さて、王太子宮の裏庭で、アルフレート(シャルロッテ)がロイス伯爵家のライマーと対峙していた頃。
 そこから二半刻ほど遡った、王女宮でのできごとである。
 
 エデルガルト・アーレンベルク。
 アデスグラント王国にある二つの公爵家のひとつ、アーレンベルク公爵家の次女であるエデルガルトは悩んでいた。
 
 彼女の悩みの種は、今日からこの王女宮で一緒に刺繍を嗜む友人となるはずの、ラインフェルデン公爵家のシャルロッテのことだ。

 ウマが合わない人間はいる。十六にもなれば、エデルガルトもそれくらいは理解している。
 合わないなら合わないで、気付かないふりをすればいい。腹の中は見せ合わない、そつのない会話は貴族の得意分野だ。

 だが、シャルロッテを前にすると、なぜかエデルガルトはそれができないのだ。彼女と会うと、自分らしさを失ってしまう。
 自分らしさ……、それは令嬢らしい淑やかさだ。

 シャルロッテはとにかく自由な少女だった。楽しい時には大いに笑い、不愉快な時ははっきりと相手にノーを突きつける。
 他の令嬢や令息のような裏表がなく、自分を良く見せようともしない。

 ラインフェルデン家はアーレンベルク家と同様に、アデスグラント王国のもうひとつの公爵家だ。
 娘として生まれたからには、いずれはこの国を支える夫に嫁ぎ……もしくは一族を更に繁栄させられるような相手に嫁ぐのが使命の筈だ。
 
 エデルガルトも両親から事あるごとに言われている。それが高貴な家柄の娘の努めで幸せなのだと。
 大好きだったエデルガルトの姉、ジュリアが他国の有力貴族に嫁いでいったように……。

 自分の価値観を押し付けてはいけない。
 
 頭ではわかっていても、淑やかさの代わりに剣を持ち、自由奔放に振る舞うシャルロッテを見ていると、エデルガルトはいつも胸の中がざわめくのだ。つい、「淑女たるもの……」などと要らぬお節介を焼いてしまう。

 その度に、
「私は私が決めた相手と以外、結婚なんかしないもの」
から始まり、
「そうはいかないでしょう。家名のためにも、アデスグラント王国のためにも…」
「エデルガルト嬢は私のお母さまですか?」
「あなたねえ…」
 このように、最終的にはシャルロッテと、言い争いになってしまうのだった。

「エデルガルト?どうかしましたか?」
 鈴の音色のような可愛らしい声の持ち主に名前を呼ばれ、エデルガルトは、はっと我に返った。
 
 エデルガルトを呼んだのは、この宮の主であるフロリアン・フォン・シュヴァルツヴァルト。
 即ち、アデスグラント王国の王女である。
 
「申し訳ありません、なんでもありませんわ」
「そうなの?」

 フロリアン王女は、薄紅色の瞳を細めて笑う。
 普段は八歳という年齢よりも大人びて見える王女だが、笑うと年相応の幼さが見える。
 
 王女宮に上がるまで、エデルガルトは正直不安であった。フロリアンが気難しい少女だと、周囲から聞いていたからだ。
 幸いエデルガルトは刺繍が得意ではあったが、歳の離れた姫君と会話が弾むかが心配で、しばらく食欲が湧かないほどだった。
 
 だが小さな愛らしい王女と会った瞬間、そんな心配は吹き飛んだ。
 
 今は刺繍がお気に入りのフロリアンだが、さまざまなことに興味を持ち、驚く事に図書館ひとつにも匹敵するような膨大な知識を持っていた。
 
 以前エデルガルトはふとしたきっかけで、姉ジュリアへの慕情をフロリアンに洩らしたことがあった。
 フロリアンはエデルガルトの寂しい気持ちを汲み、ジュリアの嫁ぎ先の国がどんなに自然が豊かだとか、どのような食べ物が美味しいだとか、それから女性がとても大切にされる国だとか、様々な話を聞かせてくれた。

 エデルガルトはフロリアンの深い優しさに感銘を受けた。そしていつのまにかこの小さなお姫様のことが大好きになっていたのである。

 だからなおのこと、エデルガルトはシャルロッテの存在が不安だった。
 フロリアンに対し、失礼な物言いはしないだろうか、なにかしでかしやしないか。
 ……そもそもの話だが、
(シャルロッテって刺繍ができるのかしら……)

「ほら、また。眉間に皺ができてますよ」
 フロリアンがくすくすと楽しそうに笑う。
「も、申し訳ありません……」

 いやだわ、とエデルガルトは細く白い指で、慌てて眉間を伸ばす。
 そんな彼女を見たフロリアンは、可笑しそうに微笑んだ。
「エデルガルトは、余程シャルロッテ嬢が気になるのですね」
「そんな……」
「私も興味があるのです。双子というだけでもミステリアスなのに、ラインフェルデン公爵家のご子息もご令嬢も、余り公的な場にはいらっしゃらないから」

 フロリアンが小首を傾げると、肩にかかっていた薄紅い色の髪がさらりと揺れた。
 
「エデルガルトは弟君(おとうとぎみ)に会われたことは?」
「幼い頃に数えるくらいは。最近では、国王陛下主催の新年のパーティでしょうか。ただ体調を崩されたとかで、すぐに退出されていたような……」
「私もそう記憶しています。でも、体が弱いご令息に兄の護衛騎士がつとまるのかしら?」

 嫌味でもなんでもなく、フロリアンは疑問に感じているようだった。
 エデルガルトは、自分とほぼ同時期に王太子殿下の護衛騎士に任命された、ある少年を思い出していた。
 
(最近ではロイス伯爵家の次男(ライマー)が問題を起こして謹慎させられた、と耳にしたけど……)
「あの問題児(ロイス侯爵の次男)にイジワルをされないとよいのですが」

 フロリアンもエデルガルトも、考えていることは一緒のようだ。

 コツコツ、とフロリアンの部屋に扉を叩く音が響き渡った。
 手彫りが施されたエレガントな白い扉の向こうから、
「ラインフェルデン公爵家より、シャルロッテ様がおいでになりました」
侍女長のウェーバー夫人の声が聞こえる。
 
「どうぞ、お入りになって」
 フロリアンの声を合図に、
「失礼致します」
と、シャルロッテが姿を見せた。

 ほっそりした体躯に、葡萄色のドレスがよく似合っている。貴族の令嬢としては短すぎるが、肩で揃えた赤褐色の髪がカーテン越しの光に反射して鮮やかに輝いていた。滑らかな象牙色の肌に、上質な宝石を思わせる翠玉色の瞳もとても美しい。
 
 シャルロッテは葡萄色のドレスをふわりと広げ、優雅にお辞儀をする。
 
「ラインフェルデン公爵の娘でシャルロッテと申します。どうぞお見知りおき下さいませ」

 上品で文句のつけようもないカーテシーに、エデルガルトは声が漏れそうなくらい驚いていた。
 
(本当にシャルロッテなの?)
 
 実際はシャルロッテと入れ替わったアルフレートなのだが、もちろんそのことをエデルガルトは知るよしもない。

「私はフロリアン・シュヴァルツヴァルトです。これからよろしくね」
「フロリアン王女殿下、この度は刺繍の会にお誘いくださりありがとうございます」
「シャルロッテ嬢、会えるのを楽しみにしていました。私のことはフロリアンと呼んでちょうだい。ここは公の場ではないし、あなたと仲良くなりたいの」
「では、私のこともシャルロッテとお呼びくださいませ、フロリアン様」

 流れるような挨拶の後、フロリアンとシャルロッテは目を見合わせて笑った。
 エデルガルトは、シャルロッテの変貌に驚くばかりである。

 いつも落ち着き払っているエデルガルトが固まってしまっているのが興味深いのか、
「二人は旧知の仲なのでしょう?」
いたずらっ子の瞳をして、フロリアンがエデルガルトに話を振る。
「ええ……」

 するとシャルロッテは、さっき見せた見事なカーテシーをエデルガルトに披露すると、
「これからご指導お願いしますね、エデルガルトおかあさま(・・・・・)
「まあ!あなたねえ……!」

 シャルロッテの軽口に乗せられた事に気付いたエデルガルトは、憤慨するよりも先に笑ってしまった。
 
 (なんだ、いつも通りのシャルロッテでしたわ)
 
 エデルガルトは、自分の違和感が勘違いだった事に安堵した。
 
 しかし彼女はこの後すぐに、想像もしていなかったシャルロッテの刺繍の技術の高さに驚かされることになる。

  ♢

 そして時は今に戻る。

 突然フロリアン達のいる室内に、激しく扉を叩く音が響いた。
 その音は高貴な出自の少女三人が、話に花を咲かせながら和やかに刺繍を楽しんでいる場にはそぐわないほどの音量だった。
 皆が扉を振り返る中、ウェーバー夫人が眉を顰めながら対応しに向かう。

 最初は咎めるようなヒソヒソした声で話していた夫人だったが、やがて急ぎ足で戻ってくると、
「大変です。ライマー様がアルフレート様に決闘を申し込んだそうです」
 
「決闘……!」
「決闘ですって!」

 驚いた声が二つ、フロリアン王女とエデルガルトだ。前者は隠しきれない好奇心をはらんだ声で、後者は悲壮感漂う声だったが。

 さぞかし弟を案じているだろうと思いきや、黙々と作品に向かい刺繍針を動かすシャルロッテに、エデルガルトは呆れた。
「あなた、弟が心配じゃなくて?」

 アルフレート(シャルロッテの弟)は体が弱いと聞いている。護衛騎士といっても恐らくお飾りだろう。
 そんな双子の弟が決闘を申し込まれて、なぜシャルロッテは平然としていられるのか。

 シャルロッテはひとつため息をつき、刺繍枠をテーブルに置くと、ソファから立ち上がった。
「もちろん心配ですわ。向かってもよろしいでしょうか?」
 フロリアンは小さく何度も頷くと、
「ええ、私たちも参りましょう」
とウェーバー夫人に告げた。

 王女宮にいる皆がアルフレートを心配する中、本物のアルフレートだけがライマーを慮っていた。

(可哀想に。ロッテを相手にするなんて……)

 しかし、どうやったら初日からこんな騒ぎを生み出せるんだろうか?
 うちに帰ったらお説教だな、アルフレートは心に誓ったのである。