数週間後。
カイル邸の庭。
リディアは、応接室の窓から庭を見ていた。
そこには——。
エリスが、走っていた。
本当に、走っていた。
小さな体で、庭を駆け回っている。
銀色の髪が、風になびいている。
エリスの顔は、笑顔で輝いている。
「パパ、見て! 私、こんなに走れるよ!」
エリスの声が、庭に響く。
リディアは、涙が込み上げた。
8年間。
8年間、エリスはベッドに臥せっていた。
だが、今——。
エリスは、走っている。
笑っている。
生きている。
リディアは、窓に手をついた。
胸が、熱い。
その時。
応接室の扉が、開いた。
カイルが、入ってきた。
カイルは、窓の外を見た。
エリスが、庭で笑っている姿を見た。
カイルは、立ち尽くした。
その目が、潤んでいる。
カイルは、何も言わなかった。
ただ、エリスを見つめていた。
使用人たちも、庭に集まっている。
彼らも、驚愕の表情だ。
「エリス様が……走っている……」
「信じられない……」
「奇跡だ……」
使用人たちが、口々に囁く。
カイルは、窓に近づいた。
リディアの隣に立つ。
そして、リディアを見た。
「リディア」
カイルの声が、震えている。
リディアは、カイルを見た。
カイルは、リディアの肩を掴んだ。
そして——。
抱きしめた。
リディアは、驚いた。
カイルが、リディアを抱きしめている。
強く。
まるで、感謝を全身で表すかのように。
「お前は……奇跡を起こした……」
カイルの声が、リディアの耳元で震えた。
「8年間……8年間、俺は娘が走る姿を見ることができなかった……」
カイルの肩が、震えている。
「だが……お前が来てから……娘は変わった……」
カイルは、リディアを離した。
そして、リディアの目を見た。
カイルの目には、涙が浮かんでいた。
「ありがとう……本当に……ありがとう……」
リディアは、涙が溢れた。
「カイル様……」
その時。
庭から、声が聞こえた。
「パパ! リディア先生!」
エリスが、窓の下で手を振っている。
カイルとリディアは、窓を開けた。
エリスは、笑顔で叫んだ。
「パパ、見て! 私、こんなに元気だよ!」
カイルは、窓から身を乗り出した。
「ああ、見ているぞ、エリス!」
カイルの声が、明るい。
リディアは、初めて聞く、カイルの明るい声だった。
エリスは、リディアに向かって叫んだ。
「リディア先生! ありがとう!」
「リディア先生のおかげで、私、元気になったよ!」
エリスは、無邪気に笑った。
「リディア先生、ずっといてね! ずっと一緒にいてね!」
リディアは、涙を拭った。
そして、窓から叫んだ。
「ええ! ずっといるわ、エリスちゃん!」
エリスは、嬉しそうに跳ねた。
「やった! 約束だよ!」
カイルは、窓を閉めた。
そして、リディアを見た。
「リディア、治療は……完了したのか?」
リディアは、首を横に振った。
「いいえ。治療は、まだ続きます」
リディアは、真剣な顔で言った。
「ですが、峠は越えました。エリス様は、もう危険な状態ではありません」
カイルは、深く息を吐いた。
「そうか……」
カイルは、リディアの肩に手を置いた。
「お前は、約束を果たした」
リディアは、頷いた。
カイルは、真剣な顔で言った。
「ならば、俺も約束を果たす」
カイルは、リディアの目を見た。
「約束通り、お前を辺境に連れて行く」
リディアは、息を呑んだ。
「カイル様……」
「準備をしろ」
カイルは、断言した。
「明日にでも、出発する」
リディアは、驚いた。
「明日……?」
「ああ。お前は、セレナに狙われている」
カイルの目が、鋭くなった。
「一刻も早く、お前を安全な場所に連れて行かねばならない」
リディアは、頷いた。
「わかりました」
カイルは、リディアの手を取った。
「俺は、お前を守ると誓った」
カイルの手が、温かい。
「必ず、守る」
リディアは、涙が溢れた。
「ありがとうございます……カイル様……」
カイルは、わずかに微笑んだ。
「もう、カイルでいい」
リディアは、頬を染めた。
「では……カイル……様」
カイルは、リディアの頭を撫でた。
「明日、迎えに来る。準備をしておけ」
リディアは、頷いた。
「はい」
カイルは、応接室を出て行った。
リディアは、一人残された。
窓の外を見る。
エリスが、まだ庭で遊んでいる。
笑顔で、跳ね回っている。
リディアは、微笑んだ。
やっと、ここまで来た。
エリスを、救った。
カイルの信頼を、得た。
そして、辺境へ。
リディアの、新しい人生が始まる。
翌日。
昼下がり。
リディアは、王宮薬房にいた。
マリが、薬草の整理をしている。
リディアは、マリに近づいた。
「マリ」
マリは、振り向いた。
「リディア様、どうされましたか?」
リディアは、周囲を見回した。
他に、誰もいない。
リディアは、懐から封筒を取り出した。
「これを、預かってほしいの」
マリは、封筒を見た。
「これは……?」
「手紙よ。セレナの秘薬について、書いたの」
マリは、息を呑んだ。
「セレナ様の……?」
リディアは、頷いた。
「この手紙には、セレナの秘薬の危険性が書かれているわ」
リディアは、真剣な顔でマリを見た。
「もし、私に何かあったら、この手紙を侍医長に渡して」
マリは、顔面蒼白になった。
「リディア様……何かって……」
「大丈夫」
リディアは、微笑んだ。
「何も起こらないと思うわ。でも、念のため」
マリは、封筒を受け取った。
だが、不安そうだ。
「本当に、大丈夫ですか?」
リディアは、マリの手を取った。
「信じて、マリ」
マリは、涙を浮かべた。
「リディア様……」
「ありがとう、マリ。あなたは、私の大切な友達よ」
リディアは、マリを抱きしめた。
マリは、泣いた。
「リディア様……どうか、ご無事で……」
リディアは、マリを離した。
そして、微笑んだ。
「大丈夫。必ず、戻ってくるから」
リディアは、薬房を出た。
自室へ、向かう。
リディアの自室。
リディアは、荷物をまとめていた。
小さな鞄に、必要最小限のものだけを詰める。
薬学ノート。
前世の知識が書かれた、唯一の宝物。
それと、数枚の着替え。
そして、セレナの秘薬のサンプル。
リディアは、部屋を見回した。
この部屋で、リディアは苦しんだ。
孤独に、耐えた。
だが、もう戻ってこないかもしれない。
リディアは、机に向かった。
羊皮紙を取り出し、手紙を書き始めた。
「アルヴィン様へ」
リディアは、ペンを走らせた。
「突然のご連絡、失礼いたします」
「私は、療養のため、一時王宮を離れることにいたしました」
「体調が優れず、静養が必要と判断いたしました」
「ご心配をおかけして、申し訳ございません」
「回復次第、また王宮に戻ります」
「リディア・アーシェンフェルト」
リディアは、手紙を読み返した。
形式的な、嘘の手紙だ。
だが、これでいい。
アルヴィンは、どうせ気にしない。
リディアは、手紙を封筒に入れた。
そして、机の上に置いた。
リディアは、鞄を手に取った。
部屋を、最後に見回す。
さようなら。
リディアは、部屋を出た。
夜。
王宮の裏門。
リディアは、黒いマントを羽織り、裏門に立っていた。
周囲は、暗い。
月明かりだけが、道を照らしている。
リディアは、息を潜めた。
まもなく、カイルが来る。
リディアは、緊張で手が震えていた。
その時。
馬車の音が、聞こえた。
リディアは、顔を上げた。
黒い馬車が、裏門の前に止まった。
御者台に、カイルが座っている。
カイルは、リディアを見た。
「乗れ」
リディアは、急いで馬車に乗り込んだ。
馬車の中は、狭い。
だが、快適だ。
カイルが、馬車を動かした。
馬車は、静かに王宮を離れていく。
リディアは、窓から外を見た。
王宮が、遠ざかっていく。
白い石造りの、美しい城。
だが、その中には、腐敗がある。
セレナの陰謀。
国王の毒殺。
リディアは、唇を強く結んだ。
必ず、戻ってくる。
証拠を揃えて。
味方を集めて。
そして、セレナを止める。
真実を、明らかにする。
リディアは、心の中で誓った。
馬車は、王都の門を出た。
街を抜け、郊外へ。
リディアは、王宮を振り返った。
もう、見えない。
闇に、消えた。
リディアは、前を向いた。
辺境へ。
リディアの、新しい戦いが始まる場所へ。
馬車は、夜道を走り続けた。
馬車の中。
リディアは、座席に座っていた。
向かい側には、エリスが座っている。
エリスは、興奮して窓の外を見ている。
「リディア先生、見て! お月様がきれい!」
リディアは、微笑んだ。
「本当ね、エリスちゃん」
馬車は、夜道を走り続けていた。
カイルは、御者台で馬を操っている。
しばらくして、カイルが馬車の中に入ってきた。
手綱を、部下に任せたのだろう。
カイルは、リディアの隣に座った。
「疲れたか?」
リディアは、首を横に振った。
「いいえ、大丈夫です」
カイルは、窓の外を見た。
「辺境は、厳しい土地だ」
リディアは、カイルを見た。
カイルは、続けた。
「王都のような華やかさはない。冬は厳しく、夏は暑い」
「だが——」
カイルは、リディアを見た。
「お前の才能を、活かせる場所だ」
リディアは、胸が熱くなった。
「ありがとうございます」
カイルは、真剣な顔で言った。
「俺の領地には、病に苦しむ者が多い。お前の力が、必要だ」
リディアは、頷いた。
「はい。私にできることは、全てします」
カイルは、リディアの目を見た。
「お前は、何故そこまで薬学に熱心なのだ?」
リディアは、少し考えた。
そして、答えた。
「私は……人を救いたいのです」
リディアの声が、真剣だ。
「前世……いえ、昔、私は人を救えなかった」
リディアは、拳を握った。
「真実を訴えても、誰も信じてくれなかった」
「患者たちは、苦しみ続けた」
「私は、無力だった」
リディアは、カイルの目を見た。
「だから、今度こそ、救いたい」
「私はもう、犠牲者ではない」
リディアの目が、輝いた。
「戦う者です」
カイルは、しばらくリディアを見つめていた。
そして——。
微笑んだ。
リディアは、驚いた。
カイルが、笑っている。
初めて見る、カイルの笑顔だった。
「気に入った」
カイルは、リディアの肩を叩いた。
「お前は、俺の領地の薬師長だ」
リディアは、目を見開いた。
「薬師長……?」
「ああ。お前には、領地の医療を任せる」
カイルは、断言した。
「お前の好きなように、やれ」
リディアは、涙が込み上げた。
「ありがとうございます……」
カイルは、再び窓の外を見た。
「俺は、お前を信じている」
その言葉に、リディアは胸が熱くなった。
信じている。
カイルは、リディアを信じてくれている。
リディアは、微笑んだ。
その時。
小さな寝息が、聞こえた。
リディアは、エリスを見た。
エリスは、座席で眠っていた。
小さな体を丸めて、静かに眠っている。
リディアは、エリスに近づいた。
そして、毛布をかけてあげた。
エリスの銀色の髪を、優しく撫でる。
エリスは、微笑んで眠っている。
リディアは、涙が溢れた。
この子を、救えた。
カイルの信頼を、得た。
そして、新しい場所で、新しい人生を始める。
リディアは、窓の外を見た。
空が、明るくなってきている。
夜明けだ。
東の空が、オレンジ色に染まっている。
太陽が、昇ろうとしている。
リディアは、その光を見つめた。
新しい人生が、始まる。
辺境で、リディアは人々を救う。
薬学を、広める。
そして、いつか——。
いつか、王宮に戻る。
証拠を揃えて。
味方を集めて。
セレナを止める。
真実を、明らかにする。
リディアは、拳を握った。
決意が、リディアの心を満たした。
カイルは、リディアを見た。
「何を考えている?」
リディアは、カイルを見た。
そして、微笑んだ。
「未来を、考えています」
カイルは、わずかに頷いた。
「いい顔だ」
馬車は、走り続けた。
朝日が、馬車を照らす。
温かい、希望の光。
リディアは、その光を浴びながら、前を見つめた。
新しい人生。
新しい戦い。
そして、新しい希望。
リディアは、もう迷わない。
リディアは、戦う。
人を救うために。
真実を明らかにするために。
そして、自分自身のために。
馬車は、辺境へと向かって、走り続けた。