早朝。
リディアは、まだ眠りから覚めきらないまま、廊下を走っていた。
侍医団の助手が、部屋の扉を激しく叩いて起こしたのは、ほんの数分前だ。
「侍医長が、緊急召集です! すぐに来てください!」
リディアは、着替える間もなく、廊下を駆けた。
侍医団の控室に着くと、扉が開け放たれていた。
中には、侍医長と数人の侍医たちが集まっている。
「リディア、来たか」
侍医長は、疲労困憊した顔でリディアを見た。
「陛下の容態が、急激に悪化された。今すぐ、治療薬を調合せねばならん」
リディアは、息を呑んだ。
「悪化……ですか?」
「昨夜から、意識が混濁し始めた。このままでは……」
侍医長は、言葉を濁した。
リディアは、拳を握った。
やはり、薬物中毒だ。
セレナの薬が、国王を蝕んでいる。
「リディア、お前は薬草の知識がある。何か、陛下を救う方法はないか?」
侍医長が、リディアに問いかけた。
リディアは、一瞬躊躇した。
だが、意を決して口を開いた。
「侍医長、私には……一つ、提案があります」
「言ってみよ」
リディアは、深呼吸をした。
「陛下の症状は、薬物の過剰摂取による中毒症状に似ています。ですから、まずは解毒が必要です」
侍医たちが、ざわめいた。
「解毒? 陛下は、毒など盛られていないぞ」
「いえ、薬も、使い方を誤れば毒になります」
リディアは、続けた。
「解毒薬と共に、栄養補給の薬草を併用します。陛下の体力を回復させながら、体内の毒素を排出させるのです」
「そんな方法が、あるのか?」
侍医長が、眉をひそめた。
「はい。前世……いえ、私が学んだ薬学では、このような複合療法が有効とされています」
リディアは、必死に説明した。
「具体的には、白い根草を煎じた解毒薬と、黄色い花の栄養薬を——」
「待ちなさい」
声が、割り込んだ。
リディアは、振り向いた。
セレナが、控室の入口に立っていた。
豪華なドレスを着て、優雅に微笑んでいる。
「セレナ殿」
侍医長が、頭を下げた。
「お呼びしていないが……」
「陛下の容態が悪化したと聞いて、駆けつけましたの」
セレナは、部屋の中に入ってきた。そして、リディアを見た。
「リディア、今、何を言っていたの?」
「解毒と栄養補給の、複合療法を提案していました」
リディアは、セレナの目を見て答えた。
セレナは、鼻で笑った。
「まあ。素人の暴走ね」
「素人……?」
「そうよ。あなた、薬学の基本を理解していないのね」
セレナは、侍医長の方を向いた。
「侍医長、陛下に必要なのは、解毒などではありません。魔力強化薬です」
「魔力強化薬……?」
「そうです。陛下の体力が衰えているのは、魔力が不足しているからです。ですから、魔力を補充すれば、容態は回復します」
セレナは、懐から小瓶を取り出した。
中には、鮮やかな赤い液体が入っている。
「これが、私が調合した最高級の魔力強化薬です。これを陛下に投与すれば、すぐに回復されるでしょう」
侍医たちが、セレナの小瓶を見つめた。
「ですが、セレナ様」
リディアが、声を上げた。
「陛下の症状は、魔力不足ではなく、薬物の過剰摂取によるものです。さらに魔力強化薬を投与すれば、症状が悪化する可能性が——」
「可能性?」
セレナは、冷たく笑った。
「あなた、可能性で陛下の命を危険に晒すつもり? 私の薬は、確実に効果があるのよ」
「でも——」
「リディア」
侍医長が、リディアを遮った。
「セレナ殿の言う通りだ。魔力強化薬は、これまで陛下に効果があった。今回も、それを使うべきだろう」
リディアは、息を呑んだ。
「侍医長、お願いです。少なくとも、解毒薬を試してから——」
「リディア、お前の提案は聞いた。だが、今は確実な方法を取るべきだ」
侍医長は、セレナの方を向いた。
「セレナ殿、その薬を、陛下に投与してくれ」
「喜んで」
セレナは、微笑んだ。
そして、リディアを見た。
その目には、勝利の色が浮かんでいる。
リディアは、唇を噛んだ。
拳を、握る。
爪が、掌に食い込む。
痛みが、走る。
だが、それ以上に、胸が痛かった。
無力だ。
何も、できない。
リディアの提案は、却下された。
セレナの薬が、採用された。
そして、国王は——。
リディアは、震えた。
無力感が、全身を包む。
セレナは、侍医長と共に、国王の寝室へと向かった。
リディアは、控室に一人残された。
侍医たちも、ぞろぞろと寝室の方へ歩いて行く。
リディアは、その場に立ち尽くしていた。
拳を、握ったまま。
唇を、噛んだまま。
ただ、震えていた。
数日後。
王宮は、混乱に包まれていた。
廊下を歩く貴族たちの顔は、皆一様に青ざめている。
「陛下が、昏睡状態に……」
「一体、何が起こったのだ?」
「誰かが、陛下を……」
囁き声が、廊下中に満ちていた。
リディアは、薬房の隅で、在庫整理をしていた。
だが、手が震えて、薬草の瓶をうまく持てない。
国王は、セレナの魔力強化薬を投与された。
そして、一時的に回復したかに見えた。
だが、それは束の間のことだった。
翌日、国王の容態は急激に悪化した。
意識を失い、今は昏睡状態に陥っている。
リディアは、それを聞いた時、全身が凍りついた。
やはり、薬物中毒だ。
セレナの薬が、国王を殺そうとしている。
「リディア様」
声がして、リディアは振り向いた。
侍医団の助手が、青い顔で立っている。
「謁見の間に、来てください。すぐに」
「謁見の間……?」
「はい。侍医長と、セレナ様が、お待ちです」
リディアは、胸騒ぎを覚えた。
だが、従うしかない。
リディアは、助手の後を追った。
謁見の間は、貴族たちで溢れかえっていた。
壇上には、侍医長とセレナが立っている。
そして、その隣には、アルヴィンの姿もあった。
リディアは、入口で立ち止まった。
セレナが、リディアを見た。
その目は、冷たく笑っている。
「リディア、こちらへ」
侍医長が、リディアを手招いた。
リディアは、貴族たちの間を歩いた。
彼らは、リディアを見て、ひそひそと囁き合う。
「あれが、リディアか……」
「第3王子の婚約者だった……」
リディアは、壇上の前に立った。
侍医長は、重い表情で口を開いた。
「リディア・アーシェンフェルト。陛下の容態悪化について、説明を求める」
リディアは、息を呑んだ。
「説明……ですか?」
「そうだ。陛下に投与した薬草に、問題があったのではないかと……」
「いいえ、私は——」
「リディア」
セレナが、優雅に割り込んだ。
「あなた、薬草の仕入れを担当していたわね?」
「はい、ですが——」
「その薬草に、誤りがあったのではないかしら?」
セレナは、貴族たちの方を向いた。
「皆様、実は私、調査いたしましたの。そして、わかったのです。リディアが仕入れた薬草の中に、毒性の高いものが混入していたことを」
貴族たちが、ざわめいた。
「毒性……?」
「本当か?」
リディアは、顔が青ざめた。
「そんな……そんなことは……」
「証拠もありますわ」
セレナは、羊皮紙を取り出した。
「これが、リディアの仕入れリストです。ここに、本来使ってはならない薬草の名前が記されています」
侍医長が、羊皮紙を受け取り、目を通した。
そして、リディアを見た。
「リディア、これは本当か?」
「いえ、私はそんな薬草を仕入れていません! それは偽造です!」
リディアは、必死に訴えた。
だが、セレナは冷たく微笑んだ。
「偽造? あなた、自分の過ちを認めないつもり?」
「私は過ちなど犯していません!」
「では、誰が陛下を、このような状態にしたというの?」
セレナの声が、鋭くなった。
リディアは、息を呑んだ。
言えない。
セレナが犯人だと、証拠もなしに言えば、逆にリディアが嘘つき呼ばわりされる。
「リディア」
アルヴィンが、口を開いた。
リディアは、彼を見た。
アルヴィンは、冷たい目でリディアを見ていた。
「婚約者として、責任を取ってもらう」
「アルヴィン様……」
「今、ここで宣言する」
アルヴィンは、貴族たちの方を向いた。
「リディア・アーシェンフェルトとの婚約を、破棄する」
貴族たちが、どよめいた。
リディアは、その場に立ち尽くした。
婚約破棄。
公式に。
民衆の前で。
「婚約者の不始末は、俺の責任でもある。だが、これ以上、彼女を庇うことはできない」
アルヴィンは、そう言い放った。
リディアは、拳を握った。
爪が、掌に食い込む。
「リディア・アーシェンフェルト」
侍医長が、厳かに言った。
「お前を、陛下毒殺未遂の容疑で、追放する」
貴族たちが、一斉にリディアを見た。
そして、誰かが叫んだ。
「毒殺者!」
石が、飛んできた。
リディアの頬に、当たる。
痛みが、走る。
「陛下を殺そうとした!」
「許せない!」
次々と、石が飛んでくる。
リディアは、腕で顔を覆った。
石が、腕に当たる。
痛い。
だが、それ以上に、心が痛かった。
「毒殺者!」
「追放しろ!」
「死刑にしろ!」
罵声が、リディアを包む。
リディアは、涙をこらえた。
泣かない。
ここで泣いたら、認めたことになる。
リディアは、歯を食いしばった。
石が、また飛んでくる。
リディアの額に当たり、血が流れる。
リディアは、膝をついた。
貴族たちが、さらに石を投げる。
リディアは、ただ耐えた。
壇上で、セレナが微笑んでいる。
アルヴィンは、無表情だ。
侍医長は、目を逸らしている。
誰も、リディアを助けない。
誰も、信じてくれない。
リディアは、拳を握った。
血が、掌から滴り落ちる。
だが、涙は、流さなかった。
夜。
リディアは、牢屋の冷たい石床に座っていた。
暗闇の中、わずかな月明かりが、鉄格子の隙間から差し込んでいる。
リディアの手首と足首には、鎖がつけられていた。
重い。
冷たい。
リディアは、壁に背中を預けた。
額の傷が、まだ痛む。
頬も、腕も、石で打たれた跡が残っている。
だが、体の痛みよりも、心の痛みの方が大きかった。
婚約破棄。
追放。
毒殺者。
リディアは、目を閉じた。
前世と、同じだ。
誰も、信じてくれない。
真実を訴えても、誰も聞いてくれない。
リディアは、拳を握った。
鎖が、音を立てる。
朝。
牢屋の扉が、開いた。
衛兵が、二人入ってくる。
「リディア・アーシェンフェルト、立て」
リディアは、立ち上がった。
体が、重い。
一晩中、眠れなかった。
「判決が下された。辺境追放だ」
衛兵が、無表情に告げた。
「辺境……」
「北の果て、荒野の地だ。お前はそこへ護送される」
リディアは、唇を噛んだ。
辺境追放。
事実上の、死刑宣告だ。
荒野には、魔獣が徘徊している。食料も水も乏しい。そこで生き延びることは、ほぼ不可能だ。
「わかりました」
リディアは、小さく答えた。
衛兵は、鎖を外し、リディアを牢屋の外へ連れ出した。
廊下を歩く。
冷たい石壁が、両側に続いている。
「リディア」
声がして、リディアは足を止めた。
廊下の向こうから、一人の女性が歩いてくる。
セレナだ。
豪華なドレスを着て、優雅に微笑んでいる。
「セレナ様……」
衛兵が、頭を下げた。
「少し、彼女と話がしたいの。よろしいかしら?」
「はい、どうぞ」
衛兵たちは、少し離れた場所へ下がった。
セレナは、リディアの前に立った。
そして、微笑んだ。
「リディア、元気そうね」
リディアは、何も言わなかった。
セレナは、リディアの顔を見つめた。
「傷だらけね。可哀想に」
だが、その声には、同情のかけらもない。
セレナは、声を潜めた。
「あなたは、邪魔だったの」
リディアは、息を呑んだ。
「邪魔……?」
「そうよ。あなた、余計な詮索をしていたでしょう? 私の秘薬のこと、国王陛下のこと」
セレナの目が、冷たく光った。
「だから、消す必要があったの。消えてくれて、助かるわ」
リディアは、怒りで震えた。
「あなた……国王陛下を……」
「ええ、私よ」
セレナは、あっさりと認めた。
「陛下は、もう長くない。そして、次の王は……アルヴィン様が相応しいわ」
「あなた……!」
リディアは、セレナに掴みかかろうとした。
だが、鎖が体を引っ張る。
リディアは、その場で倒れそうになった。
セレナは、笑った。
「無駄よ、リディア。あなたには、もう何もできない」
セレナは、踵を返した。
「さようなら、リディア。二度と、会うことはないでしょうね」
セレナは、廊下を優雅に歩いて行った。
リディアは、その背中を睨みつけた。
拳を、握る。
だが、リディアは、何も言えなかった。
鎖が、体を縛っている。
無力だ。
セレナは、廊下の向こうへ消えた。
衛兵たちが、再びリディアの元へ来た。
「行くぞ」
リディアは、引きずられるように歩き出した。
牢屋の外。
護送馬車が、待っていた。
黒い、囚人用の馬車だ。
護送兵が、数人立っている。
「リディア・アーシェンフェルト、これより辺境へ護送する」
兵士の一人が、リディアの手首に手錠をかけた。
冷たい金属が、肌に食い込む。
リディアは、馬車の荷台に乗せられた。
荷台は、狭く、暗い。
窓もない。
リディアは、隅に座った。
馬車が、動き出した。
ガタガタと、揺れる。
リディアは、荷台の隙間から、外を見た。
王宮が、遠ざかっていく。
白い石造りの、美しい城。
だが、その中には、腐敗がある。
セレナの陰謀。
アルヴィンの裏切り。
リディアは、拳を握った。
いつか、戻ってくる。
いつか、真実を証明する。
セレナを、許さない。
アルヴィンも、許さない。
リディアは、王宮を睨みつけた。
馬車は、門をくぐり、王都を出た。
王宮が、視界から消える。
リディアは、手錠をつけられた手を見た。
鎖が、揺れている。
リディアは、小さく呟いた。
「いつか、真実を証明する」
その声は、誰にも聞こえない。
だが、リディアの心には、確かに刻まれた。
馬車は、荒野へと向かって、走り続けた。