その日の夜。
わたしは家で、明日提出の理科の課題をやろうとしていた。
……していたんだけど。
……プリントがない!
なぜプリントがないか、わたしはすぐにわかった。
部活が始まる前、音楽室で佐紀とプリントを見ながら課題の話をしていた。
きっと席に置きっ放しにしてしまったんだ。
時計を見ると、時刻は午後7時。
まだ学校に残っている先生は……いるかもしれない。
わたしは藁にも縋る思いで学校に電話をかけた。
電話は繋がった。
「すいませんっ! 1年2組の有栖ゆいです! 学校に忘れ物をしちゃって、どうしても取りに行きたくて……!」
「えー!? 何を忘れたんですか?」
電話に出た先生は呆れたように答えた。
完全にわたしのうっかりのせいだ。何も言えない。
「明日提出の課題のプリントです! たぶん音楽室に忘れたんだと思います!」
「明日提出……。しょうがないですね、すぐ学校に来れますか? 今回だけ認めます」
「はい! ありがとうございます! 本当にすみません! すぐに学校に行きます!」
わたしはあわてて脱ぎかけていた制服を整えて、学校へ向かった。
夜の学校って怖い話の定番だけど、本当に怖い雰囲気がある。
わたしは忘れ物を取りに来た身分で、そんなことを呑気に考えていた。
職員室や、他の部屋の窓からもぽつぽつと光が見える。まだ先生は残っているみたい。
わたしは昇降口から学校に入り、まず職員室に向かった。
「すいません! 忘れ物を取りに来た1年2組の有栖です! 音楽室の鍵を貸してください!」
「はい、さっき電話に出た佐藤です」
佐藤先生は、音楽室の鍵を取るために職員室の端にある鍵の入っている棚の扉を開けた。
だけど、首をかしげている。
「おかしいな……。音楽室の鍵がない。音楽の先生がまだいるのかも。音楽室に直接向かってもらえますか?」
「わかりました!」
わたしは職員室を出て、階段へ急ぎ足で向かう。
音楽室は4階。一番上の階にある。
わたしは急いで階段を駆けのぼった。
音楽室は目の前。
わたしは音楽室の扉のドアノブに手をかける。扉は開いた。やっぱり中に先生はいるみたい。
……なんて考えていた瞬間。
わたしは弦が響く音を聞いた。
この音は――バイオリン。
誰かが音楽室でバイオリンを弾いている。わたしは誰が弾いているのか見てみたくて、音楽室にそーっと入り込んだ。
――琴宮先生!?
琴宮先生が、バイオリンを弾いていた。
少ししか電気をつけず、月明かりに照らされて。今日は満月だったみたい。
琴宮先生はバイオリンの音でわたしが入って来る音には気が付かなかったのか、それとも演奏に集中しているのか、わたしにはまったく気が付いていないようだった。
わたしは声をかけるなんてもちろんできなかった。ただ、バイオリンの音に聞き入っていた。
琴宮先生のバイオリンの音はとても優しくて繊細で、それでいて力強かった。
しばらくして、琴宮先生は演奏をやめて、バイオリンの弓を持つ右手を下ろした。
そして私と目が合った。
「あれ!? 有栖さん!?」
「こんばんは…」
琴宮先生はびっくりするようにわたしの名前を呼んだ。
わたしはただ挨拶することしかできなかった。
「ちょっと、課題のプリントを忘れちゃって…」
本当はもっと琴宮先生の演奏を聞いていたいけど、なんだかそれはためらわれた。
今の琴宮先生は、とても神聖な存在のような気がしたから。
「ああ、これのこと?」
琴宮先生はバイオリンを首に挟むと、近くにある譜面台に置かれているプリントを手に取った。
「そうです!」
「有栖さん、吹奏楽部だったんだね。何の楽器やってるの?」
「クラリネットです。まだまだ初心者ですけど…」
「そうだよね、まだ5月だもんね。何か困ってることはない?」
琴宮先生にそう聞かれて、わたしはびっくりして、同時に嬉しくなって口もとがゆるんだ。
「来月にコンクールのオーディションがあるんです。絶対合格したいんですけど、なかなかコンクールの曲がうまく吹けなくて……」
すると、琴宮先生は腕を組んで首をかしげてから、こう答えた。
「なぜできないか、どうしたらできるようになるか考えること、かな。練習あるのみだよ」
そう言って琴宮先生は微笑んだ。
わたしは琴宮先生に微笑んでもらったことは嬉しかったけれど、言葉の意味はよくわかっていなかった。
「なぜできないか、どうしたらできるようになるか」……?
わかるようで、わからない。
わたしはよっぽど難しそうな顔をしていたのか、琴宮先生はわたしの顔を見て笑った。
「あはは、そんなに難しく考えなくて大丈夫だよ。いつも勉強を頑張ってる有栖さんなら、きっと合格できるよ」
はい、と琴宮先生はわたしにプリントを手渡した。
いつも勉強を頑張ってるのは、完全に下心なんだけど。
「じゃあ、僕はもう少しバイオリンを練習するから。有栖さんは気を付けて帰ってね」
こんなに上手なのに、まだ練習するんだ……!
努力家な琴宮先生、素敵……!
「はい! 気を付けて帰ります!」
わたしは名残惜しく感じながらも、プリントをカバンにしまい、音楽室を出た。
音楽室を出てからも、琴宮先生がバイオリンを弾く姿が目に浮かぶ。
このままわたしが爆発的にクラリネットが上手くなって、一緒にアンサンブルしちゃったりして!?
早速わたしの妄想が始まった。
わたしと琴宮先生は、アンサンブルの練習をしてる。
場所は音楽室。
『有栖さん、ここはもっと思いっきり吹いて。僕は伴奏で支えるから』
なーんて、言われちゃったりして!?
そこまで考えて、わたしは我に返った。
そうだ、わたしはこのプリントを家まで持って帰って、夕食を食べて、プリントを解いて提出できる状態にしないといけないんだった。
職員室に戻って佐藤先生にお礼も言わないと。
琴宮先生にあんなこと言われちゃったら、絶対オーディションも合格しないと。
わたしは急に現実に引き戻されて、階段を降りて行った。
わたしは家で、明日提出の理科の課題をやろうとしていた。
……していたんだけど。
……プリントがない!
なぜプリントがないか、わたしはすぐにわかった。
部活が始まる前、音楽室で佐紀とプリントを見ながら課題の話をしていた。
きっと席に置きっ放しにしてしまったんだ。
時計を見ると、時刻は午後7時。
まだ学校に残っている先生は……いるかもしれない。
わたしは藁にも縋る思いで学校に電話をかけた。
電話は繋がった。
「すいませんっ! 1年2組の有栖ゆいです! 学校に忘れ物をしちゃって、どうしても取りに行きたくて……!」
「えー!? 何を忘れたんですか?」
電話に出た先生は呆れたように答えた。
完全にわたしのうっかりのせいだ。何も言えない。
「明日提出の課題のプリントです! たぶん音楽室に忘れたんだと思います!」
「明日提出……。しょうがないですね、すぐ学校に来れますか? 今回だけ認めます」
「はい! ありがとうございます! 本当にすみません! すぐに学校に行きます!」
わたしはあわてて脱ぎかけていた制服を整えて、学校へ向かった。
夜の学校って怖い話の定番だけど、本当に怖い雰囲気がある。
わたしは忘れ物を取りに来た身分で、そんなことを呑気に考えていた。
職員室や、他の部屋の窓からもぽつぽつと光が見える。まだ先生は残っているみたい。
わたしは昇降口から学校に入り、まず職員室に向かった。
「すいません! 忘れ物を取りに来た1年2組の有栖です! 音楽室の鍵を貸してください!」
「はい、さっき電話に出た佐藤です」
佐藤先生は、音楽室の鍵を取るために職員室の端にある鍵の入っている棚の扉を開けた。
だけど、首をかしげている。
「おかしいな……。音楽室の鍵がない。音楽の先生がまだいるのかも。音楽室に直接向かってもらえますか?」
「わかりました!」
わたしは職員室を出て、階段へ急ぎ足で向かう。
音楽室は4階。一番上の階にある。
わたしは急いで階段を駆けのぼった。
音楽室は目の前。
わたしは音楽室の扉のドアノブに手をかける。扉は開いた。やっぱり中に先生はいるみたい。
……なんて考えていた瞬間。
わたしは弦が響く音を聞いた。
この音は――バイオリン。
誰かが音楽室でバイオリンを弾いている。わたしは誰が弾いているのか見てみたくて、音楽室にそーっと入り込んだ。
――琴宮先生!?
琴宮先生が、バイオリンを弾いていた。
少ししか電気をつけず、月明かりに照らされて。今日は満月だったみたい。
琴宮先生はバイオリンの音でわたしが入って来る音には気が付かなかったのか、それとも演奏に集中しているのか、わたしにはまったく気が付いていないようだった。
わたしは声をかけるなんてもちろんできなかった。ただ、バイオリンの音に聞き入っていた。
琴宮先生のバイオリンの音はとても優しくて繊細で、それでいて力強かった。
しばらくして、琴宮先生は演奏をやめて、バイオリンの弓を持つ右手を下ろした。
そして私と目が合った。
「あれ!? 有栖さん!?」
「こんばんは…」
琴宮先生はびっくりするようにわたしの名前を呼んだ。
わたしはただ挨拶することしかできなかった。
「ちょっと、課題のプリントを忘れちゃって…」
本当はもっと琴宮先生の演奏を聞いていたいけど、なんだかそれはためらわれた。
今の琴宮先生は、とても神聖な存在のような気がしたから。
「ああ、これのこと?」
琴宮先生はバイオリンを首に挟むと、近くにある譜面台に置かれているプリントを手に取った。
「そうです!」
「有栖さん、吹奏楽部だったんだね。何の楽器やってるの?」
「クラリネットです。まだまだ初心者ですけど…」
「そうだよね、まだ5月だもんね。何か困ってることはない?」
琴宮先生にそう聞かれて、わたしはびっくりして、同時に嬉しくなって口もとがゆるんだ。
「来月にコンクールのオーディションがあるんです。絶対合格したいんですけど、なかなかコンクールの曲がうまく吹けなくて……」
すると、琴宮先生は腕を組んで首をかしげてから、こう答えた。
「なぜできないか、どうしたらできるようになるか考えること、かな。練習あるのみだよ」
そう言って琴宮先生は微笑んだ。
わたしは琴宮先生に微笑んでもらったことは嬉しかったけれど、言葉の意味はよくわかっていなかった。
「なぜできないか、どうしたらできるようになるか」……?
わかるようで、わからない。
わたしはよっぽど難しそうな顔をしていたのか、琴宮先生はわたしの顔を見て笑った。
「あはは、そんなに難しく考えなくて大丈夫だよ。いつも勉強を頑張ってる有栖さんなら、きっと合格できるよ」
はい、と琴宮先生はわたしにプリントを手渡した。
いつも勉強を頑張ってるのは、完全に下心なんだけど。
「じゃあ、僕はもう少しバイオリンを練習するから。有栖さんは気を付けて帰ってね」
こんなに上手なのに、まだ練習するんだ……!
努力家な琴宮先生、素敵……!
「はい! 気を付けて帰ります!」
わたしは名残惜しく感じながらも、プリントをカバンにしまい、音楽室を出た。
音楽室を出てからも、琴宮先生がバイオリンを弾く姿が目に浮かぶ。
このままわたしが爆発的にクラリネットが上手くなって、一緒にアンサンブルしちゃったりして!?
早速わたしの妄想が始まった。
わたしと琴宮先生は、アンサンブルの練習をしてる。
場所は音楽室。
『有栖さん、ここはもっと思いっきり吹いて。僕は伴奏で支えるから』
なーんて、言われちゃったりして!?
そこまで考えて、わたしは我に返った。
そうだ、わたしはこのプリントを家まで持って帰って、夕食を食べて、プリントを解いて提出できる状態にしないといけないんだった。
職員室に戻って佐藤先生にお礼も言わないと。
琴宮先生にあんなこと言われちゃったら、絶対オーディションも合格しないと。
わたしは急に現実に引き戻されて、階段を降りて行った。


