怜司の腕に強く抱きしめられたまま、
紗菜はしばらく動けなかった。
怜司の声は確かに震えていた。
「いなくなるなんて考えるな」
そのひと言だけで胸が張り裂けそうになる。
だけど、分かってしまった。
怜司は迷っている。
紗菜の気持ちに応えるのではなく、“どう接するべきか”で迷っているだけだ。
(……本当に、私を必要としているわけじゃない)
(怜司さんは優しいから……抱きしめてくれただけ)
それを理解した瞬間、胸の奥に小さな亀裂が走った。
怜司の腕の中は、あまりに温かくて。
だからこそ、終わりが怖くなる。
翌朝。
怜司は早朝から会議のため、屋敷を出た。
紗菜は窓辺に座り、怜司の車が門の外へ消えるのを見送った。
(……やっぱり、私……出ていこう)
昨夜怜司が「いなくなるな」と言ってくれたのは、優しさだ。
恋でも、愛でもない。
(これ以上期待したら……壊れてしまう)
紗菜は小さく息を吸い、クローゼットに手を伸ばした。
スーツケースを開く音。
服を畳む音。
震える指。
――それでも紗菜は荷物をまとめ続けた。
そこへ、舞が屋敷を訪れた。
不意に紗菜の部屋の扉が開く。
「あら……準備をしているのね」
紗菜は振り返れなかった。
「……舞さん。昨夜のこと、怜司さんに言いましたか?」
「言ったわよ。“紗菜さんが自分から身を引いたほうがいい”って」
(…………っ)
舞は穏やかな声で続けた。
「怜司さん、“そのほうが互いのためだ”って言っていたわ」
紗菜の手が止まる。
(怜司さんが……?)
舞は紗菜の心が折れる瞬間を見届けるように、言葉を落とした。
「あなたの気持ちに応えるつもりはないって。
優しいから拒絶はしないけど――
本気になるのは、あなたにとって良くないって」
“怜司さん”と“良くない”が胸の奥でひどくぶつかり合う。
(……そうだよね)
(優しいだけ……だったんだ)
舞は最後に微笑んだ。
「あなたが出ていくのは正しい選択よ、紗菜さん」
その言葉に、紗菜はもう何も返せなかった。
舞が去ったあと――紗菜は静かに部屋の鍵を閉めて泣いた。
怜司と過ごした部屋。
同じ庭を見た窓。
笑ってくれた顔。
呼んでくれた名前。
触れた温もり。
ひとつひとつが胸に刺さる。
(……でも、このまま残っていたら……
もっと傷つくことになる)
涙を袖で拭いながら、紗菜は最後の荷物をスーツケースにしまった。
そして――
机の上に、白い封筒を置いた。
怜司への手紙。
最後の気持ちを、たった数行だけ書き残したもの。
「……ありがとうございました……怜司さん……」
声に出すと、涙がまた溢れてくる。
紗菜はスーツケースを引き、屋敷の裏口に向かった。
正門を使えば誰かに見つかる。
裏口からなら、静かに消えられる。
庭を横切ったとき、
桜の木の下で怜司と見た朝の景色を思い出した。
「……怜司さんの隣に……いたかった……」
風に消されていく小さな声。
紗菜の足取りだけが静かに遠ざかっていく。
一方その頃――怜司は会議室で胸騒ぎを覚えていた。
(……紗菜が気になる)
(昨日のあの表情……)
会議中にもかかわらず、怜司はスマホを取り出す。
紗菜からのメッセージは一つもない。
(おかしい……)
落ち着かない。
紗菜がどうしているのか、気になって仕方がない。
会議が終わるや否や、怜司は屋敷へ戻った。
*
ガチャッ――玄関を開けて叫ぶ。
「紗菜!!」
返事がない。
屋敷中を歩き回りながら叫ぶ。
「紗菜、どこだ!!」
使用人たちが不安そうに答える。
「……桜井様なら、先ほど……裏口から……」
怜司の心臓が止まりそうになった。
裏口?
――逃げるつもりだ。
その考えが脳を貫いた瞬間、怜司は駆け出していた。
長い廊下を走り抜け、庭へ飛び出す。
「紗菜!!どこだ!!」
焦りと恐怖で心が張り裂けそうだった。
声が掠れるほど叫びながら、屋敷の外を見渡す。
そのとき。
門の外へ向かう細い道。
スーツケースを引く、見慣れた後ろ姿が見えた。
「紗菜!!」
紗菜の足が止まる。
でも振り返らない。
怜司は全身で風を切るように走り出す。
「紗菜!!行くな!!」
その声に、紗菜の肩が震えた。
でも、それでも紗菜は振り返らない。
怜司が伸ばした手は、あと少しで紗菜の腕に届く距離まで近づいた。
「紗菜……!!」
その叫びが、夕焼けの空へ震えるように響いていた。
紗菜はしばらく動けなかった。
怜司の声は確かに震えていた。
「いなくなるなんて考えるな」
そのひと言だけで胸が張り裂けそうになる。
だけど、分かってしまった。
怜司は迷っている。
紗菜の気持ちに応えるのではなく、“どう接するべきか”で迷っているだけだ。
(……本当に、私を必要としているわけじゃない)
(怜司さんは優しいから……抱きしめてくれただけ)
それを理解した瞬間、胸の奥に小さな亀裂が走った。
怜司の腕の中は、あまりに温かくて。
だからこそ、終わりが怖くなる。
翌朝。
怜司は早朝から会議のため、屋敷を出た。
紗菜は窓辺に座り、怜司の車が門の外へ消えるのを見送った。
(……やっぱり、私……出ていこう)
昨夜怜司が「いなくなるな」と言ってくれたのは、優しさだ。
恋でも、愛でもない。
(これ以上期待したら……壊れてしまう)
紗菜は小さく息を吸い、クローゼットに手を伸ばした。
スーツケースを開く音。
服を畳む音。
震える指。
――それでも紗菜は荷物をまとめ続けた。
そこへ、舞が屋敷を訪れた。
不意に紗菜の部屋の扉が開く。
「あら……準備をしているのね」
紗菜は振り返れなかった。
「……舞さん。昨夜のこと、怜司さんに言いましたか?」
「言ったわよ。“紗菜さんが自分から身を引いたほうがいい”って」
(…………っ)
舞は穏やかな声で続けた。
「怜司さん、“そのほうが互いのためだ”って言っていたわ」
紗菜の手が止まる。
(怜司さんが……?)
舞は紗菜の心が折れる瞬間を見届けるように、言葉を落とした。
「あなたの気持ちに応えるつもりはないって。
優しいから拒絶はしないけど――
本気になるのは、あなたにとって良くないって」
“怜司さん”と“良くない”が胸の奥でひどくぶつかり合う。
(……そうだよね)
(優しいだけ……だったんだ)
舞は最後に微笑んだ。
「あなたが出ていくのは正しい選択よ、紗菜さん」
その言葉に、紗菜はもう何も返せなかった。
舞が去ったあと――紗菜は静かに部屋の鍵を閉めて泣いた。
怜司と過ごした部屋。
同じ庭を見た窓。
笑ってくれた顔。
呼んでくれた名前。
触れた温もり。
ひとつひとつが胸に刺さる。
(……でも、このまま残っていたら……
もっと傷つくことになる)
涙を袖で拭いながら、紗菜は最後の荷物をスーツケースにしまった。
そして――
机の上に、白い封筒を置いた。
怜司への手紙。
最後の気持ちを、たった数行だけ書き残したもの。
「……ありがとうございました……怜司さん……」
声に出すと、涙がまた溢れてくる。
紗菜はスーツケースを引き、屋敷の裏口に向かった。
正門を使えば誰かに見つかる。
裏口からなら、静かに消えられる。
庭を横切ったとき、
桜の木の下で怜司と見た朝の景色を思い出した。
「……怜司さんの隣に……いたかった……」
風に消されていく小さな声。
紗菜の足取りだけが静かに遠ざかっていく。
一方その頃――怜司は会議室で胸騒ぎを覚えていた。
(……紗菜が気になる)
(昨日のあの表情……)
会議中にもかかわらず、怜司はスマホを取り出す。
紗菜からのメッセージは一つもない。
(おかしい……)
落ち着かない。
紗菜がどうしているのか、気になって仕方がない。
会議が終わるや否や、怜司は屋敷へ戻った。
*
ガチャッ――玄関を開けて叫ぶ。
「紗菜!!」
返事がない。
屋敷中を歩き回りながら叫ぶ。
「紗菜、どこだ!!」
使用人たちが不安そうに答える。
「……桜井様なら、先ほど……裏口から……」
怜司の心臓が止まりそうになった。
裏口?
――逃げるつもりだ。
その考えが脳を貫いた瞬間、怜司は駆け出していた。
長い廊下を走り抜け、庭へ飛び出す。
「紗菜!!どこだ!!」
焦りと恐怖で心が張り裂けそうだった。
声が掠れるほど叫びながら、屋敷の外を見渡す。
そのとき。
門の外へ向かう細い道。
スーツケースを引く、見慣れた後ろ姿が見えた。
「紗菜!!」
紗菜の足が止まる。
でも振り返らない。
怜司は全身で風を切るように走り出す。
「紗菜!!行くな!!」
その声に、紗菜の肩が震えた。
でも、それでも紗菜は振り返らない。
怜司が伸ばした手は、あと少しで紗菜の腕に届く距離まで近づいた。
「紗菜……!!」
その叫びが、夕焼けの空へ震えるように響いていた。



