君恋し

 五月の初め。
 忠範は、東京行きの列車に乗っていた。
 窓の外を流れる景色——故郷の山々が、次第に遠ざかっていく。
 胸の中には、期待と不安が入り混じっていた。
 東京。大都会。鉄道の中枢。
 そこで働けることは、鉄道員として最高の栄誉だ。
 だが──。
 忠範の手には、雅子からの手紙が握られていた。
 昨夜、別れ際に渡されたものだ。
「東京へ行っても、お元気で。私は、ここで待っています」
 短い言葉だったが、その中に──雅子のすべての想いが込められていた。
 忠範は、手紙を胸にしまった。
 絶対に、帰ってくる。
 そして、雅子と──。
 東京駅。
 忠範が降り立つと、そこは想像以上の喧騒だった。
 大勢の人々が行き交い、列車が次々と到着し出発していく。地方の小さな駅とは、まるで別世界だった。
「伊藤忠範くんだね」
 声をかけられ、振り返ると、三十代半ばの男性が立っていた。紺のスーツに中折れ帽、鋭い目つきだが、どこか温かみがある。
「はい」
「僕は、高木。東京鉄道局の運行管理課だ。君を迎えに来た」
「ありがとうございます」
 忠範は、深く頭を下げた。
「さあ、行こう。局はここから近い」
 二人は、駅を出て、賑やかな街を歩いた。
 東京の街は、活気に満ちていた。自動車が走り、モダンな建物が立ち並ぶ。女性たちは洋装で、男性たちは背広を着ている。
 忠範は、圧倒された。
「驚いたかね」
 高木が、笑いながら言った。
「東京は、地方とは違う。ここは、日本の心臓だ」
「はい……」
「だが、慣れれば楽しいところだ。君なら、すぐに馴染めるだろう」
 東京鉄道局。
 煉瓦造りの重厚な建物だった。
 中に入ると、廊下には職員たちが忙しそうに行き交っている。
 高木に案内され、忠範は局長室へ通された。
「伊藤忠範です」
 忠範は、緊張しながら敬礼した。
 局長は、五十代後半の、威厳のある男性だった。
「ああ、伊藤くんか。噂は聞いている」
 局長は、満足そうに頷いた。
「桜井駅での君の働きぶり、素晴らしかった。線路破壊を未然に防ぎ、犯人逮捕にも貢献した」
「恐縮です」
「君のような優秀な人材が、本局には必要だ」
 局長は、立ち上がった。
「ここでは、全国の鉄道網を管理している。責任は重いが、やりがいもある」
「はい」
「頑張ってくれたまえ」
「ありがとうございます」
 忠範は、運行管理課に配属された。
 デスクには、すでに書類が山積みになっている。全国各地の列車運行状況、事故報告、安全管理の通達──地方駅とは比較にならない量だ。
「大変だろう」
 高木が、声をかけた。
「でも、君ならできる」
「はい、頑張ります」
 忠範は、すぐに仕事に取り掛かった。
 だが、頭の片隅には──常に、雅子のことがあった。
 彼女は、今頃どうしているだろう。
 工場で、変わらず働いているのだろうか。
 忠範は、早く手紙を書こうと決めた。


 その夜。
 忠範は、局が用意した寮に入った。
 狭い部屋だったが、一人暮らしには十分だった。
 荷物を片付けると、すぐに机に向かい、便箋を取り出した。
「小野雅子様」
 ペンを走らせる。
「東京に着きました。無事に到着し、今日から本局で働き始めました。
 東京は、想像以上に大きな街です。人も多く、建物も立派で、最初は圧倒されました。
 でも、ここで頑張って、いつか小野さんを迎えに行けるようになりたいと思っています。
 小野さんは、お元気ですか。工場の仕事は、大変ではありませんか。無理をしないでください。
 僕は、毎日小野さんのことを思っています。どんなに離れていても、僕の気持ちは変わりません。
 また、手紙を書きます。小野さんからの返事を、楽しみに待っています。
 伊藤忠範」
 忠範は、手紙を封筒に入れた。
 明日、郵便局へ持って行こう。
 窓の外を見ると、東京の夜景が広がっていた。
 無数の灯りが、星のように輝いている。
 だが、忠範の心は──遠く、桜井の地へ向かっていた。
 同じ頃、桜井では。
 雅子が、寮の部屋で窓の外を見ていた。
 遠くに、駅舎が見える。
 だが、もう忠範はいない。
 彼は、東京へ行ってしまった。
 雅子の胸には、空虚感が広がっていた。
「雅子さん」
 志津が、部屋に入ってきた。
「元気、ないですね」
「……ええ」
「伊藤さんのこと、ですか」
 雅子は、頷いた。
「彼は、東京で頑張っているわ。私も、ここで頑張らないと」
「でも……寂しいですよね」
「……ええ」
 雅子の目から、涙が一筋流れた。
「とても、寂しいわ」
 志津は、雅子を抱きしめた。
「大丈夫です。きっと、また会えますよ」
「本当に……そうかしら」
「はい。だって、伊藤さんは雅子さんのことを愛しているんですから」
 雅子は、小さく微笑んだ。
 だが、心の中では──不安が消えなかった。
 数日後。
 忠範からの手紙が、雅子の元に届いた。
 雅子は、工場の昼休みに、中庭で一人、手紙を開いた。
 忠範の丁寧な字で、東京での様子が綴られている。
 雅子は、手紙を読みながら、涙を流した。
 嬉しかった。
 彼は、自分のことを忘れていない。
 ちゃんと、想っていてくれる。
 雅子は、すぐに返事を書こうと決めた。
 その夜。
 雅子は、寮の部屋で便箋に向かった。
「伊藤忠範様」
 ペンを走らせる。
「お手紙、ありがとうございました。東京での生活、順調なようで安心しました。
 こちらは、相変わらず忙しい毎日です。田村さんたちが捕まってから、工場の規律が厳しくなりました。でも、私は変わらず働いています。
 伊藤さんが東京へ行ってから、毎日が長く感じます。朝、駅であなたに会えないことが、とても寂しいです。
 でも、あなたが東京で頑張っていると思うと、私も頑張らなければと思います。
 どうか、お体に気をつけて。また、お手紙をください。
 小野雅子」
 雅子は、手紙を封筒に入れた。
 明日、郵便局へ持って行こう。
 窓の外を見ると、星が輝いていた。
 同じ星を、忠範も見ているだろうか。
 雅子は、そう思いながら、目を閉じた。
 こうして、二人の文通が始まった。
 最初の頃は、週に一度、手紙が届いた。
 忠範は、東京での仕事のこと、街の様子、そして雅子への想いを書いた。
 雅子は、工場での日常、志津のこと、そして忠範への想いを書いた。
 二人の絆は──手紙によって、保たれていた。
 だが、時間が経つにつれ──。
 忠範は、次第に仕事に追われるようになった。
 東京鉄道局は、想像以上に忙しかった。朝早くから夜遅くまで、書類に埋もれる日々。休日出勤も珍しくない。
 手紙を書く時間が、少しずつ減っていった。
 週に一度だった手紙が、二週間に一度になり──。
 そして、一ヶ月に一度になっていった。
 一方、雅子も。
 工場での生活は、相変わらず厳しかった。
 田村たちが捕まった後、監督たちの目は一層厳しくなった。少しでもミスをすれば、すぐに罰金を科される。
 疲労が、雅子を蝕んでいった。
 手紙を書く気力さえ、失われていった。


 六月の終わり。
 忠範は、高木に呼ばれて、局内の食堂で昼食を取っていた。
「伊藤くん、仕事には慣れたかね」
「はい、おかげさまで」
「それは良かった」
 高木は、満足そうに頷いた。
「君の働きぶり、上司たちも評価している」
「ありがとうございます」
「ところで」
 高木は、忠範を見た。
「君、故郷に恋人がいるそうだね」
 忠範は、驚いて顔を上げた。
「……はい」
「まあ、気にしなくていい。ただの噂だ」
 高木は、笑った。
「だが、忠告しておこう」
「忠告?」
「遠距離の恋は、難しい」
 高木の表情が、真剣になった。
「特に、君のように将来を嘱望されている人間にとっては」
「……」
「本局では、私生活も評価の対象になる。結婚相手も、重要だ」
 忠範は、黙って聞いていた。
「もちろん、恋愛は自由だ。だが、君の将来を考えるなら──」
 高木は、視線を落とした。
「もっと相応しい相手を、見つけた方がいい」
 忠範の胸が、痛んだ。
 また、同じことを言われた。
 田村と、同じことを。
「考えておきたまえ」
 高木は、そう言って席を立った。
 忠範は、一人残された。
 食事を、喉に通すことができなかった。
 その夜。
 忠範は、寮の部屋で雅子の写真を見ていた。
 桜井駅で、一度だけ撮った写真。
 雅子は、照れくさそうに微笑んでいた。
「小野さん……」
 忠範は、写真を胸に抱いた。
 高木の言葉が、頭から離れない。
「もっと相応しい相手を」
 だが──。
 忠範は、首を振った。
 自分は、雅子を愛している。
 それだけは、変わらない。
 どんなことがあっても。
 忠範は、便箋を取り出した。
 久しぶりに、手紙を書こう。
 だが──。
 ペンを持つ手が、止まった。
 何を書けばいいのか、分からなくなっていた。


 同じ頃、桜井では。
 雅子も、手紙を書こうとしていた。
 だが、同じように──。
 何を書けばいいのか、分からなかった。
 忠範からの手紙は、もう一ヶ月以上届いていない。
 彼は、忙しいのだろう。
 それは、分かっている。
 だが──。
 雅子の心には、不安が広がっていた。
 もしかして、彼は──。
 自分のことを、忘れかけているのではないか。
 東京には、もっと素敵な女性が、たくさんいる。
 自分のような女工よりも、彼に相応しい人が。
 雅子は、便箋を閉じた。
 書けなかった。
 窓の外を見ると、雨が降り始めていた。
 梅雨の、長い雨だった。
 雅子の心も──雨に濡れていた。