足元に広がるのは、真っ白な霧。


咲(さき)は、自分がどこにいるのかも分からなかった。


けれど、胸の奥に残るあの温もり――
蓮(れん)の手の感触だけは、はっきりと覚えている。


「……ここ、どこ……?」


声が霧に溶けて消える。


そのとき――背後から、誰かの足音。

「咲。」

振り向いた瞬間、胸が熱くなる。


霧の向こうから現れたのは、蓮。


あの日と同じ、少し不器用な微笑み。


「……蓮……さん。」


彼の名を呼ぶと、涙がにじんだ。


心が先に覚えていた。


理屈じゃなく、魂が“この人”を知っていた。


蓮が一歩、近づく。


その表情には、何かを思い出したような揺らぎがあった。


「……君を見たときから、不思議だった。
 知らないはずなのに、どうしても心が痛む。
 ――さっき、やっと思い出したんだ。」


咲は息を止めた。


蓮は静かに手を伸ばす。
その掌が咲の頬に触れた瞬間、光が溢れた。

目の前に、次々と過去の映像が流れる。

――春の公園で笑う彼。


――小さな女の子が「パパ」と呼んで駆け寄る。


――台所で並んで料理をして、喧嘩して、笑って。


――そして、離婚届の前で泣き崩れた自分。


「やっと……思い出した。」


咲は泣きながら笑った。


「あなたは、私の――旦那さん。」

蓮の瞳が揺れた。


涙が溢れそうになりながら、彼は咲を抱きしめた。


「そうだ。
 俺は君を愛してた。
 それなのに、守れなかった。
 仕事ばかりで、君の寂しさに気づけなかった。
 あの時、離婚届にサインした瞬間、何かが壊れたんだ。」


「でも、私も同じ。
 あなたの背中に言えなかった“ごめん”と“ありがとう”を
 ずっと喉の奥にしまいこんでたの。」

二人の涙が重なる。


それは悲しみじゃなく、やっと出会えた“救い”の涙。


そのとき、空に響く声。


“試練を越えし者よ。

愛とは記憶にあらず、選択なり。


過去を選ぶか、未来を選ぶか――今、心で答えよ。”


霧の中に光の輪が浮かぶ。


そこを通れば、現実へ戻れるという。


蓮は咲の手を握った。


「……もし戻っても、また君とやり直せるのかは分からない。
 でも、今度は逃げない。何度でも君を探す。」


咲は小さく笑って、彼の手を握り返した。


「私も、もう一度あなたに恋したい。
 “初めまして”からでも、何度でも。」


光が強くなる。


二人の距離が近づいて――
唇が、そっと触れた。


短い、けれど確かなキス。


それは“再会”の証であり、“約束”の印だった。


霧がゆっくりと晴れていく。


他の男女たちも、それぞれの選択を終えていた。


涙で別れる者、微笑んで抱き合う者――。


そして神の声が最後に告げる。


“愛とは、痛みを抱えながらも誰かを選ぶ勇気。
それを持つ者に、朝が訪れる。”


光に包まれ、世界が白く消えていった。