そして翌朝。
この日はファティマが侯国に帰る日である。

朝の港は、穏やかな潮風に包まれていた。
篝火の夜の熱狂とは打って変わって、
静かで落ち着いた空気が漂う。

ファティマは、船の甲板で手すりにそっと手を置き、
遠くの波を見つめた。
アズールティアで過ごした時間は、
あまりにも楽しく、温かく――
そして、自分でも認めたくなかった
デクランへの気持ちを自覚してしまった。

「帰りたくない……」
胸の奥で、心がつぶやく。
でも、無情にも出航の鐘が鳴り、
船はゆっくりと港に向かって動き始める。

デクランはそんな彼女の姿を、
ただじっと見守っていた。
いつも笑顔の彼の顔には、
どこか痛々しいほどの寂しさが浮かんでいる。

「侯妃様……いつでも、遊びに来てください」
その声が精一杯の明るさで、
ぎこちなくも誠実だった。

ファティマは小さく微笑み、手を振る。
「ええ……また手紙を書くわ」

「あなたの手紙なら、いつでも待っています」

二人の目が一瞬重なり、
互いの心の奥を押し殺す。
船と港の距離が広がるにつれ、
言葉には出せない切なさが胸を締めつけた。