午前七時。ヴァーミリオン伯爵邸、北棟の角部屋。
 窓枠の隙間から吹き込む隙間風が、薄い毛布を揺らしている。室温は摂氏八度。吐く息が白い。
 ルミエール・ヴァーミリオンは、寝台から身を起こした。
 銀色の髪が、冷たい朝の光を受けて、凍りついた滝のように背中を滑り落ちる。痩せ細った腕は枯れ木のようで、皮膚の下に浮き出た血管が青白く透けて見えた。
『起床。バイタルチェック。体温、低下気味。空腹レベル、危険域』
 脳内で、無機質な思考が走る。
 感情はない。寒さも、空腹も、ただの「身体情報(ステータス)」として処理される。
 ルミは機械的な動作で着替えを済ませると、部屋を出た。

 本邸の食堂は、朝の光と、焼きたてのパンの香りに満ちていた。
 だが、ルミの席はそこにはない。
 彼女が向かったのは、厨房の裏手にある、使用人用の粗末な小部屋だった。
 テーブルの上には、硬くなった黒パンの端切れと、具のない冷めたスープが置かれている。これが、伯爵家長女である彼女に与えられた「朝食」だった。
 ルミは椅子に座り、スプーンを手に取った。
『栄養価、不足。カロリー摂取効率、極めて低』
 それでも、食べなければ身体機能が停止する。ルミは感情を交えず、パンをスープに浸した。

 その時、扉が乱暴に開かれた。
 甘い香水の匂いが、部屋の澱んだ空気を切り裂く。
「あら、お姉様。まだそんなものを召し上がっているの?」
 鈴を転がすような、愛らしい声。
 現れたのは、蜂蜜色の巻き髪を揺らす少女、ミエル・ヴァーミリオンだった。
 彼女の後ろには、数人のメイドが控えている。彼女たちは一様に、ルミに対して侮蔑の視線を向けていた。
 ルミは、スプーンを止めて顔を上げた。
 灰色の瞳が、ミエルを捉える。
『対象:ミエル・ヴァーミリオン。表情パターン:同情(偽装)。音声トーン:高音域、親愛を演出』
 ミエルは、大げさに眉を下げて見せた。
「可哀想に。お父様も厳しすぎるわ。でも、お姉様がもっと魔力を持っていれば、こんなことにはならなかったのに……」
 言葉とは裏腹に、ミエルの瞳の奥には、ドロドロとした暗い光が渦巻いていた。
 ——ざまあみろ。
 ——もっと苦しめ。
 ——お前なんか、消えてしまえばいい。
 声に出されない「本音」が、強烈な波動となってルミにぶつけられる。
 ルミの脳内で、警告音が鳴り響いた。
『悪意感知。濃度上昇。……解析完了』
 ルミは、静かに息を吸い込んだ。
 ミエルから放たれる、粘着質で腐敗した蜂蜜のような悪意。常人ならば、その瘴気に当てられて胃の中身を戻してしまうほどの濃度だ。
 だが、ルミにとっては違う。
 彼女の固有スキル【悪意変換(マリス・コンバーター)】が、自動的に起動する。
『悪意濃度:72%。カテゴリー:嫉妬、優越感、排他欲求。……変換プロセス、開始』
 ルミの視界の中で、ミエルから立ち上る黒い靄(もや)が、瞬時に吸い寄せられ、凝縮していく。
 それは物理的な現象ではない。魔力の次元で行われる、錬金術に近いプロセスだ。
 黒い靄は、ルミの手の中で光を帯び、固形化する。
 カラン、と微かな音を立てて、テーブルの上に「それ」は落ちた。
 琥珀色に輝く、一粒のキャンディ。
 見た目は、高級な砂糖菓子のようだ。だが、その正体は、ミエルがルミに向けた純粋な悪意の結晶だった。
「……?」
 ミエルは、ルミの手元に現れたものに気づかなかった。彼女には、自分の悪意が奪われたことなど知覚できない。
 ルミは、無表情のまま、そのキャンディを指で摘み上げた。
『生成物:嫉妬の琥珀糖(レベル1)。魔力含有量:中。摂取推奨』
 迷わず、口に放り込む。
 ガリッ。
 硬質な音を立てて、キャンディを噛み砕く。
 口の中に広がるのは、焦げたカラメルのような、ほろ苦く、それでいて脳が痺れるような甘美な味。
 それは、物理的な栄養ではない。枯渇しかけていたルミの魔力回路を潤す、高純度のエネルギーだ。
 冷え切っていた指先に、わずかに熱が戻る。
「……ごちそうさま」
 ルミは、小さく呟いた。
 その言葉に、ミエルの表情が歪んだ。
「なっ……何よ、その態度! 私がせっかく心配してあげているのに!」
 ミエルの「同情」の仮面が剥がれ、苛立ちが露わになる。
 それと共に、新たな悪意が放出される。
『追加供給を確認。悪意濃度:65%。変換待機』
 ルミは、ただ静かにミエルを見つめ返した。
 その瞳には、怒りも、悲しみも、恐怖もない。
 あるのは、ただ「データを処理する」という機能だけ。
 それが、ミエルをさらに苛立たせるのだと知りながら、ルミはまた一つ、生成されたキャンディを口に運んだ。
 ガリッ。
 咀嚼音だけが、冷たい部屋に響いた。

 メイドの一人が、気味悪そうに囁くのが聞こえた。
「……見て、あの子。また何もないところから何かを食べてるわ」
「気持ち悪い……やっぱり、呪われているのよ」
 その囁きに含まれる「嫌悪」もまた、ルミにとっては小さな金平糖のような糧となる。
 ルミは、心の中で淡々と記録した。
『本日の朝食摂取、完了。生存に必要な魔力値、確保』
 彼女にとって、この家は地獄ではない。
 ここは、豊富な「食料」が無限に湧き出る、巨大な餌場だった。
 心を殺してさえいれば、飢えることはない。
 そう、心を殺してさえいれば。

 朝食(悪意)を摂取した後、ルミは屋敷の西側にある古びた書庫へと向かった。
 ここは、ヴァーミリオン家の中で唯一、ルミが呼吸を許されている場所だった。埃っぽく、カビの匂いがするこの場所には、ミエルも、継母も、誰も近づかないからだ。
 高い天井まで届く本棚には、歴代の当主が集めた魔法書や歴史書がぎっしりと詰まっている。
 ルミは慣れた手つきで梯子を登り、最上段にある分厚い魔導書を手に取った。
『古代魔法体系における、精神干渉の防御術式……』
 ページをめくる。
 彼女が知識を求めるのは、知的好奇心からではない。
 より効率的に「悪意」を処理し、自分の心が壊れないようにするための、メンテナンス方法を探すためだ。
 静寂。
 埃が舞う光の中で、ルミは文字を目で追う。
 この時間だけが、彼女にとっての「休息」だった。悪意を向けられず、変換する必要もなく、ただ静かに存在していられる時間。

 だが、その静寂は、重々しい足音によって破られた。
 書庫の扉が開き、長身の男が入ってくる。
 ロラン・ヴァーミリオン公爵。ルミの実の父親だ。
 赤褐色の髪に、鋭い眼光。その威圧感は、部屋の空気を一瞬で凍りつかせる。
 ルミは梯子の上から、父を見下ろした。
『対象:ロラン・ヴァーミリオン。心拍数:正常。表情:冷徹』
「……ここにいたか」
 ロランの声は、低く、感情がなかった。まるで、壊れた家具を見つけた時のような口調だ。
 ルミは無言で梯子を降り、父の前に立って頭を下げた。
「おはようございます、お父様」
「挨拶などいい」
 ロランは、ルミの痩せた身体を、値踏みするように見下ろした。
「来月の夜会には、お前も出ろ」
 ルミは顔を上げた。
「……夜会、ですか?」
「ああ。王家の方々も招かれる重要な席だ。ミエルの引き立て役が必要だ」
 引き立て役。
 つまり、美しく着飾ったミエルの横で、みすぼらしく、無能な姉として立ち、妹の優秀さを際立たせるための「舞台装置」になれということだ。
 ロランの瞳の奥に、冷たい光が宿る。
「お前は魔力も低く、何の才能もない。ヴァーミリオンの恥だ。だが、恥には恥なりの使い道がある」
 淡々とした言葉。
 だが、そこには、娘に対する愛情など欠片もなく、あるのは「道具」としての冷酷な評価だけだった。
 ——お前など、生まれてこなければよかった。
 ——亡き妻の面影を持つお前を見るたびに、虫唾が走る。
 言葉にされない、強烈な拒絶。
 ルミの胸の奥が、きしりと音を立てた。
『悪意感知。濃度:45%。カテゴリー:軽蔑、失望、無関心』
 父の悪意は、ミエルのような熱を持ったものではない。
 冷たく、鋭く、魂を切り刻むような、氷の刃だ。
 ルミのスキルが作動する。
 父の周囲から滲み出る冷たい靄が、ルミの手の中で凝縮される。
 現れたのは、青白く透き通った、氷砂糖のような結晶だった。
 ルミはそれを握りしめた。
 冷たい。
 ミエルのキャンディよりも、ずっと冷たく、そして苦い味がすることを、ルミは知っていた。
「……承知いたしました」
 ルミは、感情のない声で答えた。
「ミエル様の引き立て役として、恥じぬよう振る舞います」
「フン。期待はしていない」
 ロランは踵を返し、書庫を出て行った。
 扉が閉まる。
 再び、静寂が戻る。
 ルミは、手の中にある氷砂糖を口に含んだ。
 ガリッ。
 口の中に広がる、鋭い苦味と、凍えるような冷気。
 それが、父の味だった。
『魔力充填率、120%。……過剰摂取』
 ルミは、胸を押さえた。
 苦い。
 この味は、何度食べても慣れない。
 心の奥底で、何かが泣き叫びそうになるのを、ルミは理性でねじ伏せた。
『感情回路、凍結維持。エラー修正。……私は、大丈夫』
 彼女は、自分に言い聞かせる。
 この体は、憎しみで動いている。
 愛されなくてもいい。認められなくてもいい。
 ただ、この悪意さえあれば、私は生きていける。
 それが、彼女の生存戦略であり、唯一の真実だった。

 だが、ルミはまだ知らなかった。
 その「生存戦略」が、間もなく通用しなくなる場所へ、自分が追いやられようとしていることを。

 王都の夜会。
 シャンデリアの煌めき、グラスが触れ合う音、そしてむせ返るような香水の匂い。
 ルミエールは、会場の壁際に立ち、その光景を無機質な瞳で観察していた。
 彼女が着ているのは、流行遅れの灰色のドレス。父の命令通り、華やかな妹を引き立てるための、地味で陰気な「背景」としての役割を忠実にこなしていた。

 周囲の貴族たちから、ひそひそとした嘲笑が聞こえてくる。
「あれがヴァーミリオン家の長女か? まるで幽霊だな」
「妹君はあんなに愛らしいのに。月とスッポンとはこのことだ」
「魔力もほとんどないそうじゃないか。生きている価値があるのかね」
 嘲笑。軽蔑。優越感。
 それらは、小さな金平糖のような粒となって、ルミの足元に転がってくる。
 ルミは誰にも気づかれないように、それを拾い上げ、口に運んだ。
 カリッ。
 安っぽい砂糖の味。雑味が多い。
『栄養価:低。味覚評価:E。……空腹は満たせない』
 ルミは小さく息を吐いた。この程度の悪意では、生命維持に必要な魔力を賄うには数が足りない。

 その時、会場の中央がどよめいた。
 本日の主役、ミエル・ヴァーミリオンの登場だ。
 純白のドレスに身を包み、蜂蜜色の髪を輝かせた彼女は、まさに天使のようだった。多くの貴族令息たちが、彼女を取り囲み、賛辞を送っている。
 ミエルは満面の笑みを振りまきながら、真っ直ぐにルミの方へと歩いてきた。手には、二つのワイングラスを持っている。
「お姉様、こんな隅にいらしたの? もっと楽しみましょうよ」
 ミエルは、愛らしい上目遣いでグラスを差し出した。
「はい、これ。お父様が特別に開けてくださったヴィンテージワインよ。乾杯しましょう?」
 ルミは、差し出されたグラスを見つめた。
『視覚情報解析。液体の粘度、色調、わずかな濁り。……毒物混入の可能性、98%』
 あまりにも分かりやすい罠だった。
 だが、ここで拒否すれば、「妹の好意を踏みにじった」として、別の断罪が始まるだけだ。
 ルミは、無言でグラスを受け取った。
「……ありがとう、ミエル」
「うふふ。お姉様と乾杯できるなんて、私、幸せだわ」
 ミエルは自分のグラスを掲げ、ルミのグラスに軽く当てた。
 チン、と澄んだ音が響く。
 その瞬間、ミエルの瞳の奥で、どす黒い炎が燃え上がったのを、ルミは見逃さなかった。
 ——さあ、飲みなさいよ。
 ——そして、私の前で無様に泡を吹いて倒れなさい。
 強烈な悪意。
 ルミのスキルが反応する。
『悪意濃度:測定限界突破。カテゴリー:殺意、愉悦、完全なる抹殺欲求』
 ミエルの身体から、タールのような黒い粘液状のオーラが噴き出し、ルミへと襲いかかる。
 ルミは、ワインを飲むふりをして、その膨大な悪意を吸い込んだ。
 手の中で、重く、熱い塊が生成される。
 それは、これまでに見たこともない大きさの、深紅の宝石――ルビーのような結晶だった。
『生成物:殺意の紅玉(レベル2)。魔力含有量:特大』
 ルミがそれをドレスのポケットに滑り込ませた、その時だった。

「うっ……!」
 苦悶の声を上げたのは、ルミではなく、ミエルの方だった。
 ガシャン!
 ミエルがグラスを取り落とし、その場に崩れ落ちる。
「きゃあああ! ミエル様!?」
「どうされたのですか!?」
 周囲の貴族たちが駆け寄る。ミエルは胸を押さえ、苦しげに喘いでいた。
「く、苦しい……お腹が……熱い……」
 その口元から、一筋の血が流れる(おそらく、あらかじめ口に含んでいたものだろう)。
 ミエルは、震える指で、ルミを指差した。
「お、お姉様……なぜ……? 私、お姉様と仲良くしたかっただけなのに……どうして、毒などを……」
 会場が、静まり返った。
 数百の視線が、一斉にルミに突き刺さる。
 驚愕。疑念。そして、激しい憎悪。
「貴様! 妹に何を飲ませた!」
 ロラン公爵が人垣を割って現れ、ルミの頬を力任せに殴りつけた。
 バチンッ!
 乾いた音が響き、ルミは床に倒れ込んだ。口の中が切れて、鉄の味がする。
 侍医が駆けつけ、ミエルのグラスと、ルミが持っていたグラスを調べる。
「……間違いない。遅効性の猛毒『蛇の吐息』です。ミエル様のグラスに塗られていたようです。そして……」
 侍医は、ルミのドレスのポケットから、小さな小瓶を取り出した(いつの間にすり替えられたのか、ルミさえ気づかない早業だった)。
「ルミエール様のポケットから、同じ毒の瓶が見つかりました!」
 完璧な証拠。完璧なシナリオ。
 会場中から、罵声が浴びせられる。
「なんて恐ろしい女だ!」
「妹の才能を妬んで、殺そうとするとは!」
「悪魔だ! ヴァーミリオン家の面汚しめ!」
 罵声。怒号。殺意。
 それら全てが、ルミにとっては「食料」だった。
 ルミは、床に倒れたまま、降り注ぐ悪意の雨を浴びていた。
 痛い。怖い。悲しい。
 本来なら、そう感じるはずの場面だ。
 だが、ルミの心は、凪いだ湖のように静かだった。
『状況分析:冤罪の証明は不可能。弁明によるエネルギー消費は無駄。……最適解は、沈黙』
 彼女は、腫れ上がった頬を押さえながら、ただ静かに、ミエルを見つめた。
 ミエルは、父の腕の中で、苦しげに涙を流している。
 だが、その瞳は、ルミを見て笑っていた。
 ——勝った。
 ——これで、お前は終わりよ。
 その勝利宣言とも取れる強烈な悪意を、ルミは最後のデザートとして受け取った。
 手の中に、また一つ、小さな宝石が生まれる。
 ルミはそれを握りしめ、心の中で呟いた。
『……ごちそうさま』

 ロラン公爵が、冷酷な声で告げた。
「ルミエール。貴様のような怪物を、これ以上屋敷に置いておくわけにはいかん」
 彼は、まるで汚物を見るような目で、実の娘を見下ろした。
「明日、夜明けと共に『ブランネージュ領』へ発て。あそこの修道院で、一生罪を償うがいい。……二度と、私の前に顔を見せるな」
 ブランネージュ領。
 北の果て。万年雪に閉ざされた、極寒の辺境。
 そこは、罪人が送られる「生きた墓場」として知られる場所だった。
 周囲からは、「死刑宣告と同じだ」「ざまあみろ」という声が聞こえる。
 だが、ルミは、ゆっくりと立ち上がり、スカートの埃を払った。
 そして、深く一礼した。
「……承知いたしました、お父様」
 その声には、絶望も、恐怖もなかった。
 ただ、事務的な了承だけがあった。
 ルミの反応の薄さに、ロランも、ミエルも、そして周囲の貴族たちも、気味悪そうに顔をしかめた。
 ルミは、誰の顔も見ずに、会場を後にした。
 背中に浴びる無数の悪意を、ポケットの中の宝石に変えながら。

 屋敷の外に出ると、冷たい夜風が頬を撫でた。
 ルミは、夜空を見上げた。
 満月が、青白く輝いている。
 ブランネージュ領。極寒の地。
 そこに行けば、きっと、凍えて死ぬことができるだろう。
 もう、悪意を食べなくていい。
 もう、心を殺して笑わなくていい。
 ルミの胸に、初めて「安堵」に似た感覚が広がった。
『任務完了。……これにて、私の生存競争は終了する』
 彼女は、ポケットの中の、ミエルから搾取した深紅のルビーを、月にかざした。
 それは、血のように赤く、そして、悲しいほどに美しかった。
 ルミはそれを口に含み、噛み砕いた。
 甘い。
 今までで一番、甘く、濃厚な毒の味。
 それが、彼女の王都での、最後の晩餐だった。