私は慎士と付き合っている間、彼以外を異性として意識したことは一度もない。彼との未来を夢見たからこそ、苦手な料理も克服しようとがんばった。

 だけど『じゃあ彼を心底好きだったの?』と胸に問いかけたら、『YES』と即答できない。彼が言った通り、一度ですんなり別れ話をのみ込める程度だったと言われれば返す言葉もない。それは根底に各務課長への想いがあったからだ。
 無自覚だっただけで、私も彼に対して不誠実だった。

「ごめんなさい、慎士。やり直すのは無理よ」

 慎士はうつむいて何かをこらえるようにグッとこぶしを握り締めた後、顔を上げた。

「もういい。他の女とデートしたと知っても取り乱しもしない、かわいげのない女はこっちから願い下げだ」

 吐き捨てるようにそう言うと、クルリと背を向け速足で去っていく。短髪でスーツの後ろ姿は、あっという間に雑踏に消えていった。

「本当によかったんですか?」

 振ってきた声に隣を振り仰ぐ。

「牧村くんとこのまま別れても?」

 各務さんは真意を探るように、私の目をじっと見つめている。私が「はい」と短く答えると、彼は明らかにホッとした様子で眉根を開いた。

 そんなふうに感情を表に出すなんて、各務さんにしてはめずらしいな。

 ふとそう思ってから思い出した。そうだった、土曜日は今みたいに色々な表情を見せてもらったのだ。
 スーツ姿のせいで〝各務課長〟のイメージのままだったけれど、今は丁寧語ながら表情が柔らかい。

 社外だから? それとも相手が私……だから? ――なんて、うぬぼれすぎよね。 

「佐伯さん?」

 じっと見つめすぎたせいだろう、課長が不思議そうに首をかしげる。片側だけ下ろしている前髪が、さらりと揺れた。

 今しかない。

 直感に突き動かされて口を開く。

「あのっ、さっき言われたお礼、今言ってもいいですか?」

 彼は一瞬目を見張った後、「ああ」とうなずく。

「これから十分だけ……課長のお時間をいただけますか?」

 私の唐突な申し出に彼は目をしばたたく。けれどすぐに「はい」と言ってくれた。