午後の仕事に身が入らない。
綾斗さんとの昼食を終えて、仕事に戻ったけれどさっきの出来事が頭から離れず仕事が手につかないでいた。
私、確実に抱き締められたよね? なんで? どうして?
思い出すだけでドキドキして苦しくてボーっとしてしまう。あの広い胸と力強い腕を思い出すだけで叫びたくなるほど恥ずかしい。
綾斗さんは最後まで、何も言わなかった。一歩先を歩いて、振り返ることもあまりなく……。
何も聞けずにそのままエントランスで別れた。
たまたまだったのかな。抱き締められたように感じただけ……とか?
混乱したまま深いため息をついて資料室へ向かおうと廊下に出ると、向かい側から真田さんが近づいてきた。
少しだけドキッとする。昼前に睨まれたことを思い出したからだ。
「桃瀬さん、今少しよろしいですか」
いつも通りの落ち着いた声と表情だ。
やっぱり、あれは見間違いだったのかとすら思う。
でも真田さんは私と目を合わせないで手元の資料だけ見ている。どうしてだろう、いつもとどこか違う雰囲気を感じた。
「専務の……」
「はい」
「次回のご実家への同行についてなんですが」
「え……?」
「第二回の帰省のご予定はいつ頃でしょうか。専務のスケジュールを調整したいので」
二回目の帰省? そんなものは何も決まっていない。というか、元々行くことはないはずだけど。
「えっと……、予定は別にまだ……」
「そうですか。あの……」
真田さんは少し間を置いた。何かを迷っているような、そんな空気。
「専務から聞いていませんか。ご実家があるエリアへの視察を再検討しているという話を」
視察……?
その言葉は頭の中で鋭く響いた。
「えっと……、視察……ですか?」
「ええ。桃瀬さんのご実家周辺が、うちの新規ホテル建設の候補地に挙がっているんです。前回に行ったときにいい場所だと仰っていて、次回の帰省時に合わせて再度視察ができればと専務が仰っていたんです。社員のご実家が候補地にあるのは、今後交渉するうえで好都合になるとも。ですから、桃瀬さんのご実家のご都合を確認できればと思いまして」
真田さんの言葉が遠くから聞こえてくるような気がした。
視察、候補地……? 新規ホテルの建設? 好都合……? 何の話……。
「えっと……」
「もしかしてご存じなかったですか」
いつもの淡々とした口調。でも、なんだか勝ち誇ったような響きは真田さんにしては珍しい。
「あ……、実家に確認します」
「よろしくお願いします」
一礼して立ち去っていく真田さんの後ろ姿を、その場に立ち尽くして見送る。
え……、待って。視察ってなんのこと? そんな話、知らない。私の実家があって好都合だったってどういうこと?
混乱する頭を抱える。
……まさか、最初からだった?
港の公園で実家の温泉の話をした時。綾斗さんが「いいな、たまにはゆっくりしたい」って少し間があってから「じゃあ行こうか」って言った。
あの間は……。まさか……。
じゃあ、婚活パーティーの帰りに、すぐに婚約者役を申し出てくれたのは? デートして帰省に付き合ってくれたのは? 名所とかは? 町おこしは? って聞いてきたのは……。
優しくしてくれたのは。
全部、仕事のため? 私の実家周辺を視察するために、都合よく婚約者のフリをしてくれたってこと?
いや、まさか……。そんなはずない。綾斗さんはそういう人ではない。でも……。
「桃瀬さん、大丈夫ですか?」
通りかかった同僚に声をかけられハッとする。
「あ、はい」
デスクに戻って椅子に座ったが、画面が全く頭に入ってこない。
あの笑顔も、穏やかな声も、全部嘘だったなんて……。信じたくないけど。
昼食の時間の時の綾斗さんを思い出す。
窓の外を見ていた綾斗さんの横顔。「顔が赤いぞ」と言った時の、少し目を細めた表情。
やっぱり好きだなって、そう思ったばかり。
だからこそ、今の痛さが酷い。胸の奥がじわじわと冷えていくような感覚がした。
「……バカだ、私は」
小さく小さく、私はポツリと呟いた。
どこかで期待していたのかもしれない。綾斗さんの優しさに、笑顔に。
綾斗さんのそばに居たくて、もう少しだけこのままでいたくて都合のいい夢を見ていた。
そもそも、私なんかが釣り合うはずないのに。
ただ都合のいい社員なだけだったのだ。



