意識が浮上する。
最初に感じたのは、「熱」だった。
全身が、柔らかく温かい何かに包まれている。重力がないかのように体が軽い。
『再起動。システムチェック……エラー。環境データが一致しません』
ルミエールは、ゆっくりと瞼を持ち上げた。
視界に飛び込んできたのは、知らない天井だった。太い梁が通った、重厚な石造りの天井。
暖炉で薪が爆ぜるパチパチという音。
そして、鼻腔をくすぐる、甘く濃厚なスープの香り。
ルミは、反射的に身構えた。
——どこ?
——私は、雪の中で死んだはず。
彼女は上体を起こそうとした。だが、身体が沈み込む。
寝かされていたのは、最高級の羽毛布団の上だった。肌触りの良いリネンのシーツが、彼女の痩せた手足を優しく包んでいる。
「……っ」
ルミは、恐怖で息を呑んだ。
快適すぎる。
ヴァーミリオン家の冷たい屋敷でも、護送馬車の中でも、こんな「心地よさ」は経験したことがない。
未知の環境。それは即ち、未知の脅威だ。
『警戒レベル、最大。周囲を索敵』
ルミが視線を巡らせると、ベッドの脇にある椅子に、巨大な影が座っていることに気づいた。
男だ。
褐色の肌に、琥珀色の瞳。彫刻のように整った顔立ちだが、その体躯は岩のように大きく、分厚い筋肉が服の上からでも分かる。
森でルミを拾った男だ。
男は、ルミが目覚めたことに気づくと、本を閉じて身を乗り出した。
「……気がついたか」
低く、腹に響く声。
ルミは、布団を握りしめて後ずさった。
殺される。あるいは、もっと酷いことをされる。
これだけ恵まれた体格の男だ。暴力など造作もないだろう。
ルミは、即座にスキルを発動させようとした。
男から放たれるであろう「悪意」や「加虐心」を吸収し、防御のための魔力に変えるために。
『対象スキャン開始。……悪意濃度、測定』
しかし。
『……測定不能』
『悪意、ゼロ』
ルミは、自分の感覚を疑った。
ない。
この男からは、針の先ほどの悪意も、蔑みも、欲望も感じられない。
あるのは、暖炉の火のように揺らめく、純粋で強烈な「安堵」と「心配」だけ。
「よかった……本当によかった。三日間、高熱が下がらなくて、もう駄目かと思った」
男は、ルミの額に、そっと大きな手を当てた。
その手は、火傷しそうなほど熱く、そして驚くほど優しかった。
「熱は下がったな。……怖がらなくていい。ここは俺の屋敷だ。君を傷つける者は誰もいない」
傷つける者はいない。
その言葉が、ルミには理解できなかった。
人間とは、他者を傷つける生き物だ。特に、自分のような無価値な存在に対しては。
『エラー。データ不整合。この個体は、異常(バグ)だ』
ルミは、混乱の中で、ただ男の琥珀色の瞳を見つめ返すことしかできなかった。
コンコン、と控えめなノックの音がして、扉が開いた。
「失礼します、旦那様。お目覚めになられたと聞いて」
入ってきたのは、ふくよかな初老の女性だった。清潔なエプロンをつけ、手には湯気の立つトレーを持っている。
「あらまあ! よかったわぁ、本当によかった!」
女性――メイド長のロザリーは、ルミを見るなり、涙ぐんで駆け寄ってきた。
「こんなに痩せて……可哀想に。さあ、温かいスープを持ってきましたよ。まずは一口、召し上がって」
差し出されたのは、野菜と肉がとろとろになるまで煮込まれた、クリーム色のポタージュだった。
ルミは、スプーンを見つめた。
——毒が入っているかもしれない。
——あるいは、腐っているかもしれない。
彼女の経験則では、「他人が差し出す食事」とは、そういうものだった。
ルミが躊躇していると、男――テオドール(テオ)が、察したようにスプーンを手に取った。
「毒見が必要か? ……そうだな、知らない場所だ、警戒して当然だ」
テオは、スープを一口すくい、自分の口に運んだ。
「ん、美味い。ロザリーのスープは世界一だ。……ほら、大丈夫だ」
彼は、新しいスプーンでスープをすくい、ルミの口元に差し出した。
「あーん、してごらん」
大の男が、幼児にするような仕草で。
ルミは、拒否する気力もなく、口を開けた。
温かい液体が、口の中に広がる。
野菜の甘み。肉の旨み。ミルクのコク。
それは、ルミがこれまでの人生で食べたどんな料理よりも、「物理的に」美味しかった。
だが。
『魔力摂取量:ゼロ』
ルミの魂は、満たされなかった。
このスープには、「悪意」というスパイスが入っていない。
ただの、愛情のこもった料理。
それは、ルミの肉体を満たしても、彼女の枯渇した魔力回路(=生命線)を満たすことはできない。
ルミは、機械的にスープを飲み込んだ。
「……美味しい?」
ロザリーが、期待に満ちた目で聞いてくる。
ルミは、正解を探した。ここで「味がしない(魔力がない)」と言えば、彼らは怒り、悪意を向けてくれるかもしれない。
「……はい。美味しい、です」
ルミが答えると、ロザリーとテオは、顔を見合わせて破顔した。
「よかった! おかわりもあるからね!」
「ああ、たくさん食べて、早く元気になれ」
二人の笑顔。
そこから放たれる、眩いばかりの「善意」のオーラ。
それが、ルミには苦しかった。
直視できないほど眩しく、そして、空虚な胃袋を刺激する。
——悪意をください。
——私を罵って。私を蔑んで。
——そうじゃないと、私は……。
食事が終わり、ロザリーが下がると、部屋には再びテオと二人きりになった。
テオは、椅子に座り直し、真剣な表情でルミに向き直った。
「改めて自己紹介しよう。俺はテオドール・ド・サン・トワール。このブランネージュ領を預かる辺境伯だ」
辺境伯。
ルミは、知識としてそれを知っていた。王国の北方を守る、武門の最高位。
「君の名前は?」
「……ルミエール・ヴァーミリオンです」
「ヴァーミリオン……王都の伯爵家か」
テオの眉がぴくりと動いた。だが、そこに浮かんだのは、ルミへの軽蔑ではなく、彼女を追放した家への「怒り」だった。
「あんな森の中に、子供を一人で捨てるなど……正気の沙汰じゃない」
テオは、拳を握りしめた。
「ルミエール。君は、もうあんな家に戻らなくていい。ここが君の家だ」
彼は、ルミの目をまっすぐに見て言った。
「俺が君を守る。衣食住の心配はいらない。君はただ、ここで笑って暮らせばいいんだ」
完璧な提案。
夢のような救済。
だが、その言葉を聞いた瞬間、ルミの心臓が早鐘を打った。
ドクン。ドクン。
冷や汗が噴き出す。指先が震え始める。
——ここには、悪意がない。
——この人は、私を虐げない。
——使用人たちも、私を優しく扱う。
それはつまり、「食料がない」ということだ。
ルミの【悪意変換】スキルは、悪意を魔力に変えて生命活動を維持している。彼女の魔力回路は、生まれつき欠損しており、自力で魔力を生成できない。他者の悪意を燃料にしなければ、心臓さえ動かせない体質なのだ。
王都は、悪意に満ちていた。だから生きていけた。
でも、ここは?
ここは、「善意」しかない。
善意は、ルミにとって毒ではないが、栄養にもならない。
このままでは、飢え死にする。
物理的に満たされても、魂が干からびて死ぬ。
恐怖。
死への恐怖ではない。「何も食べられない」という、生物としての根源的な飢餓感。
「……っ、はぁ、はぁ……」
ルミは、胸を押さえて過呼吸になった。
「ルミエール!? どうした、苦しいのか!?」
テオが慌てて駆け寄る。
ルミは、テオの袖を掴んだ。
「お、お願い……します……」
ルミは、必死に訴えた。
「私を……殴ってください……」
「は……?」
テオが凍りつく。
「罵ってください……役立たずと、ゴミだと……言ってください……」
ルミの瞳は、焦点が合わず、虚空を彷徨っていた。
「悪意を……私に、悪意をください……お腹が、空いて……死んでしまう……」
それは、狂人の戯言にしか聞こえなかっただろう。
だが、ルミにとっては、生存をかけた切実な懇願だった。
テオは、ルミの言葉の意味を理解できなかった。だが、彼女が極限状態にあることだけは分かった。
彼は、ルミの細い身体を、強く抱きしめた。
「馬鹿なことを言うな!」
テオの怒鳴り声。
ルミは一瞬、期待した。怒り? 悪意?
だが、抱きしめられた身体から伝わってくるのは、やはり、煮えたぎるような「慈愛」と「悲痛」だった。
「誰が君にそんなことを教え込んだ! 殴られなければ生きられないなんて……そんなことがあってたまるか!」
テオの声が震えている。
「君は、大切にされるべきだ。愛されるべきだ。俺が……俺が証明してみせる!」
温かい。
熱い。
テオの体温と、彼の魂から溢れる善意の奔流が、ルミを飲み込む。
それは、ルミにとって「温かすぎる地獄」だった。
心地よいのに、満たされない。
幸せなのに、死に近づいていく。
ルミの意識が、再び遠のいていく。
——ああ、この人は、本当にバグだ。
——私を殺す気か。こんなに、優しい毒で。
ルミが再び目を覚ましたのは、深夜だった。
部屋は薄暗く、暖炉の火だけが小さく燃えている。
テオは、ベッドの脇で椅子に座ったまま、眠っていた。その顔には、深い疲労の色が見える。
ルミは、身体を起こそうとした。
重い。
魔力欠乏の症状が出始めている。指先が痺れ、視界が明滅する。
——逃げなきゃ。
——ここから出て、誰か私を憎んでくれる人を探さないと。
そう思った時だった。
ベッドの足元で、何かが動いた。
白い、ふわふわした毛玉のようなもの。
子犬? いや、違う。
それは、ルミの顔の横までよじ登ってくると、つぶらな青い瞳でルミを見つめた。
「……きゅ?」
小さな鳴き声。
ルミは、その生き物を見つめた。
『解析。……聖獣の幼体。高濃度の魔力反応』
聖獣。伝説上の生き物だ。なぜこんなところに。
その生き物――パフは、鼻をひくひくとさせ、ルミのポケットに顔を突っ込んだ。
そこには、王都を出る時に生成した、ミエルの「殺意の紅玉(ルビー)」の欠片が、わずかに残っていた。
パフは、それを器用に取り出すと、カリカリと音を立てて食べた。
「……!」
ルミは驚いた。
それは、猛毒の塊だ。普通の生き物が食べれば即死する。
だが、パフは美味しそうにそれを飲み込むと、満足げに「きゅぅ〜」と鳴いた。
そして、ルミの頬を、ざらついた舌で舐めた。
その瞬間。
パフの身体から、微量だが、純粋な魔力がルミへと流れ込んできた。
それは「悪意」ではなかった。
だが、「悪意を消化した後に排出される、浄化された魔力」だった。
ルミの身体が、わずかに軽くなる。
「……あなたが、くれたの?」
ルミが問うと、パフは嬉しそうに尻尾を振った。
この生き物は、ルミと同じだ。
「毒」を食べて生きている。
ルミは、震える手で、パフの白い毛並みを撫でた。
温かい。
テオの温かさは怖かったけれど、この子の温かさは、どこか懐かしい。
「……名前は?」
「きゅ!」
「……パフ。パフって呼ぶわ」
ルミは、パフを抱きしめた。
この屋敷には、悪意がない。
でも、この子がいてくれれば。
私が作った「お菓子(悪意の結晶)」をこの子が食べ、その魔力を私に分けてくれれば。
なんとか、生きていけるかもしれない。
それは、細い細い、蜘蛛の糸のような希望だった。
翌朝。
目を覚ましたテオは、ルミがパフを抱いて眠っているのを見て、安堵の息をついた。
「聖獣が懐くなんて……やはり、君は特別な子なんだな」
テオは、ルミの寝顔を見つめ、改めて誓った。
昨夜の、彼女の錯乱した言葉。
『殴ってください』
その言葉の裏に、どれほどの地獄があったのか。
テオは、眠るルミの銀髪を、そっと撫でた。
「約束する。君が『殴ってくれ』なんて二度と言わなくて済むように。俺が、君の世界を愛で埋め尽くしてやる」
その誓いが、ルミにとってどれほどの「試練」になるかも知らずに。
無骨な騎士の、不器用で、重すぎる溺愛の日々が、ここから始まろうとしていた。
最初に感じたのは、「熱」だった。
全身が、柔らかく温かい何かに包まれている。重力がないかのように体が軽い。
『再起動。システムチェック……エラー。環境データが一致しません』
ルミエールは、ゆっくりと瞼を持ち上げた。
視界に飛び込んできたのは、知らない天井だった。太い梁が通った、重厚な石造りの天井。
暖炉で薪が爆ぜるパチパチという音。
そして、鼻腔をくすぐる、甘く濃厚なスープの香り。
ルミは、反射的に身構えた。
——どこ?
——私は、雪の中で死んだはず。
彼女は上体を起こそうとした。だが、身体が沈み込む。
寝かされていたのは、最高級の羽毛布団の上だった。肌触りの良いリネンのシーツが、彼女の痩せた手足を優しく包んでいる。
「……っ」
ルミは、恐怖で息を呑んだ。
快適すぎる。
ヴァーミリオン家の冷たい屋敷でも、護送馬車の中でも、こんな「心地よさ」は経験したことがない。
未知の環境。それは即ち、未知の脅威だ。
『警戒レベル、最大。周囲を索敵』
ルミが視線を巡らせると、ベッドの脇にある椅子に、巨大な影が座っていることに気づいた。
男だ。
褐色の肌に、琥珀色の瞳。彫刻のように整った顔立ちだが、その体躯は岩のように大きく、分厚い筋肉が服の上からでも分かる。
森でルミを拾った男だ。
男は、ルミが目覚めたことに気づくと、本を閉じて身を乗り出した。
「……気がついたか」
低く、腹に響く声。
ルミは、布団を握りしめて後ずさった。
殺される。あるいは、もっと酷いことをされる。
これだけ恵まれた体格の男だ。暴力など造作もないだろう。
ルミは、即座にスキルを発動させようとした。
男から放たれるであろう「悪意」や「加虐心」を吸収し、防御のための魔力に変えるために。
『対象スキャン開始。……悪意濃度、測定』
しかし。
『……測定不能』
『悪意、ゼロ』
ルミは、自分の感覚を疑った。
ない。
この男からは、針の先ほどの悪意も、蔑みも、欲望も感じられない。
あるのは、暖炉の火のように揺らめく、純粋で強烈な「安堵」と「心配」だけ。
「よかった……本当によかった。三日間、高熱が下がらなくて、もう駄目かと思った」
男は、ルミの額に、そっと大きな手を当てた。
その手は、火傷しそうなほど熱く、そして驚くほど優しかった。
「熱は下がったな。……怖がらなくていい。ここは俺の屋敷だ。君を傷つける者は誰もいない」
傷つける者はいない。
その言葉が、ルミには理解できなかった。
人間とは、他者を傷つける生き物だ。特に、自分のような無価値な存在に対しては。
『エラー。データ不整合。この個体は、異常(バグ)だ』
ルミは、混乱の中で、ただ男の琥珀色の瞳を見つめ返すことしかできなかった。
コンコン、と控えめなノックの音がして、扉が開いた。
「失礼します、旦那様。お目覚めになられたと聞いて」
入ってきたのは、ふくよかな初老の女性だった。清潔なエプロンをつけ、手には湯気の立つトレーを持っている。
「あらまあ! よかったわぁ、本当によかった!」
女性――メイド長のロザリーは、ルミを見るなり、涙ぐんで駆け寄ってきた。
「こんなに痩せて……可哀想に。さあ、温かいスープを持ってきましたよ。まずは一口、召し上がって」
差し出されたのは、野菜と肉がとろとろになるまで煮込まれた、クリーム色のポタージュだった。
ルミは、スプーンを見つめた。
——毒が入っているかもしれない。
——あるいは、腐っているかもしれない。
彼女の経験則では、「他人が差し出す食事」とは、そういうものだった。
ルミが躊躇していると、男――テオドール(テオ)が、察したようにスプーンを手に取った。
「毒見が必要か? ……そうだな、知らない場所だ、警戒して当然だ」
テオは、スープを一口すくい、自分の口に運んだ。
「ん、美味い。ロザリーのスープは世界一だ。……ほら、大丈夫だ」
彼は、新しいスプーンでスープをすくい、ルミの口元に差し出した。
「あーん、してごらん」
大の男が、幼児にするような仕草で。
ルミは、拒否する気力もなく、口を開けた。
温かい液体が、口の中に広がる。
野菜の甘み。肉の旨み。ミルクのコク。
それは、ルミがこれまでの人生で食べたどんな料理よりも、「物理的に」美味しかった。
だが。
『魔力摂取量:ゼロ』
ルミの魂は、満たされなかった。
このスープには、「悪意」というスパイスが入っていない。
ただの、愛情のこもった料理。
それは、ルミの肉体を満たしても、彼女の枯渇した魔力回路(=生命線)を満たすことはできない。
ルミは、機械的にスープを飲み込んだ。
「……美味しい?」
ロザリーが、期待に満ちた目で聞いてくる。
ルミは、正解を探した。ここで「味がしない(魔力がない)」と言えば、彼らは怒り、悪意を向けてくれるかもしれない。
「……はい。美味しい、です」
ルミが答えると、ロザリーとテオは、顔を見合わせて破顔した。
「よかった! おかわりもあるからね!」
「ああ、たくさん食べて、早く元気になれ」
二人の笑顔。
そこから放たれる、眩いばかりの「善意」のオーラ。
それが、ルミには苦しかった。
直視できないほど眩しく、そして、空虚な胃袋を刺激する。
——悪意をください。
——私を罵って。私を蔑んで。
——そうじゃないと、私は……。
食事が終わり、ロザリーが下がると、部屋には再びテオと二人きりになった。
テオは、椅子に座り直し、真剣な表情でルミに向き直った。
「改めて自己紹介しよう。俺はテオドール・ド・サン・トワール。このブランネージュ領を預かる辺境伯だ」
辺境伯。
ルミは、知識としてそれを知っていた。王国の北方を守る、武門の最高位。
「君の名前は?」
「……ルミエール・ヴァーミリオンです」
「ヴァーミリオン……王都の伯爵家か」
テオの眉がぴくりと動いた。だが、そこに浮かんだのは、ルミへの軽蔑ではなく、彼女を追放した家への「怒り」だった。
「あんな森の中に、子供を一人で捨てるなど……正気の沙汰じゃない」
テオは、拳を握りしめた。
「ルミエール。君は、もうあんな家に戻らなくていい。ここが君の家だ」
彼は、ルミの目をまっすぐに見て言った。
「俺が君を守る。衣食住の心配はいらない。君はただ、ここで笑って暮らせばいいんだ」
完璧な提案。
夢のような救済。
だが、その言葉を聞いた瞬間、ルミの心臓が早鐘を打った。
ドクン。ドクン。
冷や汗が噴き出す。指先が震え始める。
——ここには、悪意がない。
——この人は、私を虐げない。
——使用人たちも、私を優しく扱う。
それはつまり、「食料がない」ということだ。
ルミの【悪意変換】スキルは、悪意を魔力に変えて生命活動を維持している。彼女の魔力回路は、生まれつき欠損しており、自力で魔力を生成できない。他者の悪意を燃料にしなければ、心臓さえ動かせない体質なのだ。
王都は、悪意に満ちていた。だから生きていけた。
でも、ここは?
ここは、「善意」しかない。
善意は、ルミにとって毒ではないが、栄養にもならない。
このままでは、飢え死にする。
物理的に満たされても、魂が干からびて死ぬ。
恐怖。
死への恐怖ではない。「何も食べられない」という、生物としての根源的な飢餓感。
「……っ、はぁ、はぁ……」
ルミは、胸を押さえて過呼吸になった。
「ルミエール!? どうした、苦しいのか!?」
テオが慌てて駆け寄る。
ルミは、テオの袖を掴んだ。
「お、お願い……します……」
ルミは、必死に訴えた。
「私を……殴ってください……」
「は……?」
テオが凍りつく。
「罵ってください……役立たずと、ゴミだと……言ってください……」
ルミの瞳は、焦点が合わず、虚空を彷徨っていた。
「悪意を……私に、悪意をください……お腹が、空いて……死んでしまう……」
それは、狂人の戯言にしか聞こえなかっただろう。
だが、ルミにとっては、生存をかけた切実な懇願だった。
テオは、ルミの言葉の意味を理解できなかった。だが、彼女が極限状態にあることだけは分かった。
彼は、ルミの細い身体を、強く抱きしめた。
「馬鹿なことを言うな!」
テオの怒鳴り声。
ルミは一瞬、期待した。怒り? 悪意?
だが、抱きしめられた身体から伝わってくるのは、やはり、煮えたぎるような「慈愛」と「悲痛」だった。
「誰が君にそんなことを教え込んだ! 殴られなければ生きられないなんて……そんなことがあってたまるか!」
テオの声が震えている。
「君は、大切にされるべきだ。愛されるべきだ。俺が……俺が証明してみせる!」
温かい。
熱い。
テオの体温と、彼の魂から溢れる善意の奔流が、ルミを飲み込む。
それは、ルミにとって「温かすぎる地獄」だった。
心地よいのに、満たされない。
幸せなのに、死に近づいていく。
ルミの意識が、再び遠のいていく。
——ああ、この人は、本当にバグだ。
——私を殺す気か。こんなに、優しい毒で。
ルミが再び目を覚ましたのは、深夜だった。
部屋は薄暗く、暖炉の火だけが小さく燃えている。
テオは、ベッドの脇で椅子に座ったまま、眠っていた。その顔には、深い疲労の色が見える。
ルミは、身体を起こそうとした。
重い。
魔力欠乏の症状が出始めている。指先が痺れ、視界が明滅する。
——逃げなきゃ。
——ここから出て、誰か私を憎んでくれる人を探さないと。
そう思った時だった。
ベッドの足元で、何かが動いた。
白い、ふわふわした毛玉のようなもの。
子犬? いや、違う。
それは、ルミの顔の横までよじ登ってくると、つぶらな青い瞳でルミを見つめた。
「……きゅ?」
小さな鳴き声。
ルミは、その生き物を見つめた。
『解析。……聖獣の幼体。高濃度の魔力反応』
聖獣。伝説上の生き物だ。なぜこんなところに。
その生き物――パフは、鼻をひくひくとさせ、ルミのポケットに顔を突っ込んだ。
そこには、王都を出る時に生成した、ミエルの「殺意の紅玉(ルビー)」の欠片が、わずかに残っていた。
パフは、それを器用に取り出すと、カリカリと音を立てて食べた。
「……!」
ルミは驚いた。
それは、猛毒の塊だ。普通の生き物が食べれば即死する。
だが、パフは美味しそうにそれを飲み込むと、満足げに「きゅぅ〜」と鳴いた。
そして、ルミの頬を、ざらついた舌で舐めた。
その瞬間。
パフの身体から、微量だが、純粋な魔力がルミへと流れ込んできた。
それは「悪意」ではなかった。
だが、「悪意を消化した後に排出される、浄化された魔力」だった。
ルミの身体が、わずかに軽くなる。
「……あなたが、くれたの?」
ルミが問うと、パフは嬉しそうに尻尾を振った。
この生き物は、ルミと同じだ。
「毒」を食べて生きている。
ルミは、震える手で、パフの白い毛並みを撫でた。
温かい。
テオの温かさは怖かったけれど、この子の温かさは、どこか懐かしい。
「……名前は?」
「きゅ!」
「……パフ。パフって呼ぶわ」
ルミは、パフを抱きしめた。
この屋敷には、悪意がない。
でも、この子がいてくれれば。
私が作った「お菓子(悪意の結晶)」をこの子が食べ、その魔力を私に分けてくれれば。
なんとか、生きていけるかもしれない。
それは、細い細い、蜘蛛の糸のような希望だった。
翌朝。
目を覚ましたテオは、ルミがパフを抱いて眠っているのを見て、安堵の息をついた。
「聖獣が懐くなんて……やはり、君は特別な子なんだな」
テオは、ルミの寝顔を見つめ、改めて誓った。
昨夜の、彼女の錯乱した言葉。
『殴ってください』
その言葉の裏に、どれほどの地獄があったのか。
テオは、眠るルミの銀髪を、そっと撫でた。
「約束する。君が『殴ってくれ』なんて二度と言わなくて済むように。俺が、君の世界を愛で埋め尽くしてやる」
その誓いが、ルミにとってどれほどの「試練」になるかも知らずに。
無骨な騎士の、不器用で、重すぎる溺愛の日々が、ここから始まろうとしていた。

