『母によろしく伝えてください』
マリアさんからそんな言伝を預かって、私とヴィルヘルム王太子殿下はブティックをあとにした。
乳姉弟の母というからには、殿下の乳母のことだろう。
(このあとどこかで会うのかしら)
マリアさんの店に入った時は裏からでわからなかったが、ブティック側から出た通りは、人通りも多く賑やかだった。
行き交う人々は活気に溢れ、城下町の景気の良さを感じさせる。
王太子殿下は、歩き慣れたように賑やかな街をすり抜けていく。私は殿下が危険な目に遭わないように、周りを伺いながらそのあとを追いかける。
近くでラインフェルデン公爵の隠密騎士であるジェイたちが見護っているとは思うけど、たとえスカートを履いていたって、私は王太子殿下の護衛騎士なのだ。
ふいに王太子殿下が、
「あ、」
と立ち止まるから私も慌てて足を止めた。
振り向いた殿下はバツの悪そうな顔をしていた。
「ごめん、その格好じゃ歩きにくいよね」
「いえ、大丈夫です。しっかり殿下に……」
「ヴィル」
「……ヴィルさんについて行けますわ」
ヒールのあるブーツだが、シャルロッテとしては履き慣れている高さだったし、使われている生地こそ違うが、歩くたびにふわりと足にまとわりつくスカートも馴染み深い。
「……」
あ、しまった。普段から女装してるように聞こえたかしら。
「あのっ……体は弱いですが、運動神経はいいので!」
ふっ、と王太子殿下から笑いが漏れる。
「それは知ってるよ。君の剣技はアクロバティックだから」
「小柄だから、スピード勝負なんです」
「ぶはっ!……スカートと全く関係ないな」
耐えきれない、といったように殿下が噴き出した。
王太子殿下は笑い上戸だ。
飄々としつつも人当たりがよく、ニコニコ笑う王太子殿下。
私が昨日まで感じていた王太子殿下の印象。
そこに今日、少し意地悪で、時々強引で、おねだり上手に笑い上戸、も加わった。
それから……。
「僕も着替えてくればよかったな」
やっと笑いがおさまったのか、殿下は私の瞳を覗き込む。
「?」
「ほら、身分違いだとデートに見えないからさ」
「まだその設定は生きてたんですか?」
呆れ半分尋ねてみれば、
「もちろん!」
王太子殿下は胸を張って答える。
「でも、まあそれはまた次の機会に」
なんてしれっというものだから、
「もうこんな格好はしませんよ」
下から睨んだのに、ふふふ、と楽しげに笑われてしまった。
納得いかないわ。
膨れっ面の私を見て、王太子殿下は満足したようだ。
甘やかな瞳に、いつものいたずらっ子の表情で、
「次の目的地はあちらです、ロッテ様」
と正面にあるパン屋を、指先を揃えた手で示した。
「ロッテ様はパン屋に入ったことはある?」
「店の前までならあります」
領地内の街に出かけた時なんかは、
『シャルロッテお嬢様に召し上がってもらいたいパンがあるんです!』
と張り切ってパン屋へと入っていった侍女のエマを、私は護衛たちと店先で待っていたっけ。
「そうか。よし入ろう」
きっと楽しいから!
と私の手を引っ張る殿下の方が楽しそうだ。
店内に入ると、焼きたてのパンの香りがふわっと漂い、鼻腔とお腹を刺激してきた。
ライ麦パンにプレッツェル、カンパーニュにサンドイッチ。その場でパンにチーズとソーセージを挟んでくれるサービスもあるらしい。
公爵家の食卓では見たことのないパンも陳列されている。
「ヴィルさん、あのパンはなんですか?」
私が指さしたのは、可愛いリスの顔の形をしたパン。
ドライフルーツがふんだんに使われたパンでもなければ、シャキシャキのレタスと燻製肉がボリューミーに挟まれているパンでもない。
ただリスがかたどられてるだけなのに、とても惹かれた。
殿下は私の指し示すパンを見てにっこり笑う。
「あれはクリームパンだね。胡桃味のクリームが使われてるみたいだよ」
「クリーム……パン?パン?スイーツではなくてですか?」
「食べてみる?」
「いえっ、そんな……」
殿下は私の答えを聞く前に、さっさとトレイにリスの形をしたクリームパンを乗せる。
他にもいくつかパンをピックアップした後、殿下はカウンターへと向かった。
会計をしているのは恰幅の良い男性だ。
「やあ、ヴィル。今日は可愛い子を連れてるね」
(王太子殿下を呼び捨て!)
私は気が遠くなりそうになったが、殿下はチラッとこちらを見て笑う。
「僕が仕えてるお屋敷のお嬢さん。普段は他国に留学してていないんだけど、休暇で帰省しててさ。街を見てみたいって言うから、一緒に来たんだ」
よくもまあ、作り話が次々に出てくるものだと感心してしまう。
「なるほどねえ。ちゃんと案内してあげるんだよ」
「もちろん!」
「他にもいつものも届けるのかい?」
「ああ、お願いするよ」
いつものとは?
疑問を抱えたまま外に出る。
が、殿下はそのことについて説明する気はないらしい。
なぜなら殿下はパンの包み紙を開いて、
「はい、どうぞ」
とリスの……胡桃クリームパンを手渡してくれたから。
「ありがとうございます!」
お礼を伝えて、袋からリスを……リスのパンを取り出して、じっと見つめた。
「ふふ」
「?」
「さっきから思ってたんだけど、そのリス。ロッテ様に似てるよね」
「どこがですか?」
「膨れた時の顔と、リスの頬袋かな」
「私は膨れたりなんか……」
いや、してる。
何回か膨れっ面をしてしまった気がするわ。
なんなら今もしてる気がする。
アルフレートならしないだろうな……気をつけなきゃいけない。
眉間に皺を寄せて反省していたら、冷たい指が私の眉間に触れた。
「可愛い、って言ったんだよ。ロッテ」
私の瞳を覗き込むように、王太子殿下が笑った。
(ああ、まただ……)
……殿下にとっては何気ない一言なのだろう。
でもそんなふうに言われ慣れてない私にとっては、……少なくとも私の心臓にとっては効果覿面だ。
殿下が私を可愛いと表現するたびに、ドキドキと鼓動が速くなり、顔が熱くなる。
今だって。
今だってきっと私の顔は赤い。
最初は分からなかった感情だが、流石に私にもわかってしまった。
この気持ち……。
この心臓が苦しくて逃げ出したくなる気持ちは……。
『ただただ照れくさい気持ち』
だと……!
要は恥ずかしいのだ。
可愛いなんて、私に似合わない言葉を囁かれるのは。
それに大体その形容詞を贈られてるのは私じゃない。
アルフレートに向けての言葉だ。
アルフレートと入れ替わりがもし一時のことだとしても、私が王太子殿下に『可愛い』と言われることは今後一切ないだろう。
そう思ったら、急に寂しくなった。
(今度は、なんなの?)
胸の奥がスカスカする気持ち……。
ひとつわかったと思ったら、また知らない気持ちが私の前に立ちはだかってしまった……。
飄々としつつも人当たりがよく、ニコニコ笑う。
少し意地悪で、時々強引で、おねだり上手に笑い上戸。
それから……。
俯いていた顔を上げる。
王太子殿下は変わらず優しい瞳のまま私を見ていた。
(私に、知らない気持ちをくれるひと……)
黙っていたら、
「パン、食べないのかい?」
と尋ねてくる。
私がお腹が空いて静かになった、と思ったのかもしれない。
でも私はまだ、このリスのクリームパンを食べたくなかった。
「このパンは、後ほどいただいてもいいですか?」
「?もちろん。キミのだからね」
私が包み紙を戻したパンをポシェットに詰め込むのを見守ってから、殿下は、
「じゃあ、次の目的地に行こう」
と、また私の手を引いた。
「次はどこに?」
「あと二店ほど。きっとロッテ様は買い物に行ったことのないお店だよ」
果たして王太子殿下の言った通り、次の店は野菜と果実を売っている店、その次はいわゆる雑貨店……毎日使うものなどを置いてある店だった。
私は艶々とした真っ赤なトマトや、びっくりするくらい大きいオレンジなどに感嘆したり、ピカピカの瓶に入っているジャムや蜂蜜などに喜び、殿下を大いに満足させたようだった。
そしてそこでも王太子殿下は店員に、パン屋に言ったことと同じことを告げた。
「あとでいつものを届けてほしい」
と。
いつものとは何だろう。
私の心を読んだかのように王太子殿下はにっこり笑うと、
「次が最終目的地だよ。次の次の角を曲がって……!」
王太子殿下は最後まで言葉に出来なかったのは、恐らく小さな悲鳴のようなものを聞き止めたからだろう。
「殿下、聞こえましたか?」
「キミもか。聞き間違いじゃないんだな」
さすがの殿下も、お嬢様と使用人のコンセプトはやめたようだ。
その時、また微かな悲鳴が耳に届き、私たちは声のする方へと駆け出した。
マリアさんからそんな言伝を預かって、私とヴィルヘルム王太子殿下はブティックをあとにした。
乳姉弟の母というからには、殿下の乳母のことだろう。
(このあとどこかで会うのかしら)
マリアさんの店に入った時は裏からでわからなかったが、ブティック側から出た通りは、人通りも多く賑やかだった。
行き交う人々は活気に溢れ、城下町の景気の良さを感じさせる。
王太子殿下は、歩き慣れたように賑やかな街をすり抜けていく。私は殿下が危険な目に遭わないように、周りを伺いながらそのあとを追いかける。
近くでラインフェルデン公爵の隠密騎士であるジェイたちが見護っているとは思うけど、たとえスカートを履いていたって、私は王太子殿下の護衛騎士なのだ。
ふいに王太子殿下が、
「あ、」
と立ち止まるから私も慌てて足を止めた。
振り向いた殿下はバツの悪そうな顔をしていた。
「ごめん、その格好じゃ歩きにくいよね」
「いえ、大丈夫です。しっかり殿下に……」
「ヴィル」
「……ヴィルさんについて行けますわ」
ヒールのあるブーツだが、シャルロッテとしては履き慣れている高さだったし、使われている生地こそ違うが、歩くたびにふわりと足にまとわりつくスカートも馴染み深い。
「……」
あ、しまった。普段から女装してるように聞こえたかしら。
「あのっ……体は弱いですが、運動神経はいいので!」
ふっ、と王太子殿下から笑いが漏れる。
「それは知ってるよ。君の剣技はアクロバティックだから」
「小柄だから、スピード勝負なんです」
「ぶはっ!……スカートと全く関係ないな」
耐えきれない、といったように殿下が噴き出した。
王太子殿下は笑い上戸だ。
飄々としつつも人当たりがよく、ニコニコ笑う王太子殿下。
私が昨日まで感じていた王太子殿下の印象。
そこに今日、少し意地悪で、時々強引で、おねだり上手に笑い上戸、も加わった。
それから……。
「僕も着替えてくればよかったな」
やっと笑いがおさまったのか、殿下は私の瞳を覗き込む。
「?」
「ほら、身分違いだとデートに見えないからさ」
「まだその設定は生きてたんですか?」
呆れ半分尋ねてみれば、
「もちろん!」
王太子殿下は胸を張って答える。
「でも、まあそれはまた次の機会に」
なんてしれっというものだから、
「もうこんな格好はしませんよ」
下から睨んだのに、ふふふ、と楽しげに笑われてしまった。
納得いかないわ。
膨れっ面の私を見て、王太子殿下は満足したようだ。
甘やかな瞳に、いつものいたずらっ子の表情で、
「次の目的地はあちらです、ロッテ様」
と正面にあるパン屋を、指先を揃えた手で示した。
「ロッテ様はパン屋に入ったことはある?」
「店の前までならあります」
領地内の街に出かけた時なんかは、
『シャルロッテお嬢様に召し上がってもらいたいパンがあるんです!』
と張り切ってパン屋へと入っていった侍女のエマを、私は護衛たちと店先で待っていたっけ。
「そうか。よし入ろう」
きっと楽しいから!
と私の手を引っ張る殿下の方が楽しそうだ。
店内に入ると、焼きたてのパンの香りがふわっと漂い、鼻腔とお腹を刺激してきた。
ライ麦パンにプレッツェル、カンパーニュにサンドイッチ。その場でパンにチーズとソーセージを挟んでくれるサービスもあるらしい。
公爵家の食卓では見たことのないパンも陳列されている。
「ヴィルさん、あのパンはなんですか?」
私が指さしたのは、可愛いリスの顔の形をしたパン。
ドライフルーツがふんだんに使われたパンでもなければ、シャキシャキのレタスと燻製肉がボリューミーに挟まれているパンでもない。
ただリスがかたどられてるだけなのに、とても惹かれた。
殿下は私の指し示すパンを見てにっこり笑う。
「あれはクリームパンだね。胡桃味のクリームが使われてるみたいだよ」
「クリーム……パン?パン?スイーツではなくてですか?」
「食べてみる?」
「いえっ、そんな……」
殿下は私の答えを聞く前に、さっさとトレイにリスの形をしたクリームパンを乗せる。
他にもいくつかパンをピックアップした後、殿下はカウンターへと向かった。
会計をしているのは恰幅の良い男性だ。
「やあ、ヴィル。今日は可愛い子を連れてるね」
(王太子殿下を呼び捨て!)
私は気が遠くなりそうになったが、殿下はチラッとこちらを見て笑う。
「僕が仕えてるお屋敷のお嬢さん。普段は他国に留学してていないんだけど、休暇で帰省しててさ。街を見てみたいって言うから、一緒に来たんだ」
よくもまあ、作り話が次々に出てくるものだと感心してしまう。
「なるほどねえ。ちゃんと案内してあげるんだよ」
「もちろん!」
「他にもいつものも届けるのかい?」
「ああ、お願いするよ」
いつものとは?
疑問を抱えたまま外に出る。
が、殿下はそのことについて説明する気はないらしい。
なぜなら殿下はパンの包み紙を開いて、
「はい、どうぞ」
とリスの……胡桃クリームパンを手渡してくれたから。
「ありがとうございます!」
お礼を伝えて、袋からリスを……リスのパンを取り出して、じっと見つめた。
「ふふ」
「?」
「さっきから思ってたんだけど、そのリス。ロッテ様に似てるよね」
「どこがですか?」
「膨れた時の顔と、リスの頬袋かな」
「私は膨れたりなんか……」
いや、してる。
何回か膨れっ面をしてしまった気がするわ。
なんなら今もしてる気がする。
アルフレートならしないだろうな……気をつけなきゃいけない。
眉間に皺を寄せて反省していたら、冷たい指が私の眉間に触れた。
「可愛い、って言ったんだよ。ロッテ」
私の瞳を覗き込むように、王太子殿下が笑った。
(ああ、まただ……)
……殿下にとっては何気ない一言なのだろう。
でもそんなふうに言われ慣れてない私にとっては、……少なくとも私の心臓にとっては効果覿面だ。
殿下が私を可愛いと表現するたびに、ドキドキと鼓動が速くなり、顔が熱くなる。
今だって。
今だってきっと私の顔は赤い。
最初は分からなかった感情だが、流石に私にもわかってしまった。
この気持ち……。
この心臓が苦しくて逃げ出したくなる気持ちは……。
『ただただ照れくさい気持ち』
だと……!
要は恥ずかしいのだ。
可愛いなんて、私に似合わない言葉を囁かれるのは。
それに大体その形容詞を贈られてるのは私じゃない。
アルフレートに向けての言葉だ。
アルフレートと入れ替わりがもし一時のことだとしても、私が王太子殿下に『可愛い』と言われることは今後一切ないだろう。
そう思ったら、急に寂しくなった。
(今度は、なんなの?)
胸の奥がスカスカする気持ち……。
ひとつわかったと思ったら、また知らない気持ちが私の前に立ちはだかってしまった……。
飄々としつつも人当たりがよく、ニコニコ笑う。
少し意地悪で、時々強引で、おねだり上手に笑い上戸。
それから……。
俯いていた顔を上げる。
王太子殿下は変わらず優しい瞳のまま私を見ていた。
(私に、知らない気持ちをくれるひと……)
黙っていたら、
「パン、食べないのかい?」
と尋ねてくる。
私がお腹が空いて静かになった、と思ったのかもしれない。
でも私はまだ、このリスのクリームパンを食べたくなかった。
「このパンは、後ほどいただいてもいいですか?」
「?もちろん。キミのだからね」
私が包み紙を戻したパンをポシェットに詰め込むのを見守ってから、殿下は、
「じゃあ、次の目的地に行こう」
と、また私の手を引いた。
「次はどこに?」
「あと二店ほど。きっとロッテ様は買い物に行ったことのないお店だよ」
果たして王太子殿下の言った通り、次の店は野菜と果実を売っている店、その次はいわゆる雑貨店……毎日使うものなどを置いてある店だった。
私は艶々とした真っ赤なトマトや、びっくりするくらい大きいオレンジなどに感嘆したり、ピカピカの瓶に入っているジャムや蜂蜜などに喜び、殿下を大いに満足させたようだった。
そしてそこでも王太子殿下は店員に、パン屋に言ったことと同じことを告げた。
「あとでいつものを届けてほしい」
と。
いつものとは何だろう。
私の心を読んだかのように王太子殿下はにっこり笑うと、
「次が最終目的地だよ。次の次の角を曲がって……!」
王太子殿下は最後まで言葉に出来なかったのは、恐らく小さな悲鳴のようなものを聞き止めたからだろう。
「殿下、聞こえましたか?」
「キミもか。聞き間違いじゃないんだな」
さすがの殿下も、お嬢様と使用人のコンセプトはやめたようだ。
その時、また微かな悲鳴が耳に届き、私たちは声のする方へと駆け出した。

