婚約者のフリをしてください、専務~冷徹御曹司の溺愛は嘘から始まる~


月曜日の朝。

藤宮グループ本社のエントランスは、いつも通りせわしなく人が行き交っていた。
自社ビルの大きな建物にたくさんの人が吸い込まれていく中、一人立ち止まる私は少し異様だろう。

私は社員証を握りしめながら、エントランスの前で深呼吸を三回した。それでもこの妙な緊張感を解すにはこれしか思いつかなかった。

……もし藤宮専務に会ったらどんな顔をすればいいんだろう。いやいや、大丈夫! そう簡単に会ったりしないわ。
会ったとしても平常心、平常心。でも……。

それでも何度も頭に浮かぶのは先週末の出来事。
婚活パーティーの帰り、藤宮専務と交わした約束。

『婚約者のフリは一日だけだ』

そう言ってくれたあの低い声。

しかし時間がたつにつれ、藤宮専務に婚約者のフリを頼むなんて無謀だったのかもしれないと不安に思う。
ただでさえ、仕事で一緒になっても緊張するのに婚約者のフリなんて無理だ。

そもそも、あんなに完璧な人が私の婚約者になるはずがない。すぐに両親に気が付かれるに決まってる。やっぱり、なかったことにしてもらおうかな…。

そんなことを考えながらエレベーター前まで歩いた、その瞬間。

「おはよう、茉白」

聞きなれない呼び方が、直ぐ後ろから落ちてきた。

振り向くとスーツ姿の藤宮専務。落ち着いたネイビーのスーツで、いつものようにクールで完璧な上司の顔をしている。
視線が合うとわずかに口角が上がった。

今……、茉白って名前で呼ばれた。

破壊力がありすぎて、一瞬挨拶が遅れてしまった。

「……お、おはようございます。藤宮専務」

挨拶をすると形の良い眉が少しだけ上がった。

「名前で呼ばないのか?」
「ここは会社ですから」

呼べるわけがない。
思わず声を潜めると、「そうか……、確かにそうだな」と納得している。

いやいや、そりゃそうでしょう。
仕事人間で御曹司な藤宮専務は時々どこか抜けていると思う。

だがしかし……、距離が近い!
お互い声を潜めているから自然と顔が近くなってしまうのだろうが、藤宮専務はためらいがなさそう。

至近距離に藤宮専務の顔が……。
朝から顔面偏差値が暴力的すぎて、どこを見ていいかわからず目が泳いでしまう。

「先日はありがとうございました」

私が小声でそう言うと、藤宮専務は一瞬だけ表情を和らげた。

「無事、家には帰れたか?」
「はい、問題なく……」

問題なのは私の心だ。藤宮専務といるだけでドキドキと緊張してしまう。

エントランスホールを歩きながら横に並ぶ形になる。歩幅が揃っているので、藤宮専務がそろえてくれているのだろう。
それだけの事なのに、なんだか胸がくすぐったい。

「例の話だが……」

藤宮専務が口火を切ってくれたので私は顔を上げた。

「あ、あの……」

せっかく藤宮専務が乗ってくれた話だが丁重に断ろう。何度も謝ればわかってくれるはず。
そう思って口を開いた時、藤宮専務が声を落として先に話し出した。

「本当に一回で終わりでいいのか?」

その一言に、足が止まりそうになる。

「え?」
「実家に行く話だ。急に決めたこととはいえ、たった一回で足りるのか? 無理はするなよ」
「あ……はい。一回で大丈夫です……」

反射的に頷くと、藤宮専務は「わかった」と頷いた。

びっくりした、ただの確認か……。

そしてエレベーター前で立ち止まり私を見下ろす。

「心配しなくても、俺に任せておけ」

頼りになる笑みに胸がキュッとした。ドアが開き、人の波にさえぎられる。

「じゃあ、後で連絡する」

そう呟いて先に乗り込んでいく背中を、私はしばらく見つめていた。断るつもりだったのに、藤宮専務を見ていたら断れなかった。

なんで? どうしてこんなに胸がうるさいんだろう。

偽の関係。たった一回の婚約者。
それなのに、月曜の朝はもう`普通'ではいられなかった。