婚約者のフリをしてください、専務~冷徹御曹司の溺愛は嘘から始まる~


「じゃぁ、帰るね」

見送りに来た母と父に振り返って声をかける。父に駅まで送ると言われたが、仕事中だしと丁重に断った。

「お世話になりました」
「いいえ、気を付けて帰ってね。これ、茉白が好きな地元のお菓子。良かったら新幹線の中で食べて」
「ありがとうございます。いただきます」

母が紙袋を綾斗さんに手渡す。そして、ジッと顔を見て小さな声で言った。

「綾斗さん、ありがとうね」

母は深く綾斗さんにお辞儀をした。何に対する感謝なのだろう。

父のデリカシーのない言葉から私を守ってくれたこと? それとも、本当の私たちの関係を見抜いて、婚約者のフリをしてくれたことに対する感謝なのか……。

聞けないまま、綾斗さんも静かにお辞儀を返した。

「――いえ」

母は鋭い。私よりもずっと細かな機微に敏感で察する能力は高かった。女将として培われた能力なのか、元からなのか。今は少しだけ怖い。

「綾斗君、またおいで! 次はもっとうまい酒を用意しておくから」

『次』という言葉に、私の胸が一瞬チクリと痛んだ。

「……はい」

綾斗さんは否定をしない。

でも、ごめんねお父さん。もう二度と綾斗さんは来ない。お父さんと会うことはないの。

打ち合わせ通りで行くと、私たちは一か月後に別れる。理由は結婚観の不一致。そして私はしばらく傷心を装うんだ。
いくらお父さんでも、そんな私を前に結婚をしろとはしつこく言えないでしょう? 悪い娘でごめんね。
その間、私は本当の恋人探しに力を入れる。婚活するんだ。

「じゃあね」

実家に別れを告げて、私たちはバスに乗り在来線に乗り、新幹線に乗った。そこでやっと私は大きく息を吐いた。
もうここまでくれば、誰かに見られることもない。

そして隣に座る綾斗さんに深々と頭を下げた。

「本当にありがとうございました」
「どういたしまして。良い所だったな。温泉も堪能できたし」

満足そうな笑みを浮かべてくれたことにホッとする。

「俺にとってはいい休暇だった」
「それなら良かったです。あ、そのお土産持ち帰ってください」
「ああ、ありがとう。お菓子なら真田も喜びそうだ」

真田さん……。

その名前に胸が小さく痛む。

綾斗さんに一番近い女性――、当たり前の事なのになんで何度も真田さんの名前に苦い気持ちになるんだろう。

「真田さんに謝らないとですね」
「あいつなら気にしないだろう」
「……そうですか」

『あいつ』
親し気な言い方に、また胸が痛む。

ダメだな、茉白。婚約者のフリをしていたせいで、心がまだ恋人気分でいる。早く元に戻さないと……。
だって、この人は私の上司。会社の御曹司で、本来なら私のような一般社員には手の届かない人なんだから。

「藤宮専務、また明日から宜しくお願い致します」
「……ああ」

呟いた言葉に小さく返事があったっきりだった。綾斗さんは窓の外を向いて目を閉じる。窓の外の見慣れた景色は一瞬で遠ざかっていく。

――あの時間は確かに存在した。

それだけで、もう十分だった。
そう言い聞かせながら、でも胸の奥がじわじわと痛むのを、私はどうすることもできなかった。