時間もありませんでした。
でも、毎日小野さんのことを思っています。
実は、先月寮を移動しました。新しい住所は──」
忠範は、新しい住所を書いた。
そして、手紙を封筒に入れた。
明日、郵便局へ持って行こう。
だが──。
翌日、忠範は緊急の出張を命じられた。
地方路線で事故があり、調査に行くことになったのだ。
一週間の予定。
忠範は、慌てて荷物をまとめた。
そして──。
机の上の手紙を、持って行くのを忘れた。
封筒は、書類の山に埋もれた。
そして──そのまま、忘れ去られた。
こうして。
二人の手紙は──届かなかった。
雅子の手紙は、間違った住所のせいで。
忠範の手紙は、出されなかったせいで。
二人の絆は──少しずつ、断ち切られていった。
八月の終わり。
雅子は、工場で倒れた。
過労だった。
連日の暑さと、激務と、そして──心労。
すべてが、彼女を蝕んでいた。
「雅子さん!」
志津が、駆け寄った。
「誰か、医者を!」
雅子は、意識を失っていた。
額には、熱い汗が浮かんでいた。
そして──その手には、忠範からの古い手紙が、握られていた。
同じ頃、東京では。
忠範が、局長に呼ばれていた。
「伊藤くん、座りたまえ」
「はい」
忠範は、緊張しながら椅子に座った。
「君の働きぶり、素晴らしい」
局長は、満足そうに頷いた。
「このまま頑張れば、将来は約束されたも同然だ」
「ありがとうございます」
「ところで」
局長は、身を乗り出した。
「君、結婚の予定はあるかね」
忠範は、息を呑んだ。
「……いえ、まだ」
「そうか」
局長は、にやりと笑った。
「実は、うちの千鶴が、君のことを気に入っているようでね」
「え……」
「もちろん、強制はしない。だが、君も考えてみてはどうかね」
局長の言葉が、忠範の胸に重くのしかかった。
「……考えさせてください」
「ああ、急がなくていい。ゆっくり考えたまえ」
局長は、満足そうに頷いた。
忠範は、局長室を出た。
廊下で、立ち尽くした。
胸が、苦しかった。
「小野さん……」
忠範は、小さく呟いた。
だが──。
その声は、虚しく消えていった。
二人の距離は──もう、手紙だけでは埋められないほど、遠くなっていた。
梅雨が明け、東京は蒸し暑い夏に包まれた。
忠範は、連日の激務に追われていた。夏は鉄道の繁忙期だ。避暑地への臨時列車、貨物の増便、そして設備の点検──すべてが重なり、運行管理課は休む暇もない。
忠範の机の上には、未処理の書類が山積みになっていた。
そして──その中に、書きかけの便箋が、埋もれていた。
雅子への手紙。
書こうとして、書けなかった手紙。
ある日の夕方。
高木が、忠範のデスクにやってきた。
「伊藤くん、今夜時間はあるかね」
「はい、何でしょうか」
「局長が、食事会を開く。君も参加してほしいそうだ」
「食事会、ですか」
「ああ。幹部候補の若手を集めて、親睦を深めるそうだ」
高木は、にやりと笑った。
「それに、局長の令嬢も来る」
「令嬢?」
「ああ。美人で、聡明な方だ。お前ぐらいの年齢だろう」
忠範は、何か嫌な予感がした。
「あの……僕は──」
「断るな。これも、仕事の一部だ」
高木は、有無を言わさぬ口調で言った。
「七時に、銀座の料亭だ。遅れるなよ」
その夜。
忠範は、銀座の高級料亭に来ていた。
畳敷きの個室には、局長と数人の幹部、そして五人ほどの若手職員が集まっていた。
そして──和服姿の若い女性が、一人。
「皆さん、紹介します。私の娘、千鶴です」
局長が、娘を紹介した。
千鶴は、二十歳ぐらいだろうか。端正な顔立ちで、上品な物腰。明らかに、良家の令嬢だった。
「初めまして」
千鶴は、控えめに頭を下げた。
若手職員たちは、緊張した面持ちで挨拶を返した。
「さあ、堅苦しいことは抜きにして、楽しもうじゃないか」
局長の声で、宴が始まった。
料理が運ばれ、酒が注がれる。
忠範は、席の端におとなしく座っていた。
だが、千鶴が──なぜか、忠範の隣に座った。
「伊藤さん、ですね」
千鶴が、柔らかく微笑んだ。
「は、はい」
「父から、お話は伺っております。桜井駅での活躍、素晴らしかったそうですね」
「いえ、そんなことは……」
「謙遜なさらないで。父も、伊藤さんのことを高く評価しています」
千鶴は、品よく笑った。
「これから、ますますご活躍されるでしょうね」
忠範は、返事に困った。
千鶴は──確かに、美しく、教養もある女性だった。
だが、忠範の心には──雅子しかいなかった。
「伊藤さん」
千鶴が、小声で言った。
「お酒、あまりお好きではないのですか?」
「ええ、まあ……」
「私もなんです。こういう席は、少し苦手で」
千鶴は、困ったように笑った。
その笑顔は──どこか、雅子に似ていた。
いや、似ていない。
全く違う。
だが、なぜか──忠範の胸が、痛んだ。
宴は、深夜まで続いた。
忠範が寮に戻ったのは、夜中の一時過ぎだった。
疲れ切って、ベッドに倒れ込む。
だが──眠れなかった。
千鶴のこと。
そして──雅子のこと。
忠範は、机の引き出しを開けた。
雅子からの手紙が、丁寧に束ねられている。
最後に届いたのは──もう二ヶ月前だ。
忠範は、手紙を取り出して読んだ。
「伊藤さん、お元気ですか。こちらは、相変わらず忙しい日々です……」
雅子の丁寧な字。
優しい言葉。
そして──少しだけ、寂しさが滲んでいる。
「……ごめん、小野さん」
忠範は、小さく呟いた。
自分は、彼女を放っておいてしまった。
仕事に追われて、手紙も書けなくなった。
忠範は、便箋を取り出した。
今度こそ、書こう。
ちゃんと、自分の気持ちを伝えよう。
だが──。
次の日も、その次の日も、忠範は激務に追われた。
便箋は、机の上に置かれたまま。
白紙のまま。
そして──一週間が過ぎた。
同じ頃、桜井では。
雅子が、工場の寮で窓の外を見ていた。
夏の夕暮れ。蝉の声が、うるさいほどに響いている。
だが、雅子の心には──静寂があった。
忠範からの手紙は、もう二ヶ月以上届いていない。
雅子も、返事を書いていなかった。
書けなかった。
何を書けばいいのか、分からなかった。
「雅子さん」
志津が、部屋に入ってきた。
「お手紙、来ていませんか?」
「……ええ」
「伊藤さんから?」
雅子は、首を横に振った。
「そう……」
志津は、心配そうな顔をした。
「でも、きっと忙しいんですよ。東京は、大きな街ですから」
「ええ……そうね」
雅子は、微笑んだ。
だが、その笑顔は──悲しかった。
その夜。
雅子は、再び便箋に向かった。
書こう。
もう一度、手紙を書こう。
彼が忙しくても、自分の気持ちを伝えよう。
「伊藤忠範様」
ペンを走らせる。
「お元気ですか。こちらは、暑い日が続いています。
伊藤さんからのお手紙、しばらく届いていません。お忙しいのでしょうね。
私は、相変わらず工場で働いています。毎日、同じことの繰り返しです。
でも、伊藤さんのことを思うと、頑張れます。
東京での生活は、いかがですか。お体に気をつけてください。
また、お手紙をください。待っています。
小野雅子」
雅子は、手紙を封筒に入れた。
明日、郵便局へ持って行こう。
だが──。
雅子の心には、不安があった。
この手紙は、ちゃんと届くだろうか。
そして──忠範は、読んでくれるだろうか。
翌日。
雅子は、工場の昼休みに郵便局へ行った。
手紙を窓口に出すと、局員が受け取った。
「東京ですね。三日ほどで届きます」
「ありがとうございます」
雅子は、郵便局を出た。
だが──その時。
雅子は、気づかなかった。
手紙の宛先を、間違えて書いていたことに。
「東京鉄道局 伊藤忠範様」──そこまでは正しかった。
だが、住所が──。
雅子は、忠範が最初に教えてくれた住所を書いていた。
だが、忠範は先月──寮を移動していた。
局からの指示で、別の寮へ。
その住所変更を、忠範は雅子に伝えていなかった。
手紙を書く暇がなかったから。
そして──。
雅子の手紙は、間違った住所へ送られた。
そして──宛先不明で、戻ってきた。
一週間後。
雅子の元に、手紙が戻ってきた。
「宛先不明」の印が、押されている。
雅子は、愕然とした。
「……届かなかった」
手紙が、忠範に届かなかった。
雅子は、その場に座り込んだ。
どうすればいいのか、分からなかった。
新しい住所を、知らない。
忠範から、連絡がないから。
「伊藤さん……」
雅子の目から、涙が溢れた。
「どこにいるの……」
同じ頃、東京では。
忠範も──雅子への手紙を書いていた。
ようやく、時間ができたのだ。
「小野雅子様」
ペンを走らせる。
「ご無沙汰しています。本当に申し訳ありません。
こちらは、連日の激務で、手紙を書く時間もありませんでした。
でも、毎日小野さんのことを思っています。
実は、先月寮を移動しました。新しい住所は──」
忠範は、新しい住所を書いた。
そして、手紙を封筒に入れた。
明日、郵便局へ持って行こう。
だが──。
翌日、忠範は緊急の出張を命じられた。
地方路線で事故があり、調査に行くことになったのだ。
一週間の予定。
忠範は、慌てて荷物をまとめた。
そして──。
机の上の手紙を、持って行くのを忘れた。
封筒は、書類の山に埋もれた。
そして──そのまま、忘れ去られた。
こうして。
二人の手紙は──届かなかった。
雅子の手紙は、間違った住所のせいで。
忠範の手紙は、出されなかったせいで。
二人の絆は──少しずつ、断ち切られていった。
八月の終わり。
雅子は、工場で倒れた。
過労だった。
連日の暑さと、激務と、そして──心労。
すべてが、彼女を蝕んでいた。
「雅子さん!」
志津が、駆け寄った。
「誰か、医者を!」
雅子は、意識を失っていた。
額には、熱い汗が浮かんでいた。
そして──その手には、忠範からの古い手紙が、握られていた。
同じ頃、東京では。
忠範が、局長に呼ばれていた。
「伊藤くん、座りたまえ」
「はい」
忠範は、緊張しながら椅子に座った。
「君の働きぶり、素晴らしい」
局長は、満足そうに頷いた。
「このまま頑張れば、将来は約束されたも同然だ」
「ありがとうございます」
「ところで」
局長は、身を乗り出した。
「君、結婚の予定はあるかね」
忠範は、息を呑んだ。
「……いえ、まだ」
「そうか」
局長は、にやりと笑った。
「実は、うちの千鶴が、君のことを気に入っているようでね」
「え……」
「もちろん、強制はしない。だが、君も考えてみてはどうかね」
局長の言葉が、忠範の胸に重くのしかかった。
「……考えさせてください」
「ああ、急がなくていい。ゆっくり考えたまえ」
局長は、満足そうに頷いた。
忠範は、局長室を出た。
廊下で、立ち尽くした。
胸が、苦しかった。
「小野さん……」
忠範は、小さく呟いた。
だが──。
その声は、虚しく消えていった。
二人の距離は──もう、手紙だけでは埋められないほど、遠くなっていた。



