そしてその夜。

空には満天の星。
静かな波音だけが響いている。

ファティマは眠れず、
甲板に出て海を眺めていた。
そこへ、そっとブランケットを掛ける人がいた。

「海上の夜は冷えるよ。それに疲れただろうから横になって。」
——デクランである。

「……眠れなくて。何もかも……全部、置いてきてしまった。」
ファティマの声は震えていた。

デクランはしばらく黙り込んだ後、
その横顔に触れることもなく、
ただ寄り添うように隣に立つ。

「あなたは何も間違っていない。
 強制された結婚を拒むことも、自由を求めることも。
 あなたには選ぶ権利がある。」

「でも……怖いの。帝国は私を裏切り者と呼ぶでしょう。クレオールは執念深い男よ。絶対に私を捕まえに来るわ。」

「それでも、あなたが望む未来を探すなら……僕はあなたの隣にいる。」

ファティマの胸が締めつけられる。
彼の声は優しく、揺るぎなく、
まるで自分を支える柱のようで――。

「デクラン……あなたがいてくれて、良かった。」

ようやく彼女が小さく微笑むと、
デクランは耐えていた感情が溢れるのを
ぐっと押しとどめるように、
そっと彼女の手に触れた。

「……侯妃様。あなたに触れることを許してくださいますか。」
たったひと言の許可を求める声が、
甘くて、切なくて。

ファティマは小さく頷いた。
「もちろん。でも『侯妃様』は止めて。お願いしたでしょう?二人きりの時は…」

「ファティマ。」

二人の指が絡み合う。
それだけなのに胸が熱くなる。
新しい世界へ向かう船の上で、
二人は静かに、
しかし確かに惹かれ合っていた。