「あ~また陽乃は休みかぁ。プリントがそろそろ溜まって来ているんだが……」
「先生、僕が陽乃さんの家まで届けます」
「お、さすが委員長の桂木(かつらぎ)! じゃあ頼んだぞ。他にも陽乃に渡すものがあるから、放課後、職員室に来てくれ」
「分かりました」
 ❀
 そんな会話があったとは知らない私、陽乃 一花(ひの いちか)は、今日も学校に行けず家でゴロゴロしていた。

「一花ー、夕方、絶対に洗濯物を取り込んでね? 今日は雨が降るらしいから」
「はーい。いってらっしゃーい」

 中学一年生の六月。ジメジメした梅雨の季節。湿気だらけの我が家だけど、やっぱり一人の時間はウキウキしてしまう。雨季だけに……なんてね。

「やっぱお家は最高だよ~もうずっとココにいる」

 夕方になったら晩御飯の材料を買ったお母さんが帰ってくる。それまでずっと一人。

「今日は何をしようかなぁ」

 ソファへ横になり、スマホを触る。だけどロック画面を外す直前――真っ暗な画面に、短い髪の自分がハッキリと写った。
「……最悪」

 眠くないけど何も考えたくなくて。目を閉じて、視界をシャットダウン。
 どうやらそのまま寝ちゃったみたい。中学校に入学したての頃の夢をみた。

『一花ちゃんって何でも出来て優しくて、本当に頼りになるよねぇ』
『この前、道で困っている人を助けたんでしょー?』
『迷子の子を交番まで連れて行ってあげたって話も聞いたよー』
『本当、一花ちゃんって、』
『ウザいくらい、いい子を気取っているよね』

 その時。物々しい過去から現代まで、一気に意識が戻る。

「はぁ、はぁ……悪夢だ……」

 気付けば大量の汗。服が、まるでプールに入ったみたいに肌へくっついている。ふき取るより着替えた方が速い。そう思って立ちあがる、その時だった。

「あ、どうも」
「……誰?」

 見ず知らずの男子が、我が家の洗濯物を取り込んでいた。短髪でメガネをかけた、いかにも真面目そうな男子。ん? どこかで見たことがあるような。

「雨が降ってきましたよ。洗濯物が濡れちゃいます。あなたも手伝ってください」
「雨……わ、本当だ。急がないと!」

 洗濯物を濡らしたら、お母さんになんて言われるか! サンダルを履いて外へ出る。よく知らない男子と洗濯物を取り入れるという、摩訶不思議な事態になってしまった。本当に、この人は誰だろう? 手は洗濯物へ、目は男子へ。すると切れ長の瞳と視線が合う。

「僕の顔が気になるのは分かりますが、今は洗濯物に集中してくれませんか?」
「すみません……ん?」

 僕の顔が気になる? 今、自分でそう言った?
 眉間にシワを寄せて悩む私の事はお構いなしなのか、男子は「これで全部ですね」と。躊躇なく部屋へ入っていく。もちろん私はポケットに入れたスマホへ手を伸ばす。

「け……警察!」
「そんな、いいですよ。たかが洗濯物を手伝ったくらいで、感謝状なんて」

 全くもって見当違いなことを言っている男子に、「不法侵入って知っていますか?」と言いながら警察の番号をプッシュ。だけど男の子は「不法侵入? 誰が?」と、自分が悪い事をしているとは微塵も思っていないらしい。そればかりか……。

「あなたの持っている洗濯物が濡れるので、早く中へ入ってください」
「えぇ……もう、分かりましたよ」

 男子もとい犯人を刺激しないよう、慎重に会話を進める。早く中へ入った方が身のためだ。だけど男子を横切った時、濡れた地面に足を滑らせる。

「おやおや一花さん、大丈夫ですか?」

 間一髪で腕を引かれ、地面との衝突を免れる。だけど安心できない。だって今、私の名前を呼んだよね?

「私のことを知っているの?」
「もちろん。だって僕、あなたと同じクラスですよ? クラス委員の桂木です」
「委員長⁉ 知らなかった!」

 正直に言うと、桂木委員長は、膝から崩れ落ちる。外で倒れると雨に濡れると踏んでのことなのか、家の中に入ったタイミングで。

「すみません、み、水を……っ」
「なんで倒れたの? しかも、なんで瀕死なの⁉」

 訳わからないまま水を渡すと、委員長はすごい勢いで飲み干した。

「はぁ~……すみません。生き返りました」
「どうして急に倒れたの?」
「一花さんが僕の事を知らないという事実にショックを隠せなくて……。危うく気を失うところでした」

 まさかのショック死寸前⁉ しかも「自分を知っていて当然」って認識なの⁉
 桂木くん、ポジティブだ。同じ人間かな?と疑っちゃうほど、ポジティブ人間だ。まるで宇宙人を目の前にしたように固まる私へ、桂木くんは「そうそう」と、自分のカバンを開ける。座り直した正座が直角で、まるで物差しで測ったよう。

「今日は、こちらのお品物をお届けに参りました。どうぞ」

 急に宅配のピザ屋みたいな話し方になった彼。握っているのは大きな袋。ひょいと中を覗くと、たくさんのプリントが雑に詰め込まれていた。
 ❀
 中に入って、黙々と洗濯物を畳む私と桂木くん。ちらりと彼を見てみると、私よりも丁寧に畳んでいる。柔らかそうなサラサラの髪。フレームがシルバーのメガネ。唇は薄くて、鼻が高い。足と手は長いけど、筋肉はなさそう。もしかしてメガネをとったら案外イケメン? そんなことを思っていると、桂木くんが「ちなみに明日は晴れます」と言った。何気に有難い情報だ。

「桂木くんって、色んなことを知ってそうだよね」
「そんなことないですよ。天気予報は、事前情報として必要だと思っただけです」
「事前情報? 明日、何か予定があるの?」

 まるで遠足を楽しみにしている子みたいだ。その割には仏頂面で、とてもウキウキしているようには見えないけど。すると桂木くんは「あります」と頷いた。

「明日は、というか明日から毎日、一花さんの家に行きます」
「……へ?」
「明日は洗濯物の心配をしなくて良さそうですね」

 珍しく笑ったかと思えば、桂木くんは洗濯物から視線を外した。黒い瞳が私を見ている。整った顔がちょっとカッコイイ、なんて思っちゃった。……だけど、待てよ。明日から毎日、桂木くんが来る? 何をしに⁉

「結構です!」と叫んで、桂木くんを無理やり立たせた。背中をグイグイ押して、原研へ。

「プリントを届けてくださり、どうもありがとうございました!」

 彼が靴に足を通したのを確認し、彼を外へ締め出す。もちろんカバンも忘れずに。

「これで、明日からは来ないでしょ」

 これだけ酷いことをされたら、誰だって来たくないと思うはず。一息ついて時計を見ると、お昼ぴったりの時間。学校、まだ終わってないよね?

「まさかサボってウチに来たの? なんで?」

 リビングへ戻って、彼が持ってきたプリントを見る。雑に詰め込まれていたと思っていたが、よく見ると、教科順、日にち順に並べられている。こんなこと、担任がするわけない(がさつな先生だと知っているから)。ということは、あの桂木くんが?

「よく分からない人だなぁ……」

 変人だけど、根は良い人なのかもしれない。締め出すなんて、申し訳ないことしちゃったな――そう思った私がひっくり返ったのは、お母さんが仕事から帰って来た、夕方の事。いつも「ただいまー」なのに、今日は何やら騒がしい。

「どうも、ごめんねぇ。わざわざウチに運んでもらっちゃってぇ」
「いえいえ、これも何かの縁ですので」

 この声って――悪い予感がして玄関まで急ぐ。衝撃な光景に、言葉を失った。

「おや、一花さん」
「そこで偶然、桂木くんに会ってね。買い物した荷物持ちを手伝ってくれたのよ~」
「か……桂木くんっ」

 さっき締め出したはずの桂木くんが、お母さんの横に立っている。なんで、どうして? 偶然に会ったって、絶対にウソでしょ!

「一花と同じクラスで、しかも委員長なんだって? お母さんビックリしちゃった~」
「僕も驚きました。どこの学生かと思いきや、まさか一花さんのお母様だったとは」
「やっだ~、もう! 褒め上手なんだから!」

 バシンと叩かれてふらつく桂木くん。だけど決して荷物は落とさず「キッチンまで運びますね」と、さっさと奥へ入ってしまった。慌てて後を追いかける。

「ちょっと! 絶対に〝偶然〟なんかじゃないよね?」
「はて、何のお話でしょうか」

「はて?」じゃないよ! 絶対、ウチの周りをウロウロしていたでしょ! ということは、私が家を追い出してから、ずっとウチの周りにいたって事⁉ 恐怖でワナワナ震えていると、後からお母さんが入って来る。

「それにしてもスゴイ雨ねぇ。いつ止むのかしら。あ、一花。洗濯物は無事?」
「無事、だけど……」

 そういえば桂木くんに会った時から降り始めたんだっけ。でも私、桂木くんを外に……。

「か、桂木くん!」
「どうされました? また僕の顔に釘付けですか? 飽きないですね」
「なに冗談を言っているの! ずぶ濡れじゃない!」

 よく見ると、彼は確かに濡れていた。誤魔化していたらしく、パッと見では気づかない。お母さんも「あら大変」と、やっと気づいたようだ。慌てて持って来たタオルを渡すと、互いに手をかすめる。ビックリして、思わず握り直した。

「冷たすぎるよ、まるで氷じゃん!」

「タダで僕の手を触ろうなんて、やれやれですね」と、よく分からないことを言っている。このまま風邪をひかすと、もっとよく分からないことを言いそうで怖い。

「ねぇお母さん。桂木くんに、お風呂へ入ってもらっていい?」
「もちろん」
「……ん、ありがとう」

 お母さんにお礼を言って、桂木くんとバスルームへ行く。ドアを開けて「どうぞ」と入浴を促した。といっても、一筋縄ではいかないのが桂木くんだ。

「僕の入浴シーンに、いくらの価値があるとお思いで? シャワーを出したその瞬間から、カビも薔薇に変わりますよ?」
「わかったから、早く入って」

 本当のところは何も分かっていないのだけど。だけど早く温もってほしくて、彼を浴室へ放り込む。

「桂木くんが入ってる間に、コンビニでメンズの下着とか買ってくる。絶対に風邪をひかないでね。絶対だよ?」

 すると中から「あの」と、反響した声。何を言われるのだろうかと、構えると……

「一花さんもそうですが、一花さんのお母さんも優しいですね」
「優しい?」
「一花さんの母親が、あの方で良かったと思いました。家の中では、一花さんのいる場所は温かいんですね」
「……うん」

 桂木くんの人を見る目って侮れない。私が思っていることを、ズバリ言い当てちゃった。

「お母さんは、私を責めないんだ」

 初めて学校を拒否した、あの日も――

『一花、学校は? 行かないの?』
『……行きたくない』

 何を甘えた事を言っているのって、呆れたかな? だけどお母さんはこう言った。

『じゃあ一花、これを貸してあげる』

 お母さんが持って来たのは、大量のアニメのDVD。しかもボックス。私に渡しながら、お母さんはウィンクをした。

『お母さんの青春を貸してあげる。昔はオタクでね、私の青春は、アニメそのものよ』
『言い切っちゃうんだね……』

 苦笑を浮かべた私に、お母さんは私の手を握る。

『青春には色んな形がある。一花の思った形で、あなたなりの思い出を作りなさい』

 驚いて目が点になる私に、またもやお母さんはウィンク。

『お母さんの願いは、大事な娘の心と体。その両方が元気である事だからね!』
『うん……っ』

 思わず泣きそうになってDVDを抱きしめる。だけどお母さんは目の色を変えて、私に渡したDVDを奪い返した。

『大事にしてね⁉ お母さんの宝物だからね⁉ プレミアだから、もう売ってないからね? 壊れたらおしまいだからね⁉』
『……ぷっ』

 血走った目で〝青春〟を守るお母さんを見て、みっともないなって思った。だけど私も、そんなみっともない青春を過ごしていいんだと思ったら、心が楽になった。

『お母さん、オタクが出てるよ?』
『はッ! ごめんね、我を忘れていたわ……でもさ、お母さん、なんか楽しそうでしょ? 青春なんて、そんなもんよ。自分が楽しめたら、それでいいの』

 楽しんだもん勝ちだから――その言葉を、今もハッキリと覚えている。それが私の心の支えになっている。そんな心の深い部分にある気持ちを、桂木くんは感じ取ったのかな?

「お母さんは私を責めない。優しすぎるんだよね」

 お母さんは、私が登校しない理由を深く聞かない。だけど無関心というわけではなくて、常に家で私の居場所を作ってくれる。それが嬉しい。だけど同時にうしろめたさもある。

「いつか学校に行って、お母さんを喜ばせてあげたいな」

 いつまでも甘えて居ちゃダメって、分かってはいるんだけど――ままならない自分自身にため息をついた。その時だった。

「あの、いつまでそこにいるのですか? いくら僕のファンだからって」
「桂木くんのファンになった事は一度もないので、ご安心を」

 一気に頭が冷えた。お母さんに一言告げて、夕方のコンビニへ自転車を飛ばす。もちろんメンズの物を買うのは初めて。レジに並ぶのが恥ずかしかった!

「なんで私が変人桂木くんのために、ここまでしないといけないのー!」

 半泣きで自転車をこぎ家へ帰る。すると、とんでもない光景が目に飛び込んできた。

「お母さん。この唐揚げは、どちらのシェフがお作りに?」
「あら~桂木くんってば!」

 桂木くんが、普通に制服を着て、普通にご飯を食べている。ここ私の家だよね? ってか下着はどうしたの⁉ もしかして履いてないの⁉ 凝視していると、彼と視線が合う。

「はぁ、一花さん。いくら僕のファンだからって限度がありますよ。パンツはちゃんと履いています。着替えは一式持ち歩くタイプなのですよ、僕」
「それならそうと言ってよ! わざわざ買いに行く必要なかったじゃん!」
「予備はいくらあっても嬉しいので、ありがたく頂きます」

 言いながら、白米をパクリ。そんなドタバタの晩御飯を終えて、とうとう桂木くんが帰(ってくれ)る時間になった。だけど困ったことに「こんな感じで明日も来ます」なんて言うから、倒れそうになる。こんな忙しい日は、今日限りで充分だ。

「もう来なくて結構です」
「そうはいきません。僕は学級委員ですから」

 もしかして桂木くん、私が休み続ける限り家に来る気? 一日でこんなに疲れるのに⁉

「あ……」

 その時、一つの突破口を見つける。私が学校を休まなければ、桂木くんは家に来ない――それなら道は一つしかない。

「やっぱり桂木くん、明日来ないで」
「嫌ですよ。僕はプリントを持って来ます」
「いや、そうじゃなくて……」

 首をひねる桂木くんを前に、握りこぶしに力を入れる。もちろん彼に危害を加えるためじゃなく、自分へ喝をいれるために。

「明日、学校に行くから……だからもう、ウチには来なくていい……です」
「え? 明日? 学校に? 行くのですか?」
「い、行く! だから疑問符のオンパレードやめてよ!」
「いえ、ビックリしたものですから」

 それもそうか。だって四月の頭から六月の今まで、二か月まるまる欠席した。そんな私が登校なんて、「なんで?」って思うよね。

「お母さんさ、今日すごく嬉しそうだった。桂木くんから学校の話を聞いたからだと思う。お母さんは学校の事、いつも何も言ってこないけど……青春はどんな形でもいいからって言うけど……。でも本心は、私に学校生活を楽しんでもらいたいって。そう思っているのが分かった。だから私、頑張ってみる。期待に応えてみたいんだ」

 意を決して言うと、桂木くんが私の手を取った。

「分かりました。では明日、八時にここで集合ですね。迎えに来ます、下着のお詫びに」
「いや、ごめんなさい。やっぱり学校に行きません。訂正します」

 急いで取り下げたけど、桂木くんは「一花さんが出てくるまでずっとピンポン押しますね」と言うものだから行かざるを得ない。何でこの人、捕まらないんだろう……。

「委員長だからって、そこまでしなくていいよ。下着も……私が早合点で買った事だから」
「いえ、〝違う〟んです」

 何が? 不思議がる私を一瞥した桂木くんは、急に回れ右をした。どうやら帰るらしい。

「桂木くん待って! 何が〝違う〟のー⁉」

 静かな住宅街に木霊するばかり。ついに振り向いてくれなかった桂木くんは、こっちを見ないままヒラヒラと手を振った。なんだかカッコつけに見えて、笑ってしまう。

「変な人だなぁ」

 だけど、桂木くんがいる教室になら入れそうな気がする! 意気込んだ私は夜たっぷり眠る。そしてついに、登校の朝を迎えた。
 震える手でドアを開けると案の定、スラリと背を伸ばして立つ桂木くんの姿。

「おはようございます、一花さん」
「おはようございませんでした……」

 早々に、心が折れそうになる。一緒に行くって、本当だったんだ。

「お母様は? もうお仕事ですか?」
「うん。私が制服を着たら、すごくビックリしていた。ギリギリまで〝会社を休む〟って言ったんだけど……」

 その先を話さないでいると、桂木くんは首を傾げる。私は渋々、先を話した。

『久しぶりの学校なのに一花ひとりじゃ心配よ』
『一人じゃない。たぶん桂木くんがいる』

 するとお母さんは目の色を変えた。

『桂木くんが来てくれるの? じゃあ安心ね! いってきます~』

「会社を休む」とまで言ったお母さんは、私の背中をポンと叩き、いつも通り出社した。不登校だった娘の新しい一歩だというのに、いつも通り過ぎる。呆気なく寂しい。だけど再び玄関が開く。お母さんだ。目に光る物をため、優しく私を抱きしめる。

『よく決心したね、一花。一歩ずつでいいんだよ。一花の行ける所まで、少しずつ。ね?』
『……うん、ありがとう。お母さん』

 お母さんは何だかんだ言って、こうやって私の頑張りを知って、褒めてくれる。だから私も、それに応えたい。例え桂木くんと登校することになったとしても、逃げずに――
全て話し終えると、桂木くんは口に弧を引いた。

「やっぱり優しくていいお母さんですね」
「……うん。そうだね」

 笑顔で返事をすると、桂木くんは「任せてください」と、自分の胸をドンと叩いた。

「お母さんから大役を賜ったので、一花さんはレッドカーペットを歩く気分で、堂々と登校してください」

 遠慮させてください――とは声にならなかった。なぜなら全身が震え始めたから。家を出たばかりなのに、もう怯えちゃっている。こんなんで本当に登校できるの?
 だんだんと不安になっていく。その時だった。

「では行きますか。さあ、お手をどうぞ」
「お、お手……?」

 返事は、ワン? いぶかしげに彼を見ると、整った眉が変にゆがむ。

「どうして握り返さないんですか? 僕と手を握れるなんて十億の宝くじが当たるより凄いことですよ?」
「ん?」
「今にも倒れそうな千鳥足で、華麗な僕の隣を歩かれるのは嫌……ではなく、心配なので。大人しく僕に手を引かれて歩いてください」
「今、嫌って……」
「空耳です」

 ここで拒否しても面倒くさそうだ。それに誰かに引っ張ってもらう方が歩きやすい。
 桂木くんの手を握る。昨日より高い彼の体温が、冷えた私の手を温める。その温もりに安堵の息を吐いた私を見て、桂木くんは雲一つない空を仰ぎ見る。

「梅雨だというのに、今日は快晴ですね。暑くなりますよ」
「ん……そうだね」

 桂木くんを真似て空を見る。眩しいほどギラつく太陽が私たちを見下ろしている。隣で桂木くんが「へっくしゅ!」。太陽を見るとクシャミが出る人って、本当にいるんだ。
 昨日から桂木くんと言う人物を知れているような。同時に、謎が深まっていくような――そうだ、「謎」で思い出した。

「桂木くん。昨日、何を言いかけたの?」
「え?」
「ほら、ウチから帰る直前に、」

――委員長だからって、そこまでしなくていいよ
――いえ、違うんです

「……あ~」

桂木くんはしばらく黙っていた。だけど歩きながら、ポツリポツリと話し始める。

「僕、目安箱を設置したのですよ。学校の玄関の出入り口と、校長室の横に」
「目安箱? なんの?」
「学校に何か不満はないかって。そういう意見を聞こうと思って」
「その内容の目安箱を、よく校長室の横に置けたね」

 さすが桂木くん、怖い物なし。どころか「最初は全く投書がなくて」と不満げだ。

「でもある日、一枚の紙が入っていまして。そこに書かれていたのですよ。
 陽乃一花さんが揃った一年一組が見たい――と」
「え?」

 つまり「私の不登校を解消したい」と願っている人がいる? そして桂木くんは、その命に従って動いている?

「だから桂木くんは、私に世話を焼いてくれるの?」
「目安箱を設置したのは僕ですしね。それに僕も一花さんが気になっていたんです」
「学級委員だから?」

 桂木くんは「まさか」と首を横へ振る。

「別に学級委員だから、ではないですよ」
「うそだね。じゃないと、ここまでする理由がないよ。正義感が強い委員長さん」

  その時、昨日の食卓を思い出す。そういえば、あの時も彼はウソをついていた。

「昨日、私がコンビニから帰った時。桂木くんは〝唐揚げ美味しい〟って言ったけど……」

――お母さん。この唐揚げは、どちらのシェフがお作りに?

「昨日ウチのご飯に唐揚げはなかったよ。あれは咄嗟についたウソなんでしょ?」
「……そうですね」

 桂木くんは、通りがかった公園に咲くアジサイを見る。紫やピンクのアジサイが、元気いっぱいに花を咲かせていた。それを見ながら、桂木くんはある事を提案する。

「ここでお昼を食べましょうか」
「へ?」

 疑問符だらけの私を置き去りにして、さっさと公園に入る桂木くん。どうやってカバンに入れていたんだろうって思うほど大きいビニールシートを、優雅に広げた。「どうぞ」と、私の手を引きながら。

「昨日の雨で出来た水たまりは、この暑さで干上がっています。だから大丈夫ですよ」
「へぇ~じゃなくて。なんでお昼ご飯? 私は学校に行きたいんだけど……」

 だけど遠くから懐かしい音が響く。学校のチャイムだ。時計を見ると十二時ちょうど。さっき家を出たばかりなのに――不思議に思ってスマホを見る。だけど、こっちも十二時ぴったり。どうやら間違いではないみたい。

「なんで、もうお昼⁉」
「一花さん、大声は迷惑行為になるので謹んでくださいね」
「昨日、ウチに不法侵入した人に言われたくないよ!」

 不法侵入? と首をひねる桂木くんのことはさておき。
 どうやら私は登校する意気込みはあったけど、やっぱり久しぶりの学校に、足取りが重く亀の歩みだったらしい。だから家と学校の中間地点にある公園に、お昼になってやっとたどり着いた、というわけだ。
 じゃあ四時間くらい外にいたって事? 顔の横に流れるいくつもの汗が、それを証明するように流れ落ちる。桂木くんも同じだ。

「か、桂木くん……ありがとう」
「ふ、いえいえ」

 桂木くんは文句を言うどころか「疲れたでしょう?」と、これまたどこから出したか分からない三段重ねのお弁当箱をシート上に出した。

「お弁当は、僕オリジナルです。その辺の三ツ星レストランより美味しいですよ。味は知りませんが、愛は詰め込みましたからね。どうぞ召し上がってください」
「……ふふ、本当。変な人」

 桂木くんは、どうしようもない変な人だ。だけど他者に対して、変な愛し方も備えていると思う。間違った距離の詰め方をしているというか。

「桂木くん、ここまでしてくれるのは嬉しいけど……授業に出なくていいの? 学校から家に連絡がいったら、ご両親ビックリされるよ?」

 すると桂木くんは一瞬だけ止まった。だけど「僕の両親は共働きですから」と、何事もなかったように話し続ける。いや、会社にも電話かかると思うけど……。

「そんなに僕を心配するなんて、やっぱり一花さんは僕のファンなんですねぇ」
「はい、この話は終わりー」

 用意してくれたビニールシートに飛び乗る。紙皿に割りばしまであって、本当にピクニックみたい。でも給食が出るのに、なんでわざわざ用意したんだろう?

「今日、私が学校にたどり着けないって、桂木くんは分かっていたの?」
「僕がお弁当を食べたい気分だっただけです。あとは、一花さんに話したいこともありまして」

そう言って桂木くんは柔らかい笑みを私に向けた。