婚約者のフリをしてください、専務~冷徹御曹司の溺愛は嘘から始まる~

金曜の夜。

会社からすぐのとある居酒屋で、私は穂乃果と待ち合わせた。仕事終わりの会社員が多く、大人の居酒屋という雰囲気である。
穂乃果は一杯目のビールを半分まで飲むと聞いてきた。

「で? どうだったのよ、藤宮専務との帰省は」

私はサワーのグラスを持ったまま止まる。チラッと目だけで穂乃果を見て、ぼそっと呟いた。

「……普通かな」
「はい、嘘」
「即答!?」

驚くと穂乃果は苦笑した。

「だって、本当に普通ならそんな顔しないでしょ」
「……そんな顔って何? いつもと同じでしょ」
「親友を舐めないでよ? 茉白の変化くらい分かるわよ」

変化って……、別に私は何も変わっていない。ただの日常に戻っているだけだ。
でも……。確かになにか顔には出ているかも。もやもやはしているのは事実だから。

「何をそんなに混乱しているの? 上手くいったんでしょ?」
「うん……、帰省自体は上手くいったよ。両親も綾斗さんを婚約者だと思って歓迎してくれたし、綾斗さんもちゃんと演じてくれたし……」
「じゃぁ良かったじゃないの」
「そうなんだけど……」
「何かあったの? そんな顔するなんて」

穂乃果は本当に鋭い。嘘はつけない相手だってわかっているし、つくつもりはないけど上手く説明できない。

「……本当の婚約者みたいに振舞ってくれたの。優しいし、大切にしてくれた。お父さんのデリカシーのない言葉からも守ってくれたし」
「うん」
「でも、そんなのは演技だから当然、会社ではいつもの藤宮専務なわけで……。クールでドライで仕事には厳しくてあまり笑わない、いつもの藤宮専務」
「まぁ、そうでしょうね」
「うん……、でも……」

あの時、会議室で二人きりになると藤宮専務ではなく”綾斗さん”だった。上司と部下に戻るはずだったのに、あの時だけは……。
そんなの……。

「ときめいちゃうね」

穂乃果の一言が胸に刺さった。

「うん……」

そうなんだ、ときめくの。ドキドキしてしまうの。

「いいじゃない!  茉白にもそんな人ができたってことね」
「良くないよ。ドキドキしたところで意味ないでしょう?」
「なんでよ?」
「だって……」

頭に真田さんがちらつく。
私は一日限りの婚約者であって、本物の恋人ではない。今はただの上司と部下だ。
名前を呼ばれたのだって、綾斗さんは優しいから私の様子を気にかけてくれただけなのかも。とにかく、そこに何かを期待してはいけないだろう。

「でた、茉白の'私なんて’」
「うっ……」
「そんなんじゃ、掴めるものも掴めないよ?」
「別に私は……」
「好きなんでしょう? 藤宮専務の事」

好き? 私が?

「なにポカンとしているの。今の話の流れだと、完全に好きでしょう?」
「……好き……なのかなぁ?」

私、綾斗さんの事好きになっちゃったの? だからあんなにドキドキしていたのか。

「……でもさ、あのルックスと顔面がそばに居たら、普通はドキドキするよね?」
「するけど、頭の中をずっと支配はしないよ」
「そうか……」

私はずっと支配されていた。
仕事中も、プライベートの時間も気が付けば綾斗さんのことを考えている。確かにこれは好きの感覚。

「ええ~……、不毛すぎる」
「実らないって? ……うーん、ゼロではないんじゃない?」
「ゼロだよ、どう考えたって!」

あの日から綾斗さんとは会話していない。
仕事でも一緒になることがないから当然だけど、見かけても目が合うことはなかった。
もう綾斗さんの中で、私はただの部下。少し欲張っても、会話のしやすい部下という位置づけかもしれない。

好きになったところで、そもそも住む世界が違う。

「本気になる前に気が付いて良かったよ。今なら後戻りできるし」
「茉白……」

実る事のない恋愛ならしない方が良い。無駄に傷つきたくない。別に辛くはない。今までの関係に戻るだけだ。

そう言い聞かせながら口にしたサワーは少しだけにがかった。

それから数日間、私は意識して綾斗さんのことを考えないようにした。
廊下ですれ違っても目を合わせない。社内メールの差出人欄に藤宮専務の名前を見つけても、仕事の内容だけを確認してすぐ閉じる。

上手くいっていた。……たぶん。

そう思っていたある日の午後、私は主任に呼び止められた。