この世には、二種類の人間が存在する。

 ずばり、少女漫画の世界に住む者か否かだ。



***


 間違いなく、僕ーー山田真人(まさと)は後者だ。あんなキラキラした世界とは無縁の地味で冴えない奴がいきつく場所にいる。
 半袖の季節だというのに、たまに木枯らしが吹くのはそのせいだ。

 鬱陶しく伸びた前髪で目は隠れ、日光を浴びないから軟弱で陰気くさい。特定の友達もおらず、心の友は学校に住み着いているノラ猫だけ。

 ぼっち弁当を食べ終わり、残り時間は教室へ戻らず裏庭で暇を潰す。完全なる負け組。

 その点、クラスのアイドル的存在である百合園(ゆりぞの)六花(りっか)は、前者だ。誰がどう見ても美少女で、男女問わずモテる。
 色素の薄い髪に、長いまつ毛。目も星を散りばめたように輝きがあって、笑った顔が異常に可愛い。

 ほら、噂をすればなんとやら。
 いつもながらに花の香りを散りばめる百合園さんが、長い髪を揺らしながら歩いて来た。

 一人で昼飯を食べていたとバレるのがイヤだから、サッと校舎の陰に身を潜める。

 何かしてるぞ?
 百合園さんの前方に、誰かいる。あれはイケメンで有名な先輩、成瀬(なるせ)琉生(るい)だ。ちくしょう、名前からしてスカしてやがるな。
 彼らは同じ方向へ歩いていく。

 後をつけてるのか?
 まあ、呼び出されて告白。それから付き合うってのがオチだな。見え透いた未来。少女漫画に住む人間は羨ましいぜ。
 自分とは無縁な世界に住む彼女らに、ケッとため息を吐く。


 おっ、なにか来た。えっ、熊、クマ⁉︎

 成瀬先輩の後ろに、突如大きな黒い物体が現れた。推定158センチであろう百合園さんの身長を越している。
 いや、待て。ここは市内の学校だぞ!
 てかその前にどこから!

「トリャァァァーーッ!」

 ほどよく胸に響く重低音。
 あたふたしているうちに、百合園さんがシュッと飛び上がり、華麗な飛び蹴りでクマを一撃していた。
 スカートをふわりとなびかせ、着地。
 パンパンと手を(はた)き、ヒーロー並みのイケメン顔を見せている。

 あの、お淑やかでいかにもお嬢様な風貌の彼女が、だ! ものの数秒で。

「……マジか、強」

 そうか、彼女……こっち側の人だったのか。
 こっち側、いわゆる王道な少女漫画ではなく少年漫画のような展開になる人間のことだ。

 あちら側の登場人物であろう成瀬先輩は、全く気付くことなく校舎の角を曲がって行った。
 結構な雄叫びと衝撃音だったよな。あれはあれで、ある意味天才だ。
 気を取られていると、百合園さんがこちらを見ていることに気付いた。
 目が合ってしまった。なにやらこっちに向かって来るぞ?

 ヤバい、早く逃げなければ……。

「あの、山田くん」

「はっ、はぃ!」

 びくっと肩が跳ね上がり、思わず声が裏返る。授業で無鉄砲に当てられた時でさえ、こんな声は出ない。
 なんせ女子に話しかけられることなど、ほぼ皆無に近いのだ。それが、校内一の美少女と言われる百合園さんなのだから、只事ではない。

「今の、見てたよね?」
「いや……、あぁ……はぃ」

 ごまかしきれない状況だったので、潔く認めてしまった。
 さっきの豪快なキックが脳裏によみがえり、ごくりと喉が鳴る。
 もしかして、口封じと称して僕も撃退されるのか⁉︎
 どうする……。

「どうしたらいい?」
「……はぃ?」

 もじもじと手足をくねらせて、言いづらそうに視線を逸らしている。
 長いまつ毛が虚ろな表情を醸し出して、パッと僕の方を見た。

「どうしたら、この展開を変えられる?」
「……え?」
「わたしは胸キュンな少女漫画をしたいのに、気付くと悪を倒してたり、なぜかヒーロースイッチが入っちゃうの」

 ほんのりと紅潮した頬、小さく動く艶やかな唇。それとは似つかわしくない発言が、飛び蹴りの周りをウロチョロする。
 言っていることは理解出来なくもないが、
情報量が多すぎて頭がパンクしそうだ。

「ごめん、やっぱりちょっと意味がわか……」
「わたしには分かる。あなたは少女漫画の世界の人だって」

 どこをどうしてそうなった⁉︎
 あきらかに、恋愛とは無縁な場所にいる部類だろう!
 ぶるんぶるんと大きく首を振る僕にお構いなしで、百合園さんは意を決したように一歩前へ出る。

「恥ずかしくて、友達にも相談出来なくて。だから協力して欲しいの。わたしを、少女漫画の世界へ連れてって下さい」

 スッと差し出された白い手。ギュッと瞼を瞑る姿は、好青年の告白と通づるものがある。
 切実な気持ちは伝わってきた。でも、僕には彼女を導く知識も経験もない。

「……ぃや……だから」

 言いかけて、悪魔のささやきが聞こえてくる。これは、百合園さんに触れるチャンスなのでは⁉︎
 滅多に巡り会えないチャンスに、やましい心が負けてしまった。
 柔らかなそうな指にチョンと触れた瞬間、ボキボキボキッと手羽先の骨を折るような音がした。

「いっ、いってぇぇぇ!」

 握られた僕の手は、紙クズを丸めたかのように縮こまっている。片手で軽くリンゴを潰す勢いだ。それくらいの握力はあった。
 70キロ、最低でも60キロ。
 高2女子の平均は約26キロ。34以上で優れているに値される。僕に関しては、毎回30程度だぞ。一応、少し反動をつけて一気に力を入れてのそれだ。
 どう鍛えたら、そんなに強くなれるのか。

「あっ、ごめんね! 嬉しくて、つい力が入っちゃって」

 ついというレベルじゃないけど、あえて触れないでおこう。
 エヘッと美少女特権のキラキラしたエフェクトが効いているが、指の方が心配で今はそれどころではない。
 ゆっくりと開いて閉じてと動かせるから、骨に異常は無さそうだ。それにしても……すごかった。
 冷静に手の無事を確認したところで、百合園さんが礼儀正しくお辞儀をする。

「山田くん、ありがとねっ。これからよろしくお願いします」
「……あっ、はい……?」

 反射的に頭を下げて、浮かんだ疑問符が弾け飛ぶ。
 あれ、もしかして、これって承諾したことになっているのか?

「……あのっ!」

 慌てて顔面を上げると、はるか遠くで手を振る百合園六花が目に映った。
 どうやら足も速いらしい。もう豆粒で本人かさえ判断出来ない。

 飛んで火に入る夏の虫。
 どうやら僕は、彼女が少女漫画のヒロインになるため、ヒーロー役に抜擢されてしまったらしい。