まぶしい光が、瞼の奥に差し込む。


咲(さき)はゆっくりと目を開けた。


そこは――ホテルではなかった。


見慣れた、けれどどこか懐かしい街の景色。


朝の光に包まれたカーテンの向こうで、通学途中の子どもたちの声が聞こえる。


(……夢?)


胸の奥で、何かが静かに脈打つ。


昨日までの出来事が、断片のように浮かぶ。


霧のホテル。

選択を迫る声。


蓮。

――そして、あのキス。

(全部、夢……なの?)

咲は起き上がり、ぼんやりとした頭を抱えた。


机の上に、離婚届のコピーが置かれている。


日付は、3年前。


そこに書かれた“桐原蓮”の署名を見た瞬間、
胸がぎゅっと締めつけられた。


けれど、その文字が滲むほどに、
あの夜の温もりが蘇る。


(もう一度……会いたい。)



外に出ると、朝の風が頬を撫でた。


青空の下、街路樹の葉が金色に輝く。


ふと、向かいのカフェの前で足が止まる。


開店準備をしている男性が、背を向けて立っていた。


白いシャツの背中。


少しだけ寝癖の残る髪。


その姿に、心臓が跳ねる。


(まさか――)


男が振り返った。


目が合った瞬間、時間が止まる。


「……咲?」


声を聞いた瞬間、涙が溢れた。


何年分もの想いが、胸の奥で弾けた。


「蓮……さん……」


蓮も同じように驚いた表情をしていた。


けれど、すぐに、優しく微笑んだ。


「偶然だな。
 引っ越してきて、今日が初めての朝なんだ。
 ……まさか、君に会うとは思わなかった。」
「私も……夢みたい。」


二人の間を、朝の風がすり抜けていく。


通り過ぎる人々の声が遠くに聞こえる。


けれど、咲には何も入ってこなかった。


ただ、目の前の彼の瞳だけが、現実のすべてだった。


「この間、変な夢を見たんだ。」


蓮が呟いた。


「白い霧の中で、君ともう一度出会って……
 “やり直したい”って言われた。
 馬鹿みたいだけど、あの夢の後、
 もう一度、君に謝りたいって思って、ここに来たんだ。」


咲の喉が詰まった。


言葉にならない想いが、ただ溢れる。


「……私も、同じ夢を見たの。
 そして、同じことを思ったの。
 “やり直したい”って。」


二人は、しばらく何も言わなかった。


でも、言葉がなくても、通じるものがあった。


蓮が一歩、近づく。


手を伸ばしかけて、少しだけためらい、
それでもそっと咲の頬に触れた。


あの夜と同じ温もり。


心臓が、また同じリズムで打ち始めた。


「……もう一度、恋をしようか。」


咲は泣きながら笑った。


「うん。初めましてからでも、何度でも。」


二人は微笑み合った。


朝の光が二人の影を重ねる。


遠くで教会の鐘が鳴った。


まるで、神が“もう一度の朝”を祝福しているように。

咲はそっと目を閉じた。


あの霧の夜の声が、どこかで囁く。

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“愛とは、終わることのない選択。
何度でも選び直せる者に、真の朝が訪れる。”
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目を開けた時、
蓮の笑顔がそこにあった。

もう二度と、離さないように。



― End ―