鉄格子のはまった馬車が、石畳の道をガタガタと音を立てて進んでいく。
 ルミエールは、硬い木のベンチに座り、流れる景色を眺めていた。
 持ち物は、小さな鞄一つだけ。中には、数枚の着替えと、書庫から持ち出した一冊の魔導書が入っている。
 御者台からは、男の鼻歌と、時折ルミに向けられる悪態が聞こえてくる。
「へっ、ざまあねえな。お嬢様気取りも昨日までかよ」
 御者は、かつてヴァーミリオン家で庭師をしていた男だった。ルミが庭の花を見ていただけで、「邪魔だ」と水をかけたことがある。
 彼は、わざと馬車を荒く走らせた。車輪が窪みにはまるたびに、ルミの身体は壁に打ち付けられる。
 ドンッ。
 肩に鈍い痛みが走る。
『衝撃検知。右肩打撲。軽傷』
 ルミは表情を変えない。
 御者から漏れ出る、「元貴族を虐げている」という優越感と悪意。
 それが、車内の空気を澱ませている。
 ルミは、空中に漂うその澱みを指先で集め、小さな飴玉に変えた。
 ポイと口に放り込む。
 泥のような、ざらついた味。
『栄養価:極低。……まあ、ないよりはマシ』
 王都を出てから三日。
 景色は、徐々に色を失っていった。
 緑の草原は枯野に変わり、やがて、白い雪がちらつき始めた。
 気温が下がる。
 ルミの吐く息が白くなる。
 彼女が着ているのは、追放された時の薄手のドレスの上に、粗末な外套を一枚羽織っただけだ。
 常人なら、震えが止まらない寒さだろう。
 だが、ルミの【感情凍結】は、肉体的な苦痛さえも遮断していた。
『外気温:マイナス五度。体温低下警告。……無視』
 寒さは「情報」として認識されるが、「苦しみ」としては処理されない。
 ただ、身体が動かなくなっていくだけだ。
 それでいい、とルミは思った。
 このまま、眠るように機能停止できれば、それが一番の救いだ。

 馬車が止まったのは、深い森の入り口だった。
 見渡す限りの雪景色。針葉樹の森が、黒い壁のように立ちはだかっている。
 御者が扉を開けた。
「おい、降りろ。ここが終点だ」
 ルミは馬車を降りた。
 雪が、膝まで埋まる。
「ここは……?」
「ブランネージュ領の入り口だよ。修道院までは、この森を抜けてあと二十キロってとこだな」
 御者は、ニヤニヤと笑った。
「ま、運が良ければたどり着けるんじゃねえか? 狼に食われなきゃな」
 彼は、ルミを修道院まで送り届けるつもりなどなかったのだ。
 ここで野垂れ死にさせる。それが、彼の(あるいはロラン公爵の)意図だった。
 ルミは、御者を見上げた。
 彼からは、明確な殺意と、加虐心が放たれている。
 ルミは、最後の手土産として、その悪意を受け取った。
 手の中で、黒い石のような結晶ができる。
 それをポケットにしまうと、ルミは御者に深々と頭を下げた。
「……ここまで送っていただき、ありがとうございました」
 その言葉に、皮肉の色は一切なかった。
 本当に、感謝していたのだ。
 死に場所まで連れてきてくれたことに。
 御者は、ルミの反応に虚を突かれたようだった。
「あ、あ? なんだよ、気味の悪い……」
 恐怖を感じたのか、御者は慌てて馬車に戻り、鞭を振るった。
「死んじまえ! 化け物め!」
 馬車が、雪煙を上げて去っていく。
 ルミは、一人残された。
 静寂。
 風の音だけが、ヒューヒューと鳴っている。
 ルミは、森の方へと向き直った。
 白い世界。
 どこまでも続く、無垢な白。
 そこには、嘘も、欺瞞も、悪意もない。
「……綺麗」
 ルミは、小さく呟いた。
 彼女は、雪を踏みしめ、森の中へと歩き出した。
 生きるためではない。
 誰にも見つからない、静かな場所を探すために。

 どれくらい歩いただろうか。
 感覚がなくなっていく。
 手足の先から、感覚が消え、重くなっていく。
 吹雪が強まってきた。視界が白く染まり、上下の感覚さえ曖昧になる。
『体温:危険域。生命維持活動、限界』
 脳内の警告音が、遠のいていく。
 ルミは、大きな樅(もみ)の木の下に、崩れ落ちるように座り込んだ。
 もう、一歩も動けない。
 瞼が重い。
 ルミは、ポケットの中の結晶を取り出そうとしたが、指が動かなかった。
 まあ、いいか。
 もう、食べる必要もない。
 ルミは、ゆっくりと目を閉じた。
 暗闇が訪れる。
 それは、ヴァーミリオン家の冷たい部屋よりも、ずっと優しく、温かい闇だった。
 ——ああ、やっと終わる。
 ——私は、誰の記憶にも残らず、ただの雪の一部になって消える。
 ——それが、私にお似合いの結末。
 意識が、白の中に溶けていく。

 その時だった。
 ザッ、ザッ、ザッ。
 雪を踏みしめる、力強い音が聞こえた。
 幻聴だろうか。
 いや、音は近づいてくる。
 そして、荒い息遣い。
「……おい! 誰かいるのか!?」
 男の声。
 低く、よく通る声。
 ルミは、薄く目を開けた。
 白い視界の中に、黒い影が立っている。
 大きな影だ。熊だろうか。それとも、死神だろうか。
 影が、ルミの前に膝をついた。
「……子供!? おい、しっかりしろ!」
 温かいものが、ルミの身体を包み込んだ。
 それは、分厚い毛皮の外套と、そして、人間の体温だった。
 男が、ルミを抱き上げる。
 身体が浮く感覚。
「なんて冷たいんだ……! 死ぬな! 息をしろ!」
 男の必死な叫び。
 ルミは、ぼんやりと考えた。
 ……なぜ、この人は叫んでいるのだろう。
 ……なぜ、私なんかのために、こんなに必死になっているのだろう。
 ルミは、男の胸に顔を埋めた。
 そこからは、何の「悪意」も感じられなかった。
 ただ、燃えるような「焦燥」と、純粋な「使命感」だけが伝わってくる。
『……エラー。データなし。……解析、不能』
 ルミの思考が、そこで途切れた。
 意識のスイッチが、完全に切れる。
 最後に感じたのは、雪の冷たさではなく、見知らぬ男の、火傷しそうなほどの体温だった。